第3幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「クリスが目覚めたら逃げ出そうとするかもしれないから見張っていな」という今更な指示を伝えて、与謝野は再び外へ出て行った。眼鏡には損傷がないことを確認した国木田は、それを掛けてベッドへと目を移す。国木田の座る椅子の横で、彼女は目を閉じて眠っていた。
あの後、与謝野の腕力に抗うことができないまま、クリスはベッドに詰め込まれた。ベッドに横になった直後、再び熱が上がったようで、クリスは意識を朦朧とさせて眠りに落ちていき、そして今に至る。眠り、とは言うがその表情は苦しげで、呼吸も荒い。眉をひそめ、火照らせた頰に汗を滑らせ、半開きにした唇から熱のこもった吐息を繰り返し漏らす。
汗のにじむ額に冷やした布を乗せてやる。少し、表情が和らいだ気がした。
「……クリス」
返事はないとわかっていながらも、その名を呼ぶ。
「……どうしたら、俺を信じてくれる」
不信を向けられているわけではないことはわかっている。出会ってから今に至るまでを思い返せば、彼女との距離は確実に近付いていた。ただにこやかだった彼女の笑顔も、多彩なものへと変わっている。笑顔以外の表情も見る機会が増えた。けれどあと少し、あと少しが遠い。
胸元に常にある手帳を、その表紙を思い出した。理想、とそこにはある。それは、目の前にいる人全てを救うこと。誰一人苦しませないこと。けれどそれを為すことは難しい。全員を助けることができた時もあれば、犠牲を出してしまった時もある。
目の前に眠る少女を見る。彼女を救うことは使命だ。クリスが国木田の目の前に現れた時から定まっている、国木田の理想の一部。だから何としてでも救わなければいけないし、彼女を救えたのなら自分の理想へと一歩近付ける気がする。
――ずっと、ただそれだけを思っていた。
だのに今は、理想を求めるためだけに彼女へ気をかけているわけではないことに、薄々気付き始めている。笑顔を求め、眼差しを求め、己を呼ぶ声を求めてしまっている自分に、気付き始めている。彼女の心が国木田を許してくれているという勘違いが、彼女の好意を求める我欲が、確かに芽吹いている。
「……そうか」
ああ、と気が付いた。
きっと、白鯨が沈んだあの日、国木田の理想の標となることを受け入れてくれたあの時の国木田の言葉を守るために、特定の相手ではなく人々全てを守るという国木田の悲願のために、彼女は国木田の手を拒み続けている。
国木田の行動理由は「市民のため」でなくてはいけないのだ。それ以外の感情で彼女を救ってしまっては、彼女は「国木田の理想によって救われた」とは言えなくなる。彼女は「標」ではなくなる。だからこそ、聡い彼女は自分を頼りきってはくれないのだ。国木田の頼みの通りに、「人々」の一人として救ってもらえるのをずっと待っているのだ。
彼女を追い詰め幸せから遠のかせているのは、自分だった。そうに違いなかった。
国木田の理想は全ての人々に心血を注ぐこと。彼女はその「人々」の一人であるべきなのだから。
「俺は……あなたに、個人的な感情を向けては……いけない……いけなかった……」
懺悔のようなそれは、静かな医務室に消えていく。
***
渦巻く海中に沈み続けているかのような中にクリスはいた。上も下もわからない。暑いようでいて寒い。視界は握り潰されたかのように歪んでいて、誰かの叫び声のような耳鳴りが頭を叩いている。平衡感覚のなさに吐き気が込み上げてきた。体の中のもの全てがどろどろと溶けきって胃に詰まっているようだ。
ふと目の前が見えるようになれば、見上げた天井の模様がゆらゆらと揺れたり縮んだり曲がりくねったりする様を眺めながら、再び意識を水面に沈めていく。それをずっと繰り返していた。途中で叫んだり呻いたり吐いたりした気がする。誰かと話したり、怒鳴られたり、頭を撫でられたりした気もする。幻覚だろうか。
「ぐ……」
もはや何も入っていない胃から体液すら搾り取ろうとするかのように吐き気は止まない。重い体を何とか動かして、寝返りを打って体を丸めた。ぐわりと頭の中の重りが移動したかのような錯覚と共に喉へ吐き気が込み上げてくる。口の中に汚泥の味が広がる。微かに鉄の臭いがした。は、と息を吐き、枕に顔を埋める。
体が思うように動かない。動けば動くほど吐き気と目眩と悪寒が酷くなる。思考しようとしても考えたいことがずるずると脳から抜け出てしまう。クリスの異能は想像力が鍵だ、これでは襲われた時に抵抗できない。
危険は常にすぐそばにある。目の前に、隣に、背後に。いつその刃を振りかざしてくるかわからない。
逃げなくては。逃げなくては。
抜け出そうと布団を握り締める。けれど力が入らず、軽くしわが寄るだけに終わった。動けないという事実に混乱が増す。無理矢理にでも頭を上げようとした瞬間、ぐるりと視界が捻れた。
「……う、あ……」
込み上げてきたものを必死に飲み下す。ベッドへ縋り付くように重い頭を擦り付ける。ここがどこかもわからなくなりそうだ。布団を握る手の感覚すら曖昧で、これが布団かどうかもわからなくなっていく。
――ふと。
布団を握る手に、何かが重ねられる。体が発する熱が、それと手の甲の間に留まる。額を、頰を、何かを払い除けるように触れてくる手。うっすらと目を開けた先に、ぼんやりとその姿が映る。
乱れた髪が避けられた視界の先で、国木田が手に手を重ねてきていた。真っ直ぐな眼差しがそこにある。そこに、いる。
寂しさを押し殺す意思も平気を装う体力もなかった。
布団を掴む手を緩めて、代わりに重ねられた手の指先を握った。体を刺すように発熱する自分のよりも柔らかなあたたかさ。背を丸め、それへと顔を寄せる。自分の熱い吐息が手にかかる。
「……だ、さん」
名前を呼ぶ。欠けた声は呼吸音を装飾しただけだった。けれど国木田の手が少しだけ強くクリスの手を握る。聞こえたのだという安堵が呼吸を深くした。
「……ごめ、な、さい」
それが言いたかった。いつも向けてくれる優しさへの感謝と、それを受け入れられない謝罪を込めた言葉。
――俺に頼れ、クリス。俺はあなたを救うことで、俺の理想が正しいのだと知ることができる。
誰の支えもなしに理想を貫ける強さのあるこの人から言われた嘘。クリスに手を差し伸べるためのあの嘘が嘘でなかったのならどれほど嬉しかっただろう。それに素直に縋り付くことができたのなら、どれほど幸福だっただろう。叶わない願いが思考力を失った胸に幾本もの棘を突き刺してくる。
「……なぜ謝る」
国木田の戸惑った声が聞こえてくる。その言葉は脳に留まらなかった。けれど、響きは優しく心地よく、静かに耳に届く。
向けられ続ける優しさが勘違いだったとしても良い、この気持ちが許されない我欲だったとしても良い。
今だけは。せめて、今だけは。
握り締めた指先に頰を寄せる。唇が軽く触れる。見知ったぬくもりに、水中に落とされた果実のように意識が沈んでいく。
ふと、髪を撫でる手に気付いた。幼い記憶の奥底に潜んだ感覚よりもぎこちないその手はやがて、髪を掬い取る。うっすらと輪郭を失った視界で、国木田が手に取ったそれへ口付けを落としているような気がした。