第3幕
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***
台所に立ち、クリスは腰の後ろで紐を結んだ。今し方身につけたのは、いわゆるエプロンというやつだ。薄い桃色に、花のアップリケが縫い付けられている。初めて手にしたが、確かにこれなら服が汚れることはなさそうだった。
「……国木田さんの私物ですか?」
「んなわけがあるか。劇場に行く前に買ってきたものだ」
「ビニール袋を持っていたから何だろうとは思いましたが……」
「汚れを気にしていては家事はできんからな」
言いつつ国木田もまた紺一色のエプロンを身につけている。装飾の一つもないそれが、国木田の几帳面な性格と合っている気がした。あとは、などと言いながらしゃがみ込み袋の中を探る国木田の背を眺めつつ、ちらりと花袋がいる居間の方を見遣る。あともう少しだったのに、と心の中で思った。
花袋の布団の前に置かれた、たくさんのパソコン画面。そこには国木田が依頼した鼠のマークについての調査状況が表示されていた。花袋の使っている機械やソフトについては粗方把握は終わっている。これはちょっとしたおまけ、もっと明瞭な言い方をするならば興味だ。フィッツジェラルドを利用しヨコハマの街を壊滅させようとした犯人、その解明はおそらくクリスにとっても利となる。少しの隙をついて花袋のパソコンにウイルスを侵入させ、データを盗み取れればと思っていた。
――『あなたには力がある』。
あの道化師の男の言葉、そして太宰の忠告。あれを探るにはまだ情報が足りなすぎた。関係あるなしに関わらず、とにかくありったけの情報を掻き集めたい。が、やはり凄腕の情報屋ともなるとなかなか上手くいかないもので、花袋の目を盗んで堅固なセキュリティをかいくぐり情報を盗むというのはかなり難易度が高かった。もう少し時間があれば良かったのだが。
「それで、答えは何だ」
袋の中から買ったばかりの掃除用具を取り出しつつ、国木田が尋ねてくる。何の話かわからず、クリスはきょとんと目を瞬かせた。
「答え?」
「医務室で言っていた、正規の医者より闇医者の方が安心できる理由だ」
「……ああ、そんな話をしましたっけ」
すっかり忘れていました、とクリスが言うと、不機嫌そうな顔がじとりとこちらを見遣ってきた。ただの世間話のつもりで話したのだ、わざわざ覚えてもらえているとは思わなかった。
「金かと思ったがしっくり来んのだ」
「惜しいですね。――答えは”信用”ですよ」
「信用だと?」
意外だったのだろう、国木田は眉をさらにしかめる。「ええ」とクリスは頷いた。
「裏社会というものは、信用が第一なんです。表社会と違って狭い界隈ですし、表社会に対する裏社会のような逃げ道というのがありません、一度でも誰かを裏切れば命をもって報復されます。生き延びるには互いの誠意が重要になるんですよ」
「裏社会で生き残るために患者を騙すことはしない……だから、闇医者の方が安心できる、と」
「狭い界隈での悪い評判は隠せませんからね。地元に深く根付いている情報屋や医者は口が硬く誠実であることが多いです。ちなみに表社会で重要なのがお金ですよ。表社会の経済は全てお金を中心に回っていますから」
おそらく一般市民は、裏社会を牛耳っているものは金だと思っている。間違いではない。けれど完璧な答えでもない。ポートマフィアが良い例だ。彼らはその巨大な力と存在感で他の組織をも従えている。そこに金銭は関与していない。あるのは、絶対的な服従、完全なる支配だ。それは他組織がポートマフィアの絶対性を信じそれに縋るからこそ成り立っている。対して表社会の序列は金銭によって決まっている。金があるほど上位となり、上位の人間は下位の人間を金で繋ぎ止める。
世界の本質は思った以上に正反対なのだ。
クリスの答えに、国木田はしばらく黙り込んでいた。なるほど、と一言呟く。
「そういう考え方もあるのか」
「意外でした?」
「ああ。――さて」
立ち上がり、国木田は何かを差し出してきた。
「……これは?」
国木田が手渡してきたのはゴム手袋だった。きょとんとしていると、国木田は「つけろ」と短く言う。
「手が荒れて仕事に支障が出たら困るだろうが」
「……ああ、なるほど」
そういうことか。
納得し、それを受け取る。今まで呼吸するように殺人や諜報を手がけてきたのだ、手荒れなど気にしたこともなかった。
「で、何を溶かすんです?」
「は?」
「え?」
きょとんと国木田を見れば、国木田も目を丸くしてクリスを見下ろしていた。しばし見つめ合う。
「……クリス」
「はい」
「今考えたことを一言違わず言ってみろ」
「『手荒れってことは証拠か死体を溶かすんだろうなあ』」
「違うわ!」
「えッ……」
「そこで驚くな!」
素直に感情を露わにしたクリスへ国木田は怒鳴った。ビシリと水場に指を向け、そこに山積みになった皿を指す。
「ただの皿洗いだ!」
「え、皿洗いって汚れを酸で溶かしてたんですか? お皿って骨よりも丈夫なんですね」
「違うわ! 使うのは洗剤だ、市販の中性洗剤!」
「ええッ市販なんですか! そんなに強力なものが市販であったなんて……知りませんでした、わざわざ取り寄せてたのに……!」
「一旦話を聞け――!」
国木田の怒声がアパートを揺らす。積み重ねられていた皿がガチャンと落ちた。
***
国木田が水の入ったバケツをひっくり返したかのような勢いで説明してくれたところによると、皿洗いというものは食器用洗剤という化学製品を用いて行うことらしい。水に長時間触れるだけでも手が荒れるというのは初耳だった。
「もしかしてとは思うが」
クリスの隣で台所全体を拭きながら国木田が呆れ顔で尋ねてきた。
「家事をしたことは?」
初めて触るスポンジというものを右手で何度か握り潰し、泡がみるみるうちに量産される様をこっそり楽しみながら、クリスはぼそりと答える。
「……ない、です」
「掃除や洗濯は」
「ホテル住まいなので掃除も洗濯もお任せしてます……ギルドにいた頃は身の回りのことをしてくれる人がいたし、その後は家事の必要のない生活をして……」
コンロ周りにスプレーで泡を吹き付け、それを布で擦りながら国木田は大きくため息をついた。手慣れた様子で台所の黄ばみを拭き取っていく手際の良さに惚れ惚れしつつも、クリスは気まずさに肩を縮こませる。
「……だから気が進まなかったんです、お手伝い」
「だができないままでは支障が出るだろう。良い機会だ、とことん教えてやる。……泡立てるだけでは皿は綺麗にならんぞ、そのスポンジで皿を洗え」
「は、はい」
泡で遊んでいたのがバレたらしい。鋭い指摘に返事を返し、クリスは慌てて一枚の皿へスポンジを当てた。しかし皿を洗うというのはどうやるのだろう。服についた血を洗い落とすのとは違う、服ならば布をくしゃりと握って擦り合わせれば良いが、まさか皿を変形させることはできないだろう。皿に皿を擦り付けるのも違う気がする。
戸惑っていると国木田がひょことクリスの手元を覗いてきた。
「皿は持て、片手でな。もう片方の手でスポンジを持って、スポンジを汚れに当てて擦れ」
「皿を、持って……うわ、滑る」
「落とすなよ。小さいものからやってみろ」
言われた通り、小皿を手に取ってみる。が、スポンジを当てる範囲が狭くて皿全体を擦れない。しかししっかりと持たないと落としてしまいそうだ。仕方なく一度皿を置き、少し回して持ち直し、皿の一部にスポンジを当てることにした。それを何度か繰り返す。何とか全体にスポンジを当てることができたが、どうにも効率が悪い。
「……難しい」
「慣れれば簡単にできるようになる」
「慣れますかね」
「慣れるまでやればな」
それもそうだ。国木田の返答に納得し頷きつつ、クリスは大きく息を吐き出す。
「普通の人達は皆こんなことができるんですか……大きなお皿もできるんですよね、凄いなあ」
「――普通、か」
ふと国木田が呟く。その言葉に「だって」と笑い返した。
「わたしが普通じゃないことはわかってますから。普通の人はお皿の洗い方がわかるし、そういう人にとってのナイフは物体を切るためのものだし、彼らにとっての国は自分の生活を支えてくれる機関です。わたしにはもう、彼らと同じ生活はできない。……でも」
ふと手を止める。次の言葉を待つ国木田へと、クリスは顔を上げた。目が合う。どこまでも真っ直ぐで、いつもこちらを気遣ってくる、眼鏡の奥の優しい色を見つめる。
「こうしていると、普通になれた気になります。誰かとお話しして、お出かけして、一緒に台所に並んで。普通の人って毎日がこんなに明るくて楽しくて賑やかなんですね。真似をしているだけなのに、こんなに穏やかでゆっくりとした時間を過ごせるなんて。ずっと真似していたいくらい」
「……なら」
国木田がゴム手袋を外し、その手を伸ばしてくる。こめかみに触れ、髪を耳にかけてそのまま手を添えてくる。ただ、それだけだった。
なのに。
胸がざわつく。体温が一気に上がったかのような違和感。それは恐怖とは違った。むしろ高熱で動けなかったあの時に似ている。望んではいけない何かが欲しくて、その気持ちを抑え込むこともできなくなる、混乱と寂しさに満ちた頭の中。
「真似し続ければ良い」
国木田の声は低く、優しい。
「そうしたいのならそうし続ければ良い。あなたの人生はあなたのものだ。あなたが望むことをすれば良い」
「……わたしが、望むこと」
「普通を真似たいのなら真似れば良い、いくらでも手伝ってやる」
「手伝ってくれるんですか」
「あなた一人では何もできんだろうが」
「た、確かに」
国木田の手が離れていく。はらり、と髪が数本耳から滑り落ちて視界の端で揺れる。国木田から逃げるように顔を逸らして、山積みになった皿の方へと向き直った。どうしてか国木田を見上げる気が起きない。今の彼を見てしまえば自分の中の何かが壊れてしまうのではないかという、得体の知れない不安があった。
この感情は何だ。
「……く、国木田さん」
「何だ」
「……もし、わたしが”普通”を真似し続けたのなら、わたしは」
グッと腹に力を込めて、隣に立つその人を見上げる。いつの間にか、隣にいることが当然になってしまった人を、隣にい続けることを許してくれる人を、見つめる。
きっちりと束ねられた髪、飾り気のない眼鏡、真っ直ぐな眼差し。時に呆れ、激昂し、諭してくる理想主義者。現実を知り目の前の不条理を知りつつも決して挫けず諦めない頑固な人。
「わたしは、いつか、”普通”になれますか」
「ああ」
間髪入れず国木田は答える。そこには嘲笑も苦笑もない。偽りのない真面目な顔が、当然だとばかりにこちらを見つめてくる。
「……そう、ですか」
胸の奥からふわりと広がった柔らかな心地がくすぐったい。自然と緩んでしまった表情を隠そうと俯けば、ぽんと頭の上に手のひらが置かれた。その手はすぐに離れ、国木田は再びゴム手袋をはめて掃除を再開する。
「早く終わらせるぞ」
短く言い残し、国木田はコンロへと向き直ってしまった。その横顔を見、クリスの視線に気付いているだろうに一向にこちらを見ようとしない国木田の様子に、クリスは笑い声を押し隠す。
「はい」
国木田の横で、皿の山へと手を伸ばす。カチャ、と皿と皿がぶつかり合う音が立つ。
「あ、このお皿やりやすい」
「平皿だからな。……おい、わざわざ下に置いて持ち直さなくとも、手の中で回せば良いだろうが」
「お皿を回す……?」
「言っておくが曲芸の話ではないぞ。貸してみろ。……こう持って、こうやってだな……」
国木田が片手にスポンジを持ちながら、皿を車のハンドルのように一回転させる。わあ、とクリスは声を上げた。