第3幕
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***
猫が行く先は驚くほど無人だった。構成員の誰一人とも遭遇しない。まるでポートマフィア構成員一人一人の動きを読んでいるかのように、猫は淡々と安全な道でどこかへ向かっていく。
やがて猫は扉の前で立ち止まった。くるりとこちらを向き、ちょこんと座り込む。ここが目的地らしい。猫から扉へと目を移し、クリスはそっと歩み寄った。
人気のない、倉庫を思わせる両開きの扉だ。鍵はかかっていたが、胸ポケットに忍ばせていたピンで解錠した。ガラ、と扉を引き開ける。
照明が点いていない暗い中でも、その部屋が何かはすぐにわかった。立ち並ぶ本棚、そこに詰め込まれたファイルの背表紙、床を埋め尽くす端の折れた紙束。埃の立たない静寂が、しばらく人の出入りがなかったことを告げている。
扉を閉め、鍵をかける。静けさを壊さないよう、足音を忍ばせる。
「……資料保管室……」
見取り図では空き部屋となっていたはずだが、どうやら物置と化していたらしい。古い資料をまとめて置いておく場所なのだろう。ちらりと見れば、領収書や納品書などが目に入る。異能や犯罪に関する重要な資料は置かれていなさそうだ。
「……ここの窓からじゃ森さんの部屋には行けないな」
「外からの侵入を試みるか、若いの」
突然聞こえてきた声に息を呑む。左腰に提げた拳銃を引き抜き、振り向きざまにそれを向けた。
資料が山積みになった机の端に、男が足を組んで座っている。妙齢の髭のある男だ、杖を手にし、ケープで上半身を覆っている。
銃口を向けつつ、男を隅から隅まで観察する。見たところ普通の人間だ。けれど、今の今までこの男の存在に気付かなかった。記憶していたデータによると、ポートマフィアにこのような人物はいない。
何者なのか。
「安心せい、儂はただの爺じゃ。少しばかり、昔話をしたくてな」
「……昔話?」
銃を向けられているというのに、男は余裕のある笑みすら浮かべている。ただ者ではない。その余裕は、殺されるわけがないという根拠のない過剰な自信から来るものではなかった。
この男は、今向けられている拳銃の安全装置が外されていないことを、そしてクリスがそれを外せないことを見抜いている。銃声はポートマフィアにクリスの居場所を教えてしまうからだ。
「遠き昔、とある街は夜に支配されておった。抗争は止まず、暴力が他者を虐げ、不穏が人々を食っていてのう。男はそれを正すため、とある構想の実現を図った」
あの時は大変じゃった、と遠い目をしながらぶつくさと文句を漏らし、しかしすぐに男は咳払いで話題を戻す。
「この世界は太陽が規則正しく時を定めておる。昼、夕、夜。それに倣い、男はこの街に三刻を与えた。昼を軍警と異能特務課が、夜をポートマフィアが、夕刻を武装探偵社が取り仕切る構想――『三刻構想』をな」
「……その話とわたしに、何の関係がある」
「ポートマフィアは夜の管理者じゃ。要たる首領が消された時、夜は膨張し昼へと侵食する」
クリスは銃を下ろした。この男の目的がわかったからだ。
この男は、クリスを止めに来た。森を守るために、街を守るために。
「……この街のために森さんを諦めろと?」
「あれには儂から話をしておこう。でなくば今度こそ、三刻の均衡を壊されてしまうじゃろうからのう」
呑気に笑うがその眼差しは鋭い。その眼差しのまま、男はクリスを見据えてくる。
「代わりと言っては何じゃが、一つ頼みたいことがある」
「……頼みたいこと?」
「ドストエフスキーじゃ」
男が告げた名は、聞き覚えのあるものだった。
共喰いを仕掛けた張本人、《死の家の鼠》の頭目。澁澤の件で太宰と共に骸砦にいた、澁澤に異能者の情報を売った男。ホーソーンの今の主。
――『あなたには力がある』。
あの伝言を、二度に渡りクリスに言ってきた”鼠”。
「奴は今武装探偵社とポートマフィアを潰し合わせようとしておる。奴の手は巧妙じゃ、もはや罠の内部から奴の策略を壊すことは不可能。儂も動かねばと思っておってな、是非に協力を願い出たい」
「……わたしに利があるとは思えない」
「儂の腹を探るか、慎重じゃのう」
男の笑みは絶えない。
「その答えは儂が言うまでもあるまい。この街に魅入られた者ならば」
「……魅入られた者、か。わたしが」
軽く笑う。笑おうとして、それ以上が言えなくなる。
ここはクリスにとって目的地でも何でもない。ただ、偶然辿り着いただけの街だ。必要があれば旅立つし、必要があれば破壊する。その程度の。
――その程度であるはずの、場所。
人々が行き交う街並みも、夜を灯す街灯も、自らを呼ぶ声も、珍しいものではない。ない、はずなのに。
クリスちゃん、と。クリスさん、と。クリス、と。
声が、笑みが、脳裏でクリスを呼んでいる。常に、絶えなく、いつまでも。
ずっと。
「……街はなくなってもすぐに作り直せる。そんなもののためにわたしに迫る危険一つを野放しにしろ、というのは……横暴が過ぎるのでは?」
「そんなもの、か」
「わたしにはわからない。彼らがなぜ命を張ってまで守ろうとするのか、赤の他人がどれほど大切なのか、わたしには一生わからない」
――服を酷く汚した状態で駅から出てきた国木田の姿を思い出す。
爆弾なんて放置すれば良い。瀕死になるとわかっていて現場へ赴く必要などない。知らない人間数十人程度、自分の命惜しさに見殺しにしたって良いはずだ。
なのに、なぜ、彼らは。
彼は。
「街を守りたいなら、わたしを殺せば良い。ポートマフィアみたいにわたしを……ギルドに寝返ったのを理由にして、連続殺人事件の犯人として、殺せば良かった。なのにどうして」
どうして。
「……彼らは、わたしを生かしておきながら街を、人を守ろうとするのか……全然理解できない。矛盾してる。そうとしか思えない、そんなわたしが……この街のために森さんを見逃すと、本気で思っているのか」
「『普通を真似たいのなら真似れば良い』」
息を呑む。
聞いたことのある言葉だった。
忘れるはずのない言葉だった。
この男が知るはずもない言葉だった。
「名台詞じゃのう」
「……なぜ、それを」
「そして真理じゃ」
クリスの動揺に満ちた問いに答えず、男は言った。
――普通を真似たいのなら真似れば良い。
真似を。
普通の真似を。
探偵社の真似を。
「……無理だ。わたしには……」
できない。
できるはずもない。
街よりも守るべきものが、クリスにはある。
「いいや、できるとも」
男はにやりと笑った。
「三刻構想――裏社会のみに対する権限とはいえ特務課に並ぶ権力をマフィアに委ねるこの構想を、民間会社が警察に並び時に法を無視する権力を保持するこの構想を、政府の中に特務課という法を逸した”存在しない部署”を作るこの構想を、簡単に実現できたとはまさか思うまい?」
男の言いようにクリスは唖然とした。
この男は、不可能ではないと言っているのだ。
クリスが自分ではなく他人を優先することが――自分ではなく街を優先することが、不可能ではないと。
嘘だ、と言いたかった。けれどその例えを否定できるほどの根拠もなかった。
三刻構想というこの構想が非現実的であることなど、とうにわかっている。
呆然としたまま、クリスは男を見つめた。その嘘のない表情を、微動だにしない姿を、あまりにも知りすぎているこの男を見つめた。
「……ッ」
改めて銃口をそちらへと向ける。殺さなくてはいけない、と誰かが囁いてくる。
この男は、知りすぎている。きっと、知ってはいけない全てを知っている。
けれどそれ以上のことができなかった。銃口を前にしても動じずにいるこの不可解な男へ、引き金を引くことができなかった。
――殺せない。
この男はクリスを放置している。様子見でもなく泳がせているでもなく、放置している。
自分にとって害にならない存在だから。
この男にとっては、クリスなどその程度なのだ。
「……とんでもない御仁だな」
ため息に似せた畏怖の吐息をこぼし、銃をホルスターに戻した。男へ背を向けて窓辺へ歩み寄り、鍵を開ける。窓を開ければ、ふわ、と風が吹き込んできた。それを頰に受けつつ、クリスは再び部屋の中へ顔を向ける。
「一つ聞いても?」
男は机に座ったまま、微動だにしていない。
「あの猫はあなたの飼い猫?」
「さて、な」
男は笑い、目を向けてくる。心の奥底まで見透かすような、曇りのない目だった。
「……猫の御仁」
呼びかけ、クリスは男の視線を見返す。
「名を伺っても」
「何、大したことのない者よ」
言い、しかし男は続ける。
「儂の名は夏目漱石じゃ、湖畔の娘よ」
男を見つめ、その名と風貌を頭に叩き込んだ後、クリスは窓枠へと足を掛け迷わず飛び降りた。風が勢いよく下から吹き付けてくる。地上では黒服の構成員達がひしめいていた。クリスの襲撃を知り、病院から戻ってきているらしい。中也に仕掛けた盗聴器から察するに、探偵社は谷崎を人質に福沢を運び出し、ウイルス型異能の所持者を探し出す作戦に出た。が、谷崎を捨てたわけではないだろう。
コン、と宙に出現させた薄氷を踏み、すぐさまビルから離れる方向へと宙を跳んでいく。
「……乱歩さんにしては突発的なやり方だな」
森が襲われかけたと知ったら、ポートマフィアは人員を森の警護に割く。しかし谷崎相手に構成員数人では心許ない。最終手段として、ポートマフィアは人質を連れてポートマフィアビルに戻ってくる。乱歩はそれを見通して、人質に谷崎を指名したのだろう。
谷崎は難なくビルへ入り、隙を見て脱出、幻像の異能を駆使して森を狙う。警備が厳重になろうが谷崎には支障はない。わかりやすく先読みしにくい、究極の一手。
けれど――あの探偵社が、仲間一人を敵に明け渡すなんて。
「……今はそっちを考える時間じゃない」
軽く頭を振って思考を止め、コン、コン、と宙を跳んでいく。状況は変わった。標的は森からドストエフスキーへ。まずは情報収集からだ。ドストエフスキーという人物のことについて知らなすぎる。やることが変わった以上、傷の手当てもしなければならなかった。
ホテルへと一直線に向かう。宙を跳びながら、思う。
夏目は「罠の内部から奴の策略を壊すことは不可能」だと言っていた。しかし探偵社は今、ポートマフィアではなくウイルス型異能の所持者を探し出そうとしている。罠を内部から壊そうとしているのだ。この、どこかの誰かが仕組んだ殺し合いのゲームのルールを、変えようとしている。
――これ以上関わるな。
あの硬い声を思い出す。彼ならば、福沢も森も死なせないための手段を考え出すだろう。それが吉と出れば良いのだけれど、とふと思った自分に笑いそうになる。
あの人は強い人だ。何が何でも理想を貫こうとする。手を差し伸べるどころかその理想を壊しかねない自分が彼を心配するなど、思い違いも甚だしい。
頭を振って思考を掻き消す。今は、やるべきことだけを考えていたかった。