第3幕
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***
夕方。クリスの仕事が終わった頃を見計らい、国木田は劇場に出向いた。夕日が沈みかけた街は空と同じ色を被っていて、ものの輪郭が曖昧になり判別がつきづらくなっている。たくさんの人が道を行き交い、橙色の下を蠢いていた。
その中からただ一人を見つけ出すのは容易ではない。目を凝らし、行き交う人々を見回す。思ったより早く彼女を見つけられたのは、同じく国木田を探していたのだろう彼女と偶然目が合ったからか。
「国木田さん」
片手を振って、クリスが駆け寄ってくる。
「すみません、お待たせしましたか?」
「いや、ちょうど着いたところだ」
「良かった。じゃあ行きましょう!」
さも嬉しそうに彼女は跳ねるように歩き出す。そんなに花袋と会うのが楽しみなのだろうか、これほど楽しげなクリスを見るのはあまりない。大衆の中から国木田の姿を見つけ出した時よりも嬉しげな彼女に、国木田は短くため息をついた。
「クリス」
「はい?」
先を行くクリスが踊るような足取りで振り向く。ふわりと亜麻色が広がり、柔らかな太陽の輝きを受けて透き通る。こちらを見上げてくるのは、笑みを乗せた鮮やかな青。
そこに悲しみも涙もなかった。偽りでも誤魔化しでもない、少女の普通の笑み。
そこに、普通がある。彼女の、彼女が常に手にしているべき”普通”が。
彼女はそれが近くにあることを、望めばすぐに手に入ることを、わかっていない。
「どうしました?」
「……いや」
首を振る。
「楽しそうだなと思っただけだ」
「楽しいですよ」
彼女はにっこりと笑う。
「国木田さんと一緒だから」
「……え」
「早く行きましょう、国木田さん」
跳ね踊る踊り子のように彼女は先へと飛び出した。足先でくるりと回り、国木田へと向く。
「暗くなる前に、ね」
少女が笑う。細められた湖畔の眼差しが、国木田を捉える。
目が離せない。
共に夕方の街を歩く。特に会話はなかった。歩幅の合わない二人が並び歩いていることだけが、知り合いであることを告げている。それは家族同士の距離でも、恋人同士の距離でもなかった。まるで間に何かがあるかのように、手を伸ばせば相手に届くほどの距離を開けながら、二人は触れ合うことなく、しかし離れることもなく先を行く。
例えるなら、そこにあるのは糸だ。細い繊維が束ねられただけの、弱い糸。少しでも力を込めたのならすぐに千切れてしまいそうなほどに脆い、何かを繋ぎ止めるには不適切な。
それを切らさないよう、絡まないよう。
――今の二人の何かが変わらないよう。
古いアパートへと到着し、花袋の部屋へと向かう。出入りの痕跡のない扉を、国木田は開けた。
「花袋、俺だ。入るぞ」
「お邪魔しまーす」
「……おう国木田」
部屋の奥から声が聞こえてくる。当然のように奥まで立ち入り、国木田は襖を開ける。もぞもぞと布団が蠢き、中から花袋が顔を出した。
「また来たんじゃのう」
「部屋の掃除が終わっていない。どうせお前は掃除せんだろうが」
「あ、花袋さん」
する、とクリスが国木田の横をすり抜けて薄暗い部屋の中に入る。おお、と花袋が顔を明るく輝かせた。
「クリス殿」
「持ってきましたよ」
言い、クリスは花袋の横に座ってウエストポーチから次々に記録媒体を取り出す。いつも思うが、あのポーチは一体どうなっているのだろう。呆れ顔を隠さないまま、国木田はおもちゃを取り出す子供のような少女の背中を見つめる。
「これがRRX、これがver.4でこれが……」
「おお、本当にあったとは」
「使う分には問題ないはずです。こっちはUSBですけどこれはMOなんですよね、大丈夫です?」
「問題なしじゃ、安心せい」
「さっすが花袋さん」
クリスがポンと両手を叩く。花袋は当然だと言わんばかりの笑みで親指を立てた。以前から仲が良かったかのようなやり取りはおそらく、クリスの力によるものだろう。彼女が花袋へ友人を演じているのだと考えるのが妥当だった。でなければ女性を前にして花袋がこれほど自然体でいられるわけがない。
――”友人”を、演じる。
友人というのは自然体でいられる相手のことだと国木田は思う。けれどクリスにとってのそれは、どのようなものなのだろうか。
頭を軽く振り、思考を掻き消す。考えたところで国木田に何ができるわけでもない。代わりに、国木田はクリスの襟首を掴んで引き上げた。
「用事は終わったな。さあ手伝えクリス」
「も、もうちょっと」
「駄目だ」
これ以上二人のやり取りを見守っていると時間がなくなる。かといって二人から目を離して掃除に勤しむ気はない。
「あらかじめ言っていただろうが。手伝え」
「ぐ……」
「何じゃあ国木田、珍しいのう」
花袋が気の抜けた顔で目を瞬かせる。
「普段は儂のことなど気にもせんというのに」
「誰もお前のことなど気にしていない」
「では何を気にして」
「お前は早く仕事を終わらせろ」
花袋の言葉を途中で遮り、クリスの首根っこを掴んでズルズルと台所に引きずっていく。
「あの、ちょっと、まだ……か、花袋さーん!」
引きずられながらクリスが花袋に助けを求める。が、花袋は「国木田は相変わらずじゃのう」などとのほほんと言うだけだ。国木田が花袋のことをよく知っているのと同じく、花袋も国木田のことをよくわかっている。
ズルズルと引きずる手応えに「心中ーちょっとだけで良いからぁー」などと女性にほざく同僚が重なる。彼女を奴と同じに扱うのはさすがに違う気がするが、間違っている気もしない。
いずれにしても、掴んでおかなければいつどこへ行ってしまうかもわからないのだから。