第3幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
「なあ、お姉さん」
共に国木田を見送った文が、足元からクリスを呼ぶ。見下ろした先で、文が真面目な顔つきでクリスを見つめてきていた。
「お姉さん、国木田のこと好きなんやろ?」
「ええ。いつもお世話になってますし、からかうの楽しいですしね」
「そういう意味やなくて」
見上げてくる目は、誰かのものと似て真っ直ぐだ。
「恋愛的な意味で、好きなんやろ?」
「……え?」
「まさかあんたも理想がどうこう言うん?」
「いえ、あれほどじゃないですけど」
「じゃあ何ですぐ答えられんの? 国木田もあんたも、わかりやすいわ」
何を言えば良いのかわからなくなった。文の言っている言葉は理解できる。聞き取れている。好きという感情が何なのかも、演劇を通して理解している。
けれど。
「……わたしが、国木田さんを、好いている?」
それは何だ。国木田のことは嫌いではない。隣にいると心地良いのも事実。でもそれは、彼がクリスの敵ではないからだ。彼がクリスを虐げようとしてこないからだ。クリスにとって国木田は、探偵社は、利用価値のある場所でしかない。
この感情は、恋ではない。
「あんたも難儀やなあ」
文は大人びた様子でため息をつく。
「幸せはな、気付いた時に呼び止めんとあっ言う間に逃げてまうもんなんやで」
幸せ。
幸せとは、何だ。
「文、クリス」
国木田が与謝野と共に戻ってくる。この事件についてはひと段落したらしい。
「どうした」
国木田が問うてくる。向けられたその眼差しを、じっと見つめる。
「おい、クリス……?」
「やっぱり違いますよ、文さん」
文へと目を移す。
「劇だともっと、華々しくて苦しいくらいなんですもん」
「そうなんかなあ」
「そうですよ」
文と二人、主語もなく話をする。話題に置いていかれた国木田は一人、眉を潜めた。
「何がだ?」
「こちらの話です」
にこりと笑ってみせれば、国木田は何かを言おうとしたものの口を噤む。予想通りの反応に、クリスは笑みを深めた。この人はいつも、クリスを深く追及して来ない。その他人行儀で不干渉な気遣いが心地良かった。
クリスが国木田の隣にいるのは、彼の性格がクリスに都合良いというだけだ。
「与謝野先生、それでは俺は次の仕事に向かいます。文をよろしくお願いします」
「わかってるよ。ちゃんとご両親に引き渡すさ」
「国木田、まだ仕事するんやね」
「当然だ。まだたんまりと残っている」
そのまま立ち去ろうとする国木田へ、クリスは呼びかけた。
「国木田さん」
国木田が振り向く。その姿に、微笑む。
「いってらっしゃい」
「――ああ」
国木田が頷く。背を向け、歩き出した国木田から目を離し、クリスは与謝野達へと向き直った。
「わたしも行きますね。用事を済ませないと」
「引き止めて悪かったね」
「いえ。無事に終わって良かったです」
文と与謝野に手を振り、駅構内へと向かう。改札を通り、階段を降りながら、ふと思い出す。
――お姉さん、国木田のこと好きなんやろ?
そんなはずがない。
恋を知らないわけではない。舞台の上で散々演じてきた。相手のことばかりを考えるようになり、考えれば考えるほど、思い出せば思い出すほど、胸が苦しく痛む現象。それが恋、人に惹かれるということだ。
あえて国木田のことを思い出してみる。あの眼差しを、声を、優しさを、ぬくもりを、思い出してみる。
――今後何があったとしても、あなたに出会ったことを、俺は後悔しない。
初めて会ったのは、川辺だ。その時から利用できると思って、親しみの皮を被ったまま近付いた。彼はクリスを疑いもせず、クリスは彼を好都合な駒として認識していた。利用するだけだったはずの国木田に情が湧いたのはいつからだっただろうか。きっとギルドが来航する前からだ。でなければ、ギルドに潜入する前に国木田に会おうとは思わなかったはず。
そして手のひらを返して敵に回ったクリスに、国木田はそれでも言葉をくれた。
――俺に頼れ、クリス。
あの優しさに、無謀さに、救われたのは確かだ。けれど信じはしなかった。嘘に違いなかったからだ。だから連続猟奇殺人事件の時も彼らから逃げなければと思った。守ってくれる、庇ってくれる、そんな妄想に縋る余裕も確信もなかった。
――覚悟はできている。
クリスを庇うという意味を、あの時の国木田はどれほど理解していたのだろう。乱歩や太宰なら、それが自分達を危険に晒しつつも世界を守ることになるとわかっていたはず。けれど彼は、きっと「目の前の人を救う」という理想のためにクリスを選んだのだ。そうであるべきだった。彼には詳細を話していないのだから、クリスの死や捕縛がどんな結末を導くかなど知らないはずだ。曰く「守るべき一般市民の一人」としてクリスを守ろうとしたに違いない。
国木田には感謝している。けれどそれは都合良く思い込んでくれたことに対する表面的な思いだ。
だから、違う。
これは恋慕ではない。
胸に広がるこれは、強いて言うならば安堵。敵ではないという安らぎだ。
ホームに立ち、列車の到着を待つ。数多の人々に紛れるように、一人静かに佇む。
「……違う」
胸に当てた手を強く握り締める。
「違う」
言い聞かせる。
「違うんだ」
生き抜くことに精一杯なのだ、そんな甘い感情の世話をする余裕はない。いつどこへ逃げなければいけなくなるかもわからない、誰が敵になるかもわからない、そんな状況で恋などできるわけもない。この心を導くのは、失った友との約束だけで良い。
――心の底から誰かを思うことなんて、もうない。
息を吸う。胸の中に溜まる曇天を追い出すように、長く息を吐く。
電車が近付いてくる音が聞こえてくる。いくつもの木霊が重なって大きく広がっていくそれに、暴力的な音量で思考を乱すそれに、クリスは静かに目を閉じて聞き入った。