第3幕
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[Act 3, Scene 10]
中也の指示により、ポートマフィアに所属する大勢が福沢のいる病院へと詰めかけた。建物全体を包囲する、数の多さを最大限利用した奇襲攻撃。追い詰められた探偵社はいかにして福沢を守るのか。
「……難しい局面じゃのう」
ポートマフィアビルの中を歩きながら、紅葉は嘆息する。
ドストエフスキーの策略により、ポートマフィアは武装探偵社と全面的に対立することとなった。普段から商売敵ではあったが、今回はそれとは違う。どちらの組織が生き残るかという究極の問題に直結する事態だった。
紅葉にとって森はなくてはならない存在だ。森がいたからこそ、ポートマフィアは裏社会を牛耳りながらも秩序ある組織となっている。森が死ねば、またここは血濡れた戦場に逆戻りするのは明白。
けれど、と紅葉は柳眉を潜めて愛しい少女を思う。
「……探偵社がなくなれば鏡花の居場所もなくなる、か……」
鏡花がようやく手にいれた光の世界。それを奪うようなことはしたくはない。唯一の居場所たる探偵社が壊滅したのなら、あの少女は迷いなく暗殺の道に戻りポートマフィアへ刃を向けてくるだろう。命じられるがままに刃をかざした時とは違う、己の意思で人を殺める真の暗殺者となって。
「……鏡花」
あの子には殺しの才能がある。親譲りの才能だ。それをあの子は人を守るために使おうとしている。人の血にまみれる宿命を負うあの子がようやく手に入れた、希望という名の光。それをみすみす壊したくはない。
悩みながら、けれど紅葉は背筋を伸ばして廊下を歩く。行き交う構成員の数はいつもより少ない。中也は隙なく敵を包囲し、何をしてでも森を助け出そうとしている。残念ながら現状、彼に全てを委ねるしか方法がなかった。
「紅葉様」
部下の一人が駆け寄ってくる。
「現在、病院の包囲が完了、これより突撃するとの報告が」
「……いよいよか」
中也のことだ、正面からあの破壊的な異能で突入し探偵社員のことごとくを倒すだろう。あれに敵う人間はそうそういない。探偵社側に太宰がいたならば何らかの対応がされただろうが、一報では太宰は狙撃により負傷、別の病院に搬送されたとのことだった。
「こちらも警戒を怠るな。探偵社以外にもボスの首を狙う輩は多い。ボスが倒れたという情報は秘匿してあるものの、鋭い者はポートマフィアの非常事態を察するじゃろう。――故に」
カッ、と靴音を鳴らして背後を振り返る。十字路状になっている曲がり角の影に潜む何者かへ、紅葉は声を低くした。
「……命じられておらぬ行動は慎め。どこへ行こうとしておったのじゃ?」
少しの躊躇いの後、それは紅葉の前へと姿を現した。見慣れない女性構成員だ。
「……申し訳ございません」
きっちりと腰を折り頭を下げてくる。
「本社ビルに立ち入ることは滅多にないので、道に迷ってしまいました」
「下級構成員かの」
「はい」
「……その先にはボスの寝所がある。そなたのような者が踏み入る場所ではない」
「申し訳ございません」
「良い。持ち場に戻れ」
再度謝罪の言葉を言い、女性構成員は紅葉の横を通り過ぎて行こうとする。紅葉もまた、何事もなかったかのように目を閉じた。
――瞬間、女性構成員の足が止まる。
「……とでも言うと思うてか」
紅葉はゆっくりと瞼を上げ、そちらを見遣る。鋭い刃の輝きが差し込んできた。
紅葉の異能【金色夜叉】が、女の首筋に刀の切っ先を当てている。事の成り行きを見ていた部下の構成員が慌てて銃を女に向けた。
背を向けたままの女を、紅葉は睨みつける。
「探偵社の手の者か、もしくは他の組織の者か……いずれにしろここまで忍び入って来たその技量は評価すべきじゃのう」
「……お褒めいただき、感謝いたします」
背を向けたまま女は平然と言う。正体が明かされたというのに、度胸がある。ただ者ではなさそうだ。
「この女を捕らえよ」
「はッ」
部下が頷き、銃を構えながら女に歩み寄る。
――何かが光を反射する。
血飛沫が弾け飛んだ。
「ぐあ……!」
四肢を投げ出し部下が倒れる。その全身には、いくつもの深い切り傷。
目に見えない何かが彼を切り刻んだのだ。
驚愕する間もなく女が動く。手にしていたナイフで夜叉の刃を弾き、しゃがみ込んでそのまま床を蹴り、後退。素早く距離を取った女に、紅葉はスッと目を細めた。
亜麻色の髪に、サングラスの向こうで輝く青の殺気。
会ったことはない。けれど、その女の話を森から、そして中也から聞いたことがある。
「――そなた、まさか」
言い切ることはできなかった。
低い姿勢のままこちらを睨み上げてくる女の服が、髪が、ぶわりと揺れる。瞬間、いくつもの弧状の何かが銀色に輝きながら迫ってきた。夜叉を呼び、それら全てを切り弾く。夜叉の刃に斬られた銀色は全て霧のように消えた。実態のない刃だ、けれど金色夜叉の剣技ならば問題ない。
――それを掻き消すだけならば。
銀の刃が全て失せた後の廊下には、あの女の姿はなかった。瞠目したのも束の間、背後に現れた気配に紅葉は身を翻して夜叉を向かわせる。
金色夜叉が刀を振り下ろす。鋼色に輝く残像がいくつも重なる。
――キイィン!
甲高い金属音は、二つの鋼が共鳴し合う音。夜叉の風を切る刃を、女はナイフで受け止めていた。
「……ッ」
カタカタと力がせめぎ合い刃が小刻みに震える。夜叉の猛攻を受け止めた女は、苦しげな面持ちを浮かべながらも顔を上げ、紅葉を見据えた。
「……夜叉使いの尾崎紅葉、か」
「金色夜叉の攻撃について来られるとは。珍しいおなごじゃ」
夜叉の剣技は並みの人間を上回る。連続して繰り出される突き、残像が幾重も重なる素早い斬り、余すことなく刃の鋭さを生かす力強さ。人を殺めるのに適した異能、それをこの女は受け止めた。
仮にもあの中也を追い詰めた者、ただ者ではなかったか。
「人のおらぬ時を狙ったか、ギルドの異能者よ」
「ギルドは関係ない」
「では探偵社か」
「違う」
女は光を知り光に焦がれた少女のように、強い眼差しで紅葉を睨み付ける。
「これは、わたしのための行動だ」
言い、突然女はフッと腕の力を抜き、半身引き下がる。女へと刃を押し込んでいた夜叉が前のめりになる。その隙に女は夜叉の脇下へと逃げ込み、死角からの攻撃を試みた。身軽さを生かした俊敏な動き。けれどそれに狼狽える紅葉ではない。
「甘いのう」
女が夜叉の死角へ移動した途端、夜叉は刀を薙いだ。大きな一振りを躱そうと女は体を引く。が、夜叉の切っ先は女ではなくナイフを捉え、迷いなく叩いた。刃が割れ欠片が飛び散る。予期しなかった衝撃がナイフを握っていた女の手を強打した。女が痛みと驚愕に一瞬身を硬くする。
それを、待っていた。
「刀は人を斬るのみに非ず、じゃ」
夜叉が刃を鋭く刺し込む。迫る刃に女が青を見開く。
一閃がその体を貫いた。
夜叉の刃がずるりと抜かれる。体を貫かれた女が床へ膝をついた。ぼたた、とおびただしい量の血がその足元を濡らす。
「ッ、く……」
痛みに耐えつつ、女は右肩口に手を当てた。その手はすぐさま血に汚れる。肘から床へ、血の雫が落ちる。
「おや、残念じゃ」
紅葉は冷ややかに笑った。
「心臓を狙ったはずであったがのう……おかげで死に損なったな、碧眼の」
不意を狙った攻撃だった。身を躱す暇さえ与えないほどの素早い突きだ。けれど、この女は不意を突かれたというのにすぐさま対処し、身を躱すではなく僅かに体をずらすことで心臓と肺が貫かれる事態を回避した。怪我を恐れない人間にしかできないことだ。普通の人間は”体が刺される”という恐怖で動けなくなる。致命傷か否かなどに関わらず痛みと出血を恐れるので、「せめて急所を外そう」などと考えることすらできるものではない。
この女、と紅葉は血溜まりに膝をつきながらもこちらを睥睨してくる青を見下ろす。
――もしや、思った以上に戦闘慣れしているか。
血溜まりは広がりを止めない。けれど女は、紅葉を睨み上げたまま機を窺っているようだった。その青は鋭く、生気を失わず、覇気すら秘めている。
「良い目じゃ」
これがもし生け捕りにしても良い相手だったのなら、さぞかし良い土産となっただろうに。
「惜しいのう」
紅葉の意志に従い、夜叉が刃を構え、振り下ろす。その斬撃は手負いの相手に向けるものとは思えないほどに素早く容赦がない。多量に出血している今、避けることはおろか夜叉の狙いを外すことすら不可能だ。
人の目に止まらない一撃が女へ打ち込まれる。
女の青い双眸が、動揺に揺れる。
――ガキィイン!
硬質なものがぶつかり合う音に紅葉は瞠目した。夜叉の切っ先が女の上で止まっている。刃先が空間にヒビを入れた――否。
防御壁だ。透明な防御壁が、女の頭上に張られている。
「何じゃと……!」
息を呑む間すら与えないあの一瞬の間に、この女は。
割れた宙の向こうで青が煌めく。それを合図に、上空に違和感が生じた。冬の外を思わせる、水気を含んだ冷気。
バッと見上げると同時に、それらは雨水のように一斉に紅葉へと降り注いた。
氷柱だ。
「【金色夜叉】!」
紅葉の叫びに呼応して夜叉が刀を閃かせて氷柱を斬り砕いた。大量の氷の塊から大量の氷の欠片が生じて宙を埋め尽くす。周囲の空気がひやりと冷え込む。
吸気に喉が凍る気がした。
「【テンペスト】!」
女が呼ぶように叫ぶ。ハッとそちらを見たが、遅かった。
むわりとフロアが白いもやに覆われる。視界が白一色に変わる。水気が肌に張り付き、体温を下げてくる。
霧だ。砕かれた氷によって空気が一気に冷え込んだのだ。女の姿を見失った。この状態で攻撃されれば、さすがの紅葉も防戦が難しくなる。
「小癪な……!」
夜叉が空中に斬撃をつぎ込む。風圧でブォッと霧が一気に晴れた。見渡し、しかし女の姿がどこにもないことを確認する。気配もない。霧に混じって逃げ出したか。
否、と紅葉は唇を噛む。あのネズミはまだこの建物に留まっている。標的がまだ生きているからだ。
あの女は森の元へ向かっている。
「緊急警備体制を取れ!」
片手を広げ、周囲にいた部下達へ指示を出す。
「侵入者じゃ! 首領の元に、一歩、も」
ひく、と喉が引きつった。広げた腕が微かに痙攣する。何が、と思う間もなく、紅葉は膝が崩れるままに床へ座り込んだ。周囲の部下達もまた、床へ這いつくばっている。その光景に見覚えがあった。
中也があの女と遭遇し、そして毒で動けなくなった現場だ。瓦礫が地面を覆い構成員の多くを下敷きにしていた、その中で中也は倒れていた。麻痺毒の吸引により、彼はあの後数日間、部屋から動けなかったのだ。
「……抜かったか」
先程夜叉が斬り払った白い靄、あれは霧だけではなかったのだろう。おそらくは中也が吸ったものと同じ、白磁の毒ガスが紛れていた。あの女は目眩ましではなく毒ガスを隠すために霧を発生させたのだ。少しでも紅葉に毒を吸わせて、動きを鈍らせるために。
森を暗殺するために。
「……あの、小娘」
青の眼差しを思い出す。彼女は戦い慣れている。戦い慣れているというよりも、行動に躊躇いがない。命を守るためならば腕一本を無駄にしてみせ、敵を殺せないと判断するや否や即座に足止めに転じてみせる。危険と死の境界を渡る行為だ。少しでも間違ったり遅れたりすれば即座に死ぬ。
動きの悪い手で通信機を懐から出す。首領は何としても守らなければならない。例え相手が凶悪で強力だとしても。
「……全構成員に告ぐ、侵入者有り。全員、ただちに警戒態勢へ移行せよ」
震える声を通信機にぶち込む。後は、部下達の奮闘を祈るしかなかった。