第3幕
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女は目を見開いてその光景を見つめていた。幾本もの黒い槍が、女の胸から突き上げている。背後から音もなく標的を串刺した、黒き刃。
ぱたた、と血がその切っ先から地面へと滴り落ちる。白いTシャツに赤い染みが広がっていく。
「愚者め」
ごほ、と咳をしつつ芥川が中也の背後に佇む。
「我らを侮るとはな」
中也が見上げた先で、女の胸から、ず、とそれが引き抜かれる。女はよろめき、数歩後ずさり、そして――建物の向こう側へ落下する。
「芥川!」
叫んだ中也に呼応して芥川が駆け出す。まだ奴は死んでいない、とどめを刺す必要がある。
女のことは芥川に任せ、中也は周囲を見回した。瓦礫の下で部下達が埋もれている。サイレンの音は着実に近付いていた。本部に連絡を取り、早急にこの場を離れなければ。
通信機を取り出し指示を出そうと口を開いた。
――違和感。
それは、吸気に含まれたひやりとしたもの。
足元の物体に自然と目が行く。
そこにあったのは、胴に一筋の切れ込みを入れた筒型の缶。地面にいくつも転がったそれから溢れ出てくる、覆う白い霧状の煙。
地面の上をたゆたう乳白のガス。
「……ッ!」
バッと口元を腕で覆う。微かに手足が痺れていた。毒だ。鎌鼬を向けてきた女の青い眼差しを思い出す。先程のあの攻撃は、中也を直接狙ったものではなかったのだ。
「……あんにゃろ」
瞼の端がひくつく。霧状の物体は粒子が細かすぎて中也の重力操作では弾けない。早く救援を呼ばなければ、自分も部下達も助からないだろう。確実に中也の気を逸らし、あわよくば中也もろとも全員を抹殺する手法。
呼吸を最小限にしつつ通信機に口早に危機を知らせる。喉が、舌が、唇が、段々と動かなくなっていく。
「く……そ、ッ」
白磁の煙が地平を覆う中、中也はがくりと膝をついた。
***
物陰に座り込みながら、クリスは息を潜めていた。すぐ近くを芥川が通っていく気配。錯乱目的に血痕跡をわざと付け、異能を使って宙を移動してきたがそれすらも見破られている。さすがは禍狗、犬というだけあって追跡は手慣れているらしい。それでもやり過ごすことができたのは、蜃気楼という現象を利用できないかと常々考えていた自分の努力の賜物だろうか。
むわっとした熱気が周囲に漂っている。光の性質を利用した、幻影を見せる方法。一瞬ならば、居場所を誤魔化したり錯覚を起こさせたりすることができるようだ。
警察のサイレンが近付いてきている。この距離では芥川も身を引くしかないだろう。ギルドとの戦いで疲弊したポートマフィアにとって、軍警との衝突はなるべく避けたいものであろうことは確かなのだから。
「……久々に、大怪我、だなあ」
傷口を押さえる手がじわりとぬめる。これほどの深手では麻痺毒は使えない。異能で圧力をかけて傷口を圧迫しているが、その程度の応急処置でどれほど保つか。汗がにじみ出る。手先が感覚を失いつつある。くらりと視界が歪み、ぼんやりとした死期が眠気のように意識を覆ってくる。
呼吸をすればするほど傷が悲鳴を上げ、その度に息を詰めて痛みに耐える。酸欠で視界が不鮮明になって、そっと呼吸をする。その繰り返しだ。
ふと意識が遠のき、異能が途切れそうになる。どば、と血が溢れ出しかけ、さらに意識が遠くなる。ぐらりと傾いだ体が背後の壁に寄りかかる。後頭部をつけ、呼吸を止めて痛みと目眩に耐えた。
「……ッ、は」
サイレンの音が近付いているはずなのに聞こえない。眠気に似た曖昧さが視界を、思考を、覆い尽くしていく。
死ぬなと記憶の中から叫び声が聞こえて来る気がした。見慣れすぎた赤色が散る光景、降り注ぐ雨の中一人うずくまった記憶。あの日と同じ、呼吸器官に浸透してくる鉄の臭い。
けれど、なぜだろうか。
――待っていろと言っただろう。
今、思い出すのは束ねられた金の髪。神経質そうな眉間のしわが似合う、眼鏡の人。
――全く、どうしてそう危機感が薄いのだ。
何をしても、この強大な異能のあるクリスを心配し、説教してくる人。
「……ちゃんと、謝れなかった、なあ」
あんな別れ方をして、また気に病んでいるだろうか。それともそろそろ気が付いて、クリスのことなど気にかけもしなくなっただろうか。
「……ごめんなさい」
届かない言葉を呟く。
「……もっと、あなたのことを、信じてみたかった」
視界が暗くなる。瞼が降りてくる。呼吸が浅くなり、痛みも遠のく。
――遠くであの怒声に似た声が、名前を呼んでくれている気がした。