第3幕
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***
その日のクリスは奇妙だった。以前のように隠し事をしている風ではないが、国木田はどことなく彼女が何かを気にしていることを察していた。
例えば、カップを持ち上げた時。例えば、パフェへ視線を移した時。一つの動作をするたびに、彼女の鋭い気配がゆらりとその背から這い出、周囲へと波紋のように広がった。
それは闇を知る者だけが見ることのできる気配。この喫茶においては、国木田以外の客も、店員も、誰も彼女の意図を察することはできないだろう。
クリスは何かに警戒している。
けれどそれを問う間はなかった。彼女はいたって自然で、いたって朗らかで、いたって楽しげだったからだ。良く笑う彼女ではあるが、今日は一際楽しげなように見えた。過去を思い出す時でさえ、その頰から笑みは消えなかった。
「話を戻しましょう。どこで爆弾が使われる可能性があるか、という話ですが、その爆弾が元々誰のものだったかにもよりますね」
紅茶も飲み終わり、テーブルに両肘をついて指を組みながらクリスは目を細めた。
「もしその爆弾が特定の人物にしか作れないものであり、彼の組織でしか使われていないものだとしたら、それを盗み出し爆破すれば濡れ衣を着せることができます」
その声は世間話をする時と同じものだった。けれど、国木田はゾッと何かが背を這う感覚に息を詰める。目の前の少女は思考の中に埋もれるようにテーブルの上の一点を眺めていた。青が煌めく。何かを確信するように暗く、それでいて楽しげに。
まさか、とその微かな微笑みに気付く。
「……何を知っている」
「職業柄、手に入る情報は全て手に入れなきゃ気が済まないもので」
言い、彼女はにっこりと笑みを向けてきた。
クリスはあらゆるものに追われている。追われる者が一番に求めるのは、追ってくる敵の動向だ。それがわからなければ逃げようがない。そしてクリスには、それを自力で手に入れる技術がある。
国木田が黙ったのに対し、クリスは微笑みを絶やさない。国木田がそれに気付いたとわかっているだろうに、彼女は申し訳なさも後悔も見せないまま、国木田へと真っ直ぐに顔を向けるのだ。なぜなら彼女は、それを悪いことだと思っていない。
彼女は犯罪に慣れ過ぎている。慣れなければ、彼女は生き延びることができない。
「……軍警の情報を盗んだのか」
「たまたま手に入ったんです。軍警から爆弾が盗み出されたのを知った時はどうしたものかと思いました。ちょっと興味が出たので、詳しく調べてみたんです」
「何がわかった」
「それは言えませんよ」
彼女はさらりと言って、席を立つ。
「軍警があなた方に言わなかったのなら、そこには理由がある。わたしから言うことはできません」
「それどころではない」
「乱歩さんならすぐに推理しますよ、焦らなくても大丈夫です。それに、わたしから情報を買うと高いですよ?」
「クリス」
「お会計しましょうか」
「待て」
冗談を言うような話ではないのに、彼女は飄々と国木田の言及を躱そうとする。言い募ろうとした国木田へ、クリスは人差し指を己の口元へ当てて微笑んだ。何かを示唆するような仕草に、国木田は咄嗟に口を閉ざす。
クリスはかたわらに置いていたキャップ帽を被り、サングラスをかけた。今日の彼女は、シンプルなTシャツにパーカーを羽織り、くだけた雰囲気のショートパンツを合わせている。髪を後ろで束ねているせいもあり、普段は髪で隠されていた顎のラインが露わになっていた。それだけでも別人のようだが、帽子とサングラスの効果で更に見知らぬスポーティな女性へと変化する。腰の後ろに回された見慣れたウエストポーチだけが、彼女をクリスだと示していた。
普段とは違う少女の雰囲気に、国木田は確信する。まるで別人のような格好、静かに波紋を広げていた警戒心。
「追われているのか」
さりげない動きで会計に向かうふりをしつつ、囁く。歩行の動作に紛れるほど小さく頷き、クリスはサングラスへ手をかけながら小さく返す。
「相手が一般人なので尚更厄介で」
一般人、という言葉に驚く。彼女は祖国である英国にその身を狙われている強力な異能力者だ。異能を持つ者を追うのが一般人というのは考え難い。とすると、彼女が追われているのはクリス・マーロウとしてではなく、一人の人間として、か。
ちら、と周囲を一瞥する。誰もが楽しげに緩やかな時間を楽しんでいた。殺気はない。
クリスと共に店を出、半歩先を行く彼女についていく形で街を歩く。人々がすれ違い、追い越し追い越されていく。よくある光景が国木田の周囲に繰り返されていた。恋人同士、友達同士、家族連れ、老夫婦、考え得るあらゆる人間関係が街を歩いている。道の脇では店番の人々が集客に勤しみ、それに応じた人は立ち止まり、そうでない人は自身の目的地へと足を前に出し続ける。
これが日常だった。何かから逃げるように走ったり、目の前の事象に悲鳴を上げたりするのは断じてこの街にあってはならない。ちらと見た横顔は真っ直ぐに前を見つめていた。
彼女もまた、そうだ。涙も、慟哭も、何も彼女に負わせてはいけない。それはクリスがこの街の市民であるからだ。この街に住まう、国木田達武装探偵社が守る対象だからだ。
彼女はそれを否定し拒んだが、自身が軍警に追われた連続猟奇殺人事件以降はその頑なだった意思も変わりつつあるように思う。でなければ、こうして国木田と共に何かから逃げることもなかっただろうし、それどころか一人で相手を路地に誘き出して始末していたはずだ。
彼女は変わった。それが良い変化であったら良いと、密かに思っている。
「上手く撒けたみたいです」
人混みの中に敢えて突っ込んでいったクリスがようやく国木田に声をかけたのは、しばらく街を歩いてからだった。人混みの流れから外れ、建築物の外壁のそばで一息つく。ビルの足元は日陰になっており、一階部分は有名ブランドの店舗となっていた。ショーウィンドウに並べられたブランドバッグに魅せられた女性客が次々と店内に吸い込まれている。
「何に追われている? 英国か、ギルドの残党か」
「週刊誌です」
「……週刊誌?」
「週刊誌」
こくりと頷き、クリスはサングラスを外し、Tシャツの胸元にそれを引っかけた。心から困ったかのように眉を下げる。
「先日から劇場に張り付かれているんです」
「醜聞か」
「いえ、おそらく評判を聞きつけて紹介記事を。取材依頼は断ったんですが諦めてもらえなかったようです。――リアとしてのわたしと今のわたしは雰囲気を変えていますから、別人と認識されているはずなんですが……リアの出演日程とわたしの出勤タイミングを調べられてしまったみたいで。わたし自身の風貌を覚えられてしまってはどんなに他人を演じても誤魔化しきれない。始末すると逆に話題になりそうなんですよね、出版社ごと消せば良いんでしょうか?」
「良くない」
平然と言ってのけたクリスに即座に答えを返す。その言葉が冗談でないことは明白だ。現に彼女は、国木田の否定に困ったように眉を寄せた。
「駄目か……殺せないなら、誘拐屋に頼んで誘拐して洗脳するとか……」
「却下だ」
「じゃあ人質を取って口封じ」
「やめろ」
「じゃあ」
「まだあるのか……」
どういう生き方をしたらそこまで多彩な方法が思いつくのだろうか。深刻そうに眉をひそめて考え込む少女を見下ろす。帽子に隠れた表情に暗いものは一切ない。それが、彼女が闇の中で生きていることを何よりも表していた。
「わかった!」
パッとクリスが顔を上げる。突然のことに、国木田は目を逸せなかった。
緑で縁取られた鮮やかな青が国木田を映している。その奥、どこまでも覗き込めそうなほどに深い暗色の瞳孔。光が差し込む。大きく見開かれた歓喜の輝きが国木田を貫く。
「特務課に圧力をかけてもらいましょう! 彼らは政府の機関です、探せばきっと弱みがある。それを盾に協力してもらうというのはいかがでしょう!」
「……さも名案のように言うな」
「むう、これも駄目ですか……もはや週刊誌そのものを廃刊させるしか手が……」
呆れたままに返せば、クリスは俯いてつまらなそうに唇を尖らせた。再び帽子に彼女の顔が隠れる。思わず、手を伸ばしていた。ツバを掴み、クリスの頭からそれを外す。
「え、待ッ」
慌てたクリスが両手を頭に当てながらこちらを見上げてくる。
目が、合った。
光が青に差し込んでいる。雨上がりの水滴を思わせる、澄んだ眼差し。大きく見開かれたそれと、呆然と半開きになった唇。風を受けてそよぐ亜麻色の髪は金に輝いている。
「……国木田さん?」
目の前で少女が名を呼んでくる。答えることも瞬きをすることも惜しかった。目の前の青を、緑を、赤を、金を、そのまま取っておきたいと思うこの気持ちは何だろうか。
不思議そうにクリスが瞬きをする。青が色味を変え、緑が消えかける。思わず手を伸ばした。
指先が目元に触れる。手のひらが頬を撫ぜる。風に揺れた亜麻色の柔らかな髪が、国木田の手を包み込む。
湖畔の眼差しが、こちらを見上げている。
その青に映り込んだ自分の顔に気づき、国木田は慌てて手を離した。
「いや、違ッ、これは!」
何を言おうと決める前に言い訳じみた細切れの言葉が口をついてくる。焦っているわけではない、誤魔化そうとしているわけではない。では何をしていたかというと、自分でもわからない。そんな空虚で曖昧なこれをどう説明すべきかと悩んだ、その時だった。
――轟音が頭上で破裂した。
爆発的な破壊音は空気と地面を同時に揺らす。
上空から発されたそれに、国木田は空を仰ぎ見た。背後に立っていたビルが煙を上げている。ガラスの欠片が大量のコンクリート片と共に降ってくる。
「な……!」
驚く間も、考える間もなかった。
そばにいた少女の腕を掴み、その大きく見開かれた青を胸の中に引き寄せる。名を叫んできた亜麻色を包むように抱きかかえ、強く目を瞑った。
コンクリート片がアスファルトを砕く音。ガラスが跳ね、重なり、さらに割れる音。悲鳴の中に突如降ってきたそれらを確かに聞きながら、国木田は腕の中のものを強く抱き続けていた。この背中に何かが突き刺さるだろうか、この体を彼女ごと潰されるだろうか。あらゆる恐怖が国木田の思考を乱す。
けれど。
薄く目を開ける。
ガラスとコンクリート片に覆われたアスファルトが、周囲に広がっている。その惨状の中で、数多の人々が頭を庇っていた腕を解き、周囲を見回していた。
そこに赤色も悲鳴もない。
あるのは違和感だ。
上空から降り注いだ凶器が、人々を見事に避けて地面に食い込んだという奇妙な現象。その原因に気付いたのは、国木田の腕の中にいたものが微かに身じろぎした時だ。
「……国木田さん」
亜麻色が視界に入る。絹糸のような細いそれは、太陽の光を受けて輝いた。ふわりと香りが鼻をくすぐる。
――風が、頬を撫でた。
「……まさか」
腕を緩め、少女を覗き込む。腕の中で、青がこちらを見上げてくる。凪いだ水面が、ふと小さく波を立てた。
「お怪我はありませんか」
湖畔が優しく微笑む。その美しい色に問う。
「……あなたが、やったのか」
「咄嗟です。誰にも見られていないと良いんですが」
その声は潜められている。そうだろう、彼女は彼女が異能者であることを、彼女がクリス・マーロウであることを隠さなければならない。だからこそ、意外だった。自身の保身を優先してきた彼女が、咄嗟とはいえ他人のために異能を使うとは。
「国木田さん」
くい、と服の胸元を引き、彼女は隠れるように国木田へと顔を埋めた。
「犯人を探しに行かないんです?」
自分の胸元からくぐもった声が聞こえてくる。小さなぬくもりが胸にしがみついている。大きくなった心臓の音を聞かれているようで、ヒヤリとした。
「……何だと」
声が掠れる。
「お忘れですか?」
少女は笑って囁いた。
「爆弾は爆発させるためにある――今まさに、それが為されたんですよ」