第3幕
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***
爆弾魔の桂正作が市警に連れて行かれるのを見送った後、国木田達は状況説明のため駅に留まっていた。今日の予定はことごとく潰えた。予定通りの日々を送ることを第一にしている国木田にとって、今日という一日は忘れられないものとなるだろう。
駅の外へ出、久し振りに陽光を浴びた後、国木田は足元にいる少女を見遣る。文、と名乗ったこの子供のおかげで国木田の予定は狂い、人々を助けることができたのだった。活発で強引な印象ではあったが、爆弾を巻きつけられるという状況に陥ったというのに放心も乱心もしなかったのは褒めるべきことか。
「なんか、あっという間だったわあ」
今も夢から覚めたばかりのような調子で大きく伸びをし、文は国木田を見上げる。
「国木田」
「何だ」
「……ありがとうな」
ぽつりと言い、文は顔を赤らめて目を逸らす。
「ち、ちゃんと言わなあかん思ったんや! うちは正義の味方や、ここらへん、ちゃーんとしとかな思ったんや! だから、その……」
ありがとう、と再び文は呟いた。
「国木田がおらんかったら、うち、旅行鞄が爆発して死んでたか、首の爆弾が爆発して死んでたかどっちかやった。……ちょっと怖かったんよ、国木田がパソコンのキーを押した時。死ぬんや、って思った。けど、あんたがいてくれて……そばにいてくれて、少し、少しだけ、安心した」
文がこちらを見上げてくる。そこに、危機を乗り越えた後の穏やかな安堵があった。
「ありがとうな、国木田。うち、この恩絶対忘れへん」
「……そうか」
自然と頰が緩むのを感じた。助けることができたのだという歓喜が、文の笑顔を見て改めて込み上げてくる。
「……それは良かった」
目の前の人を救うことの難しさを知っているからこそ、文の言葉は嬉しかった。ありがとうと言われたくてこの仕事をしているわけではない、国木田が助けたいと思うからこの仕事をしている。けれど、やはりその言葉を向けられることは嬉しいものだ。
「そ、それで」
ふと、文が声を浮つかせた。服の裾を掴み、身なりを整えるように手を動かす。
「あ、あんた、理想馬鹿やもん、どうせ嫁さんもカノジョもおらへんのやろ?」
「ぐ」
突然言われた事実が無防備だった国木田の胸に深々と突き刺さる。けれどここで動揺してはいけない。なぜなら国木田に嫁も交際相手もいないのは、それが国木田の予定通りだからだ。国木田の全ては手帳に記してある。国木田は、それを忠実に実行しているのだ。そうだ、そうなのだ。
動揺する国木田を前に、文はもぞりと体を動かした後、髪を耳にかける。
「その、どうしても言うんやったら、う、うちが、あんたの……」
――瞬間、国木田の脳裏には手帳の文字が浮かび上がっていた。勿論、配偶者計画の条件を記したページだ。目の前の文を見、今までの行動を思い出し、採点していく。
「文」
「な、何?」
目線を合わせるようにしゃがみ込む。真っ直ぐ目を見てやれば、文は何かを期待している目を大きく見開かせた。
「お前は配偶者計画の条件五十八項目中三十一項を満たさんので却下だ」
「……は?」
文はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「……何やそれ」
「理想だ。この手帳には俺の理想の全てが記されている。今日一日の予定だけではなく、仕事の相棒についてや仕事の進め方についての他、買い物から布団の敷き方まで記してある。配偶者に関しては五十八項目だ」
胸元からそれを取り出した国木田へ、文はだんだんと目を座らせていく。
「……あんた、やっぱり理想馬鹿や」
「理想を求めて何が悪い」
「でも、それが国木田なんやろな」
大きなため息をついて文は肩をすくめる。大袈裟なそれへ、国木田は眉をひそめた。
「何だその不満気な顔は」
「そりゃ不満や、勇気振り絞って言うたんに理想がどうとかって突き返されて。でも……子供だからとか言われんかったんは、意外やね」
ぼそぼそと呟く文の言葉は、最後の方は聞こえなかった。聞き返そうとして、国木田はふと視線に気がつく。
顔を上げて、そちらを見る。見知った亜麻色が太陽の光で金色に輝いていた。呆然と立ち竦んだ彼女は、その緑を映した青の眼差しで国木田を見つめてくる。
「……国木田さん」
「クリス?」
ここで会うとは思わなかった。突然のことに国木田は言葉を失う。
「国木田さん」
二度名を呼び、クリスが駆け寄ってくる。立ち上がった国木田へと飛びついてくるかと思うほどの勢いで来た彼女はしかし、国木田の目の前でぴたりと立ち止まった。戸惑うように国木田の服へと指を伸ばし、けれど触れないまま指先を彷徨わせる。
「どうしたんですか、これ、すごい汚れてる……それに」
ちら、と彼女は国木田の足元にいる文を見下ろす。
「隠し子がいただなんて知りませんでした」
「どうしてそうなる」
「え、違うんですか?」
「違うわ!」
きょとんとする彼女に怒鳴り、国木田は額に手を当ててため息をついた。対してクリスは楽しげにクスクスと笑っている。冗談は選んで欲しい。
「国木田、この人誰なん?」
文が服の裾を引っ張ってきた。ああ、と頷く。
「劇団で役者をしている、クリスだ。探偵社の仕事を手伝ってもらうこともあるがまあ、常連だな」
「太陽座ってところで舞台女優してます。もしよかったら見に来てくださいね」
にこりとクリスは文へ微笑む。パッと文は顔を輝かせた。
「お姉さん、あそこの女優さんなんか! 凄い人やん。うちは文や、よろしゅうな」
「はい。――それで、あの、お怪我は? 立ってて大丈夫なんですか? 治療は?」
再び服へと目を移した彼女に、国木田は意外さを覚えた。彼女のことはある程度わかっているつもりだが、まさか他人の怪我をしつこく気にしてくるとは。聡い彼女ならば見ただけで「与謝野さんに治していただいたんですね」などと笑ってくる気がしたのだが。
「いや、問題ない。与謝野先生に助けていただいたからな」
安心させるための言葉のつもりだった。けれど、クリスの表情がすぐさま強張る。
「それって……瀕死になった、ってことですか。またあなたは」
答えに窮した国木田へ、クリスは何かを立て続けに言おうとし、しかし口を閉じて目を伏せた。そのまま一歩国木田から離れる。
「……与謝野さんが間に合って良かった」
言い、クリスはにこりと笑う。何かを誤魔化し隠した笑顔だった。それを見、国木田はただ頷く。その先の言葉を訊ねても無駄なことはわかっていた。聞いて欲しくないから、彼女は言わないのだ。そういう人だった。
太宰なら構わず訊ねていただろうか、ふと指摘の鋭い同僚を思い出す。
自分は同僚ほどに器用ではない。
「なあ国木田」
文が声を上げた。ぴしりと指をクリスに向け、文は唐突に続ける。
「この人はどうなん?」
「何がだ」
「配偶者計画? とかいうの」
「……は?」
「わかりやすいなあ。ほんまに探偵なんか、あんた」
国木田の反応に、文は目を眇める。
「で? この人は何項目当てはまるん?」
「それは」
「ああ、配偶者計画ですか。それならわたし、五十八項目中二十八項目しか当てはまりませんよ」
え、と国木田はクリスを見る。そこにいたのは、やはりにこにことした少女だ。そうだった、彼女は既に国木田の手帳の中を見ており、その上全て記憶している。
「何や国木田、この人もそんな理由であかん言うたんか。わからん男やな」
文が何やら納得したようにウンウンと腰に手を当てて頷いた。
「けど少し安心したわ」
「何がだ」
「国木田は国木田なんやなあって」
「どういう意味だ」
「おーい国木田ぁ」
駅員と話し込んでいた与謝野が、大声で国木田を呼ぶ。手招きしているということは、来いと言いたいのか。文の言葉が気になるが、後回しにするしかない。
すまないが、と言い、国木田はその場を後にする。目の端に映ったクリスが、ふと寂しげに目を伏せた気がした。