第3幕
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***
鏡花は廊下を歩いていた。与謝野の手伝いで医務室にいたが、外はだいぶ暗くなっていて、与謝野に「後は妾に任せな」と帰るように言われたのだ。おそらく社内には敦もまだ残っている。夕飯もまだだ、準備しなくたはならない。それに、鏡花には応急処置程度の知識しかないのだ。瀕死の相手にできることなど、喉を掻き切って苦痛から解放してやることだけ。山場である夜間は与謝野に任せるしかない。
最後の手伝いとして手の中の物を洗濯することと、とある人にとある伝言を託すことが残っている。それをしに、鏡花は給湯室に向かっていた。
「……タライ、あれば良いけど」
給湯室は主に事務員が使っている。たまに飲み物を作ったりする時にしか、鏡花は利用したことがなかった。どこに何があるかはわからない。探せば何とかなるとは思っている。
帰社時間を過ぎた廊下は暗く、静まり返っている。けれど光が漏れている部屋がまだいくつかあった。敦がいるであろう仕事部屋と、そして。
立ち止まって、鏡花は床に落ちた光を見つめた。扉のない出入り口の向こうから照明が床を照らしている。四角く切り抜かれたかのように一箇所だけ白く照らされた床へ、鏡花は足を踏み出した。影が白を踏みにじる。
誰もいないはずの給湯室で、一人、立ち尽くしている男がいた。敦の先輩社員だ。いつも何かしら怒鳴っていて、けれど時々柔らかい声で仕事をこなした鏡花を褒めてくれる。与謝野は「まだ残ってるはずだから」と言っていたが、本当に社内にまだいたとは。
給湯室の真ん中で湯気の立つカップを手にしたまま給湯器の説明文の辺りをぼんやりと見つめていた国木田は、鏡花の視線にようやく気が付いたようだった。ふとこちらを一瞥した後、大きく肩をびくつかせて目を丸くする。カップから珈琲らしき液体が跳ねた。
「……無言で暗闇に立つな、驚くだろうが」
胸に手を当てて荒く息を吐きながら、努めて低い声で国木田が言った。わかった、と鏡花はこくりと頷く。幽霊かと思った、と呟いたその声も勿論聞こえている。が、わざわざ突っ込むところでもない。
ぐ、と胸に抱えていたものを抱き寄せる。見せてはいけない物のような気がした。けれどもう隠すには遅い。国木田の目は既に、これへと止まっている。
赤く濡れきった、衣服。
「……もう使えないにしても、一度洗っておこうと思って」
力の入った拳が布を握り込む。指の間にじわりと水分が滲み出てくる。人の体温を失ったそれは、ところどころ固結していた。
「……クリスは」
「ずっと、うなされてる」
嘘も言えないままそれを言えば、国木田は黙り込んだ。何かを思っている沈黙に、鏡花もまた口を閉ざす。代わりに水場の下の棚からタライを探し出した。隅に置いてあった踏み台を水場の前に置き直し、それへ乗ってシンクにタライを置く。無言でテキパキと動く鏡花を、国木田は呆気にとられたように眺めていた。
給湯器のボタンを押し、衣服を入れたタライに湯を溜める。湯気を放つ液体の中に、ふわりと赤色の煙が漏れ出てくる。夏の雲に似たそれを手で掻き回せば、それは湯の中へぐちゃりと広がって溶け込んだ。
今まで、何人分もの血を見てきた。建物の床にバケツの中の水をぶちまけたかのように血が広がっている様も、日本家屋の畳が赤色に変色している様も、見てきた。水たまりの雨水がはしゃぐ子供達によって跳ね上げられるように、赤い血が宙に跳ね上がる様も見てきたし、その透き通る赤の美しさが月を映す池に似ていることも知っている。
片手を軽く丸めて湯を掬い取る。色水が指からこぼれ落ちる。
これも同じ赤だ。人の体の中に潜む色、目に見えないところを流れ続けている命の色、見慣れた色。
「……三十五人、殺してきた」
ぽつりと呟いた声は小さな耳鳴りのようにあっけなく消えていく。
「夜叉が、殺した」
「……何の話だ」
「でも、夜叉は私自身。澁澤は異能を使って戦う私達を"生命の輝き"と呼んだ。なら、異能は、夜叉は、私そのもの」
湯を含んだ布がふわりと浮いてくる。それが水面に出る前に沈め直し、タライの底に押し付ける。
「……いつか見た火花が、忘れられない」
それは、鏡花の入社祝いの時。初めて顔を合わせた鏡花に、彼女は異能で宙に電光を走らせた。雷とは違う、小さなパチパチとした輝きを、鏡花は今でも鮮明に思い出せる。
初めて、人を殺める以外の異能を見た。視界いっぱいに散ったその輝きから目を離せなかった。異能に対して綺麗だと思ったのはあれが初めてだ。ポートマフィアで教育を受けた鏡花にとって、異能は人を殺す道具でしかなかった。
「……けど、あの人も私と同じだった。可能性を知りながら可能性を諦めようとしていた」
――これ以上諦めていた未来を見せないで!
殺人犯として追われるあの人の元に駆けつけた鏡花達へ、あの人は叫んだ。あの声は、かつて己が抱いた絶望の声だ。
――もう私を、光で照らさないで。
「あの人にとっても私にとっても、異能は自分自身。けどあの人は私に異能で光を見せてくれた。私にもきっと、同じことができる。それを知りたい。ずっと、知りたいと思っていた」
衣服を押し込む手を緩める。ふわりと布が浮いてくる。その柔らかな感触に導かれるように手を湯の中から持ち上げた。ざ、と湯が手の甲を滑り落ちていく。湯に浸っていた手を、外気がひやりと撫でていく。
「……あの人を」
鏡花は隣に立ち竦む国木田を見上げる。
「助けて」
「……え」
「名前を、呼んでいた」
微かに、確かに。
「聞こえた」
水底へ引きずりこまれるように沈む水の中で、気泡と共に叫ぶ声のように。遠くに見える水面に助けを求めて手を伸ばすように。
ダンッ!
カップが勢いよく棚の上に置かれた。珈琲が跳ねる。半ばこぼしながら置かれたそれに見向きもしないまま、国木田は給湯室を飛び出していった。その背中を見送り、鏡花は再びタライの中へと目を落とす。ふわりと布が赤い水の中をたゆたっている。手をその色へ浸し、布の一部を撫でるように擦った。ぶわりと赤色が布から離れて煙のように水中を漂う。汚れの落ちていく布を、鏡花はしばらく見つめていた。
「……あ」
そういえば、と思い出す。
与謝野から国木田へ「医務室に来い」と伝言するのを忘れていた。けれど結果的にそうなったので大丈夫だろう。
準備していた洗濯用洗剤を手にする。早いところ終わらせて、敦の元に行かなければ。きっと待ち焦がれていることだろう。いつも鏡花に向けてくれるその笑顔を思い出しながら、鏡花は作業を再開した。