第2幕
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***
――クリスと芥川の邂逅から少しの後。
芥川の襲撃を受けた後、敦は探偵社を抜け出していた。
「……僕に、できること」
ぽつりと呟く。今は昼間、仕事の時間だ。しかし敦の頭には、医務室で目覚めた時に見た国木田の焦り様がこびり付いて離れない。
「……国木田さん、すごく動揺していたな」
出会うなと言われていた芥川という男に出会ってしまった。しかも奴は敦を狙っているという。数日前まで孤児院で細々と生きていただけの自分がなぜ、異能力などというものに振り回され、あんな凶悪な男に狙われなければいけないのだろう。
敦は己の喉に触れる。孤児院から追い出された後ろくな食事も取れず見る間に細っていった体は既に肉をつけ始めていて、首元も皮の下の脂肪が確認できるくらいにはなった。
七十億。
それがこの細い首に懸けられた金額。
一文無しだった敦にはその数字は実感が湧かない。けれどその金額が、自分の周囲を害する敵が現れる原因になり得ることはわかる。
暗い路地、血の臭いが充満するそこで倒れている谷崎とナオミの姿を思い出す。
――貴様は生きているだけで周囲の人間を損なうのだ。
あの言葉を、思い出す。
「……嫌だ」
自分のせいで誰かが傷つく、殺されかける。それは嫌だ、何よりも嫌だ。せめてあの人達だけは、自分を助けてくれた人達だけは、守らなければ。
守らなければ。けれど、どうやって?
――自分でできることを考えておけ。
今、何をすべきか。
そんなこと、臆病で何もできない自分が一番良くわかっている。
「……逃げなきゃ」
逃げるのだ。自分の周囲に大切な人がいない場所まで。自分のせいで害される人がいなくなるように。
けれど、そう思うたび、探偵社の人達の温かさを思い出す。やっと手に入れられるのかもしれないと思っていた、情、愛、優しさ、そういったものがあの場所にはある気がして、本当は離れたくなんてない。けれどこんな自分のワガママであの人達が傷付くのは嫌だ。
――出て行け穀潰し!
何度振り払っても消えない記憶が、瞼の裏で敦の心を抉っていく。
「……役立たずだなあ、僕」
まさしく穀潰しだ。探偵社の社員になれたとはいえ、ナオミと谷崎が大怪我をする様子を眺めることしかできず、芥川には抗うこともできず。無意識のうちに異能力を発動して事なきを得たらしいが、それが意識的にできなければただの偶然だ。
僕には一体、何ができるんだろう。
ぼうっとしながら歩いていたら、いつの間にか川辺へと来ていた。川は太陽の光でキラキラと輝いている。綺麗だ。自殺はしたくないけれど、水面で星のように瞬く輝きに手を伸ばして、掴んでみたいとは思う。
柵に手を掛けて寄りかかり、川面と川の向こうの建物を眺める。この景色のどこかに、僕の居場所はあるのだろうかとふと考えた。
きっと、ない。どこに行っても役に立たない、それどころか周囲の人に危害を与える存在にしかなり得ない。
「落ち込んでいるようですね」
ふと、敦の隣に人影が落ちる。その人は敦のように柵に手を掛けて寄りかかった。見上げれば、見知らぬ女の子が敦に微笑みかけている。敦と同じくらいか、少し年上の子だろう。亜麻色の髪は川辺からの風を受けてふわりと広がっている。光の加減で緑にも青にも見える目は穏やかで、そこに宿った優しさは探偵社の皆を思い出させた。
「あの……」
「休憩時間に散歩しにここまで来たんですけど、とてつもなく暗い空気を背負った人がいたものだから。飛び込みでもするんです?」
「いやいや、しませんよ」
太宰さんじゃあるまいし。
そう呟きながら苦笑を漏らした敦の脳内には、太宰の今まで起こした自殺未遂の数々が思い起こされている。今もどこかで人に迷惑をかけているんだろうか。あれくらい堂々と他人に迷惑をかけられるような、誰かが死ぬだとかとは無縁な軽い境遇だったのなら、少しは気が楽だっただろうか。
思考はどこまでも沈み、暗く淀んでいる。
「ではなぜここに? あなたは休憩時間というわけではないでしょう?」
事情を何も知らないはずの女の子は、敦の心の傷を労るような声音で話しかけてくれた。知らない人のはずなのにどうしてか、心の内を吐露しても良いと思いそうになる。平和な世界の誰にも共感も理解もしてもらえなそうな身の上話を少しはしても良いだろうか、という弱い気持ちが生まれ始めている。
自惚れかもしれない。けれど、この都合の良い思考を否定する気にはならなかった。
「……逃げて、きたんです。自分の職場から。僕は何もできなくて、それなのに皆さんに迷惑ばかりかけてしまうんです。今回だって」
ふと口を閉ざす。
どこまで話して良いのだろう。相手は探偵社の部外者だ、詳しい話はしない方が良いのだろうか。僕はもう探偵社の社員ではないけれど、守秘義務というものは守らなくてはいけない気がする。
「わたしはあなたの独り言を聞いているだけですよ」
背中を柵に預ける形に体勢を変え、女の子は突然言った。まるで敦の心を読んだかのような発言だ。驚いて顔を上げる。そんな敦と目を合わせず、穏やかな横顔をそのままに、彼女は敦の視線の先で微笑んでいた。
「わたしは休憩時間に暇潰しをしている。あなたは独り言を呟いている。ただそれだけです」
断定的なその言葉には慈悲はない。けれどどうしてか――どうしてか、心地良い。
敦は川面へと目を戻した。輝く青が波立ちながら木の葉を運んでいる。それを見つめ、敦は口を開いた。
「……社員になる前、僕は孤児院から追い出されました。僕は何もできない子供で、孤児院は辛かったけどそこにしか居場所はなかった。そんな僕がその場所すら失くしていた時、太宰さんが誘ってくれたんです」
敦はとめどなくこぼれ出る思い出話を話し続けた。
そんなに長い間、彼らといたわけではない。けれど見たこと感じたこと知ったこと、それ以外もたくさん得た。
太宰の自殺を助けてしまったことから始まったこと。自分を追っていると思っていた虎が、自分の異能力そのものだったこと。社員の皆に仕組まれた入社試験で探偵社が物騒だということを感じ始めたこと。
次から次へと溢れる思い出は途切れることはなく、敦の脳裏にはその時の光景が鮮明に映し出され続けている。顔を緩ませながら話していた敦の声が途切れがちになったのは、芥川が話に出てきた頃だった。
「……僕にはやっぱり、居場所なんてないんだと思いました。実際目の前で谷崎さんとナオミさんが血を流してて、自分がその原因で……僕さえいなければ、きっとあんなことにはならなくて」
「独り言に口を挟んで申し訳ないですけど」
ずっと黙っていた女の子が、淡々とした声で言う。
「谷崎さんとナオミさんは死んだんですか?」
「いえ、無事だそうです。与謝野先生の治療を受けてるって」
「そう。……もう一つ、あなたが彼らの怪我の原因だと、社員の皆さんには言われました?」
「いえ、直接は。でもきっと……」
質問に戸惑いつつ答える。
きっと、そうだ。あの人達は優しいから、そんなことは直接言ってこない。それどころか悪口も言わず、敦のために体を張ってくれるだろう。それが申し訳なくて、何も返せない自分が嫌で、情けなかった。
「ならあなたがすることは決まりましたね」
「……え?」
この人はさっきから前触れもなく何を言っているのだろう。戸惑う敦に、彼女は満足げな笑みを向けた。
「自分が谷崎さん達の怪我の原因か、これからのことを考えると自分はここにいて本当に良いのか、社員に直接聞くんです」
「……ええッ?」
今し方自責の思いを告白した人間に対して「本当のところを直接聞いて来い」とは。どうしたらそうなるのか。素っ頓狂な声を出した敦へと、彼女は自信満々とばかりに人差し指を振った。
「話を聞く限り、あなたの話には他者の評価が入っていない。主観的な思考で下された判断は事実を婉曲しあなたの眼を濁らせ道を誤らせる。悲劇の常套です」
「悲劇?」
「はい。ちなみに悲劇の定義は色々ありますが、一番は主人公やその周囲が死んで幕が閉じると悲劇と呼ばれますね」
「えええ……」
そんなことを教えられても困る。
突然始まった講義とその内容に戸惑う敦の横で、彼女は柵から身を離した。敦に向き直り顔を覗き込んでくる。
青の目が、そこにあった。ただの青ではない。緑も含んだ、水面と草葉の色だ。まるで水たまりに浮く笹の葉のよう。雨上がりを予感させる瑞々しい光景が、その目に宿っている。
「あなたは、悲劇を演じたい?」
それ、は。
「……嫌、です」
何を考える間もなく、その答えは敦の中に既にある。
「誰かが死ぬとか、そんなのは嫌です。……じゃあどうするかと聞かれると困りますけど……」
「なら、まずは確かめてみれば良い」
自分のものより一回り小さな手が頬を撫でる。笹を揺らす風のような爽やかで通りの良い心地が敦の頭の中へと吹き渡り、靄を晴らしていく。
「そして己が感じた光に従うこと。あの場所を手放すのが正しいと感じたならそうすれば良い、あの場所に留まりたいと感じたならそうすれば良い。それが今、あなたがすべきこと」
「僕が、今、すべきこと……」
「行動は光を見出す鍵になりますよ。――というわけで」
と。
風のような声音をあっさりと失った明るい声で彼女はにっこりと笑った。ポンと敦の肩に手を置く。
「いってらっしゃい!」
「ッてさっきまでのシリアスな空気は何だったんですか!」
「そうでもしないとわたしの話を聞き入れてくれないと思ったから」
確かに今のボロボロな心の状態では「直接聞きに行けば?」などと言われても嫌がっていただろう。が、変わり身が早すぎる。探偵社の皆といい、この世の人達は自由奔放すぎてついていくのが大変だ。
「とりあえず顔だけでも出しに行って、会社を辞めることを話した方が良いと思いますよ。これじゃ単なる家出、無断欠勤です」
「そう……ですよね……」
「新人が何も言わずに欠勤したんじゃあ、ますます会社の迷惑だし」
「そ、そうですよねー」
「わたしの休憩時間も終わり。それじゃ、頑張ってくださいね」
さらりと言い、彼女は敦の横をすり抜けて歩き出す。言いたいことを言ってすぐに帰ろうとする辺り、親切なのかそうでないのかわかりにくい子だ。けれど間違ったことは言われていない、ひとまず探偵社に戻るべきか。そう思いはするけれども、敦の心はやはり浮かなかった。会社まで戻れたとしても、あのビルの前で踵を返してしまいそうだ。
とぼとぼと川辺を戻り始めた敦の前で、立ち止まって振り向いた姿があった。先程すぐさま去って行ったはずの見知らぬ女の子だ。
「敦さん」
一つ訊いても良いかと彼女は真顔で言った。頷くと、彼女は短い問いを口にする。
「〈本〉を知ってますか?」
「本……?」
「とは言っても書店や図書館にある普通の本ではなくて」
「えっと……言っている意味がよく……」
「わからないなら大丈夫です、それじゃあ」
背を向けかけた彼女は、敦に微笑んで言った。
「また明日、ね」
明日。
「え……?」
敦の戸惑いなど気にもしないとばかりに少女は背を向けて歩き去ってしまう。
明日。
明日、あの子と会う予定などあっただろうか。会社を飛び出した今、明日の予定などないに等しいし、そもそも予定なんてあまりない。
必死にフル回転する敦の脳みそは、やがてとある記憶を探し出すことに成功した。
「……あ!」
――そういえば、敦さんは明後日の午後は空いていますの?
芥川と遭遇する前、ナオミと交わした約束だ。劇団の演劇を一緒に観に行くという、今のナオミの状態ではもう叶わない約束。
「けど、なんで……それに、どうして」
なぜあの子は、教えてもいない敦の名を知っていたのだろう。