第3幕
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***
気が急くままに、医務室の扉を開け放った。「おや」と机から与謝野が顔を上げる。
「もう来たのかい。いじけて来ないかと思ったが」
「……いじけて?」
予想だにしない言葉を反芻した国木田へ、与謝野は椅子から立ち上がって肩を軽く叩いてくる。
「それじゃ、よろしく」
「よろしく、って……何を」
そのままどこかへ行こうとした与謝野は、きょとんと国木田の顔を見た。
「鏡花から伝言を聞いて来たんじゃないのかい?」
「いえ」
「ふーん。なら尚更、来るとは思わなかったね。……ちょっと買い物に出るよ、眠気を晴らすついでにね。その間クリスのことを見ていて欲しいのさ」
「え、いや、あの」
それじゃ、と与謝野は大きな欠伸をしながら医務室を出て行ってしまった。いや待て、と呼びかけたが既に遅く、女医の背中は閉じる扉に遮られて見えなくなる。
パタン、と軽やかな音を立てた扉を、国木田は呆然と見た。見ていて欲しい、と言われても、何かあった時にどうすれば良いのかわからない。
「……全く、なぜこうもうちの人間は人の話を最後まで聞かんのだ」
ため息をつく。勢いで来たは良いものの、やはり何ができるわけでもない。ちら、と白布に仕切られたベッドの方を見遣る。
――彼らに何ができるんですか?
あの声が、言葉が、耳から離れない。
――助けを求めたところで、誰もわたしを助けられないのに。
あの時、少しでも反論できていれば。けれど国木田にはあの言葉に対する理想的な返しがなかった。確かに、彼女を救える人間は少ない。自分もまた、彼女を救えない。けれどそれは事実ではあるが不変ではない。どこかにあるはずなのだ、孤独という戒めを受けた彼女が、幸せになれる方法が。
それが、すぐに思いつかなかった。そのことを今も、おそらく今後も、国木田は忘れられない。
――ドサッ。
何かが落ちる音にハッとした。そちらへと視線を向ける。
「……クリス?」
彼女を隠している白布が揺れている。
歩み寄り、国木田はそれへと手を伸ばした。一瞬躊躇い、けれど意を決して布を掴んで引き開ける。シャッ、とカーテンレールが音を立てた。
ベッドの上には白い布団が敷かれていた。が、乱雑に捲られ、半分ベッドから垂れ下がっている。その影に隠れるように、彼女はうずくまっていた。
白一色の薄地の着物に覆われた細い肩が荒く上下を繰り返している。首元から覗いた鎖骨に亜麻色の髪が張り付いていた。床についた手が、苦しげに握り込まれる。俯いた顔は髪に隠れて見えないが、表情は想像がついた。目覚めていたのだ。
「クリス!」
駆け寄り、そばに膝をつく。肩に触れた手が瞬時に熱を伝えてきた。熱湯に触ったかのように、何を考える間もなく手が彼女から離れる。じわりとした熱気がこちらにも伝わってくるかのようだ。熱にうなされてベッドから落ちてしまったのだろうか。
「おい」
今度はそっと肩を支えて顔を覗き込む。手の中でクリスは身を縮めた。怯えている。この状態で無理に抱き込んだり押さえ込んだりすれば狂乱させてしまうことは、よくわかっていた。
手を離し、今度は耳元の髪を撫でる。なるべく優しく触れたそれに、クリスはさらに身を強張らせた。
「俺がわかるか」
ゆっくりと、言い聞かせるように問う。
「クリス」
亜麻色の髪から青が覗く。焦点の合わないそれが国木田を映す。ぼんやりと開いた唇は何も言わなかった。
――国木田さん。
あの声が、聞こえない。
「……クリス」
声が聞きたかった。笑顔は望まない、誰の名前でも良い、ただ声が、軽やかで寂しげな、あの声が聞きたかった。
「わかるか」
何度も問う。答えを求める。その正誤はどうでも良い。あの亡き友の名でも構わない。その青が、音が、そこにあるのなら。
大きく上下する肩に合わせて、呼吸が浅く速く繰り返され、そのたびに唇が震える。
「……ッ、さ」
小さな、小さな声だった。荒い呼吸音に似た、空耳のような音。
水底へ引きずりこまれるように沈む水の中、気泡に溶け込む声のような。
けれど。
けれど、確かに、聞こえた。
――国木田を呼ぶ声が。
衝撃と衝動に、何も考えられなかった。
髪に触れていた手を後頭部に回してそのまま抱き寄せる。呼吸に喘ぐ肩が小刻みに震えた。それごと、胸に引き寄せる。強く強く、掻き抱く。胸に、腕に、寄せた頰に熱が伝わってくる。夏の暑さに似たそれが体に溶け込んで馴染む。
「……く、るし、です」
荒い呼吸の向こう側から言葉が聞こえてくる。それが耳元から聞こえてきたことに気が付き、そして今の状況に気が付いた。慌てて腕を解いて体を離し、腰を擦るようにズザザと後ずさる。
「いや、これは、その!」
「う……」
大きな声が出てしまう。けれどクリスが口元を押さえて蹲ってしまったのを見、慌てて声を潜めた。
「だ、大丈夫か」
「音が……振動して、吐き気が……」
「す、すまん」
四つん這いで近付き、顔を覗き込む。目が合う。熱に揺らぐ、焦点の合わない潤んだ青が、上目遣いにこちらを見つめてくる。
息を呑んだ。
「……与謝野先生は今夜、泊まりで世話をしてくれる。安心して横になっていろ」
「……や」
「何?」
「嫌」
端的に言い、クリスは立ち上がろうとベッドに手をかける。しかしその状態で腕の力だけで立ち上がれるわけもない。
「おい」
「……嫌」
「駄々をこねるな。大人しく横に」
「嫌」
長いセリフを言うのが辛いのだろう、たった二音のそれを繰り返し、クリスは再び自力で立ち上がろうとする。まるで自我の芽生え始めた幼児のようだ。呆れつつ、国木田はその場へ腰を下ろした。
「クリス」
「……敵が」
「何だと?」
「敵が、来たら、逃げられない」
熱に火照る顔は真剣だ。彼女はベッドから落ちたのではなく、ベッドから出ようとして落ちたらしいと気が付く。この少女は今まで、一人で世界を渡っていた。強力な異能者だと言っても、不意を突かれては抵抗が難しくなる。これは彼女の生き方だ。生き延び方だ。
――わからないままで良いんだと思います。わたしは結局、そういう生き方が身に合っていますから。
あの言葉がまた耳に聞こえてくる。あの諦めた笑顔が再び国木田に笑いかけてくる。
「……俺の周囲はどうしてこうも言うことを聞かんのだ」
呟く。そして、国木田はクリスへと手を伸ばした。肩を抱き込み膝の下に腕を差し入れる。朦朧としたクリスの意識が事態を把握して暴れる前に、その細い体を抱いて立ち上がり、ベッドに放り投げた。案の定再び逃げ出そうとする彼女をベッドへ押し付ける。
「嫌」
「ここは武装探偵社だぞ、簡単に敵に潜入されたら看板を下ろさねばならん」
「離して」
「殺される云々の前にその体調を治さんといかんだろうが。このままでは病死するぞ」
「それは……」
確かに、と青が納得の色を一瞬浮かべた。が、しかしすぐに我に返って手足をばたつかせる。しかし弱々しい。力尽くで押さえ込むことに申し訳なさがあるほどに、彼女の抵抗は儚かった。
「嫌、寝たくない……!」
「治るものも治らんだろうが」
「薬たくさん打つ……!」
「毒死するぞ馬鹿者」
ぎゃんぎゃんと抵抗するクリスをベッドに押し付けたまま、床に落ちかけていた掛け布団を引っ張り上げる。うなされていただの、今夜が山場だの、それが嘘かのように元気ではないか。しかしその力のなさと赤い顔を見れば、油断ができないのも確か。
「あ、国木田ぁ、一つ忘れてたことが」
背後から聞こえてきたのは、出て行ったはずの与謝野だった。もう帰ってきたのか。振り返った先にいた女医が腕を組んで仁王立ちしているのを見、国木田は我に返った。
ベッドに這うように体を乗せた自分、その腕に組み敷いた少女。彼女が暴れたせいか、白い着物は乱れ、首元から鎖骨が露わになっている。捲れ上がった合わせから覗く足は太ももの付け根が見えそうなほどで。
「……ほう」
「いや、違う、誤解だ、これは」
ぽきり、と手の関節を鳴らして与謝野はニイッと笑った。
「病人相手に良い度胸じゃないか、ええ? 国木田」
「たすけて……!」
腕の下でクリスが悲痛そうに叫ぶ。それはもう、泣き出しそうなほどに。先程までの無茶苦茶な抗いが夢だったかのような錯覚さえ覚える、儚く完璧な演技力。
ああ、と血の気が引くのを感じた。
「は、話を聞け、これには経緯が」
言い訳など聞いてもらえるわけもなく、拳が飛んでくる。勢いよく床へと吹っ飛んだ国木田の目の前に、星が散った。