第3幕
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皿洗いの次は床掃除を頼まれた。風や雨が全てを洗い流してくれる外とは違い、部屋の中というのは掃除をしない限り埃や油汚れがずっとそこに残り続けるのだという。ギルド本拠地やホテルの綺麗さは誰かの手で保たれていたのだな、と気がついた。
「掃除をしてくれる人がいるってすごいことだったんですね」
「……時々思うが、どこかの箱入り娘のような発言をするんだな、あなたは」
「せ、世間知らずですみません」
そんな話をしながら暗くなった道を歩く。街灯が頼もしく灯る街を行き交う人の数は少なく、昼間よりも活気もない。静かな分、遠くから車やバイクの音がよく響いてくる。
「明日も花袋さんのところへ行くんですか?」
「いや、掃除も一通り終わったからな。仕事も残っている、奴がマークについて連絡を寄越して来ない限りは行くこともないだろう」
「そうですか……」
少し残念だ。今日は花袋に頼まれていた機材を持っていくという言い訳があった。これですら、クリス一人で花袋のアパートへ向かう理由としては乏しい。花袋のパソコンに侵入する機会は今後ないようだった。
クリスの落胆を勘違いしてか国木田は疑問と不満を混ぜた沈黙を返してくる。共にいるだけでは恋仲にならないということを一度実演してみせたというのに、国木田は花袋とクリスが二人きりになるのを嫌がるのだった。自分はそんなに信用がないだろうか。ハニートラップは専門外なのだが。
などと悶々と考えていたクリスがふと足を止めたのは、街灯すらない路地の入り口だった。
す、とその先の暗闇を見つめる。地面に何かが落ちていた。
血溜まりだ。
「……国木田さん」
名を呼べば、国木田もまた無言で応えてくる。
足音を消し、路地に入る。暗闇に慣れた目で路地を薄っすらと見ることができた。そっとナイフを隠し持つ。国木田が拳銃を構え、背後に警戒しつつクリスの後に続く。
静かな路地を、呼吸音すら静めて進む。やがて見えて来たのは、倒れ伏した人影だった。
クリスが周囲を警戒する中、国木田がそれに駆け寄りしゃがみ込む。
「……駄目だ」
ゆっくりと首を横に振り、その死を告げる。死体は私服だった。けれどそれは赤く濡れ、地面にも赤色は広がっている。暗闇の中で、血溜まりは黒く見えた。
「裏組織の抗争か何かでしょうか」
「わからん。とにかく市警に連絡を」
ポケットからケータイを取り出し、国木田はそれを耳に当てようとする。
瞬間。
ボワリ、と国木田の背後の闇が蠢いたのをクリスは見た。立ち上る殺気が突如路地に広がる。
誰かが、そこにいる。
「国木田さん!」
叫んだクリスと同時に国木田が背後を振り返る。
一筋の光が鋭く振り下ろされた。
国木田の手が相手の腕を掴み、振り下ろされようとしていた刃を止めていた。湾曲した刃物は見るからに殺戮に向いている。通り魔か。それにしても、黒い外套に全身を包んだその姿は只者ではない。
刃先が肩口に触れかけている状態で、国木田は敵の腕を食い止めている。戦い慣れた国木田でさえ、避けることはできなかった。何よりその気配、殺気。ナイフを手に、クリスは突然現れた敵を睥睨する。
気配は寸前までなかった。相当な手練れだ。
「何者だ」
国木田の誰何に、それは静かに顔を上げた。外套の下の白い仮面が、闇の中で不気味に浮かび上がる。
「――死を」
夢に魘されているかのような覇気のない声で、男は告げる。
「異能者に永遠の眠りを」
「……異能者狩りか……!」
呻くように呟き、国木田は素早く仮面の人影へ蹴りを入れた。男は素早く引いた刃物の柄でそれを耐え、ふわりと後退する。国木田と仮面の男に距離が空く。
「下がれ、クリス」
拳銃をそれへと向けながら国木田は言う。
「こいつの狙いは俺だ」
「……隙を見て援護します」
「異能は使うな、あなたも標的になりかねん」
囁くような声でやり取りする。刃物を構えた敵が、フッと身を沈めて駆け寄ってきた。瞬き一つの間に国木田の間合いへ飛び込んでくる。
早い。
銃声が数発路地に響く。けれどそれは敵のどこを裂くこともできなかった。相手の動きが早すぎたわけではない、銃弾が届かなかったのだ。
宙に横文字が描かれる。赤い文字列に、銃弾が食い込む。
防御壁。
――見慣れた。
「何……!」
驚愕する国木田をよそに、タン、と敵が上空へ跳ぶ。そして――さらに宙を蹴って国木田の頭上を取った。
「しまッ……!」
見上げた国木田へ、真っ直ぐに仮面の男が降ってくる。振り下される刃物が月明かりに煌めく。
――ガキィィン!
大きな破壊音が響き渡った。
国木田の目の前で、宙に刃が食い込んでいる。ピシリ、ピシリとヒビが入った。冷気が国木田の鼻先を掠める。
「下がって!」
クリスの声に従い国木田が氷の壁の下から後退し距離を取った。それを見計らい、クリスは片手を上空に差し伸ばす。意図を察した国木田が制止の声を上げるが、無視した。
この男相手に異能を隠し続けるのは無意味だ。
「【テンペスト】!」
瞬間、男の上空に氷柱がいくつも生じ、男へと降り注ぐ。避け切れないほどの連続攻撃だ、その場で防御壁を生成した場合一歩も動けなくなる。相手をそこに留め置くための攻撃だった。
だが。
男はその場で微動だにせず立ち尽くす。瞬間、飛来してきた弾丸状のものが次々と氷柱を粉砕した。
「――ッ!」
氷がキラキラと粉末状になる。それを浴びながら、外套の下の仮面がこちらを見る。
目が合った気がした。
「今宵の目的は達成されました」
男が無感情に言う。
「碧眼のネズミは契約に必須です」
ネズミ。
その呼び方をしてくるのはポートマフィアだけだ。けれど、この仮面の男はポートマフィアの人間ではない。あの組織の構成員は頭に入っているが、このような男は存在しない。
そもそも、この男は。
仮面の男は宙へと飛び上がる。そのまま数度跳ね、宙を蹴って上空へと留まる。月明かりを背後に、それは明るい空に黒い姿を浮かび上がらせた。
「青き眼の同胞へ伝言です」
宙に浮いた男が告げた言葉は、聞き覚えのあるものだった。
「『あなたには力がある』」
息を呑む。目を見開く。
「……どうして、それを、君が」
クリスの呟きに答えることなく、男はくるりと背を向けて宙を歩いて去っていく。クリスは素早く異能を発動した。
「【テンペスト】!」
宙に薄氷を生成、足に風を纏う。
「待って!」
「クリス!」
追おうとした瞬間、腕を掴まれる。それを振り切り再び跳躍を試みようとしたものの、今度は体ごと抱き込まれるように押さえつけられた。
「落ち着け! 一人では危険だ!」
「行かせて!」
「駄目だ!」
「お願い、待って! 行かないで!」
クリスの叫びなど聞こえないかのように、男の姿は遠く小さくなっていく。それを呆然と見送り、クリスは国木田の腕の中で立ち尽くした。
「どうした。……知り合いなのか」
国木田が問うてくる。振り返ることも答えることもできないまま、クリスは空を見上げ続けた。