第3幕
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[Act 3, Scene 2]
良く晴れた日だった。
街はいつものように人々が行き交っていた。昨日も一昨日も、同じ景色がそこにあったように思う。代わり映えしない光景の中を歩きながら、クリスはちらと与謝野を見遣った。
「それで、国木田さんは外出をしてしまったんですか」
「すまないねえ、引き止められなくて」
「いえ、用事があったわけではないので」
クリスと並んで歩く与謝野の蝶の髪留めが、太陽光を反射して輝く。光を髪に飾っているかのような錯覚に、クリスは目を細めた。クリスの視線に気付かないまま、与謝野は肩を竦める。
「一秒も遅れられない、ってすぐに出て行っちまったから。相当やる気になってたよ。太宰もね」
「太宰さん?」
「国木田の予定を乱そうと躍起になってるよ」
「ああ……なるほど」
太宰がやる気になるとはどういう意味かと思ったが、そういうことなら納得がいく。むしろその場にいられなかったのが残念なくらいだ。
「……楽しそう」
「アンタ、最近よく太宰とつるんでるねえ」
「国木田さんの反応が面白くて」
さらりと言い、クリスは悪戯っぽく笑ってみせる。半分は本当だが、半分は嘘だ。
――感情的になってはいけないよ。特に君は。それが敵の策略だ。
澁澤による陰謀が阻止された後、バーの席で太宰はクリスにそう忠告をした。その真意は不明だ、「敵」が誰なのかもわからない。けれどクリスを手の内に飼い監視下に置こうとしている太宰がそのようなことを言ってきたのが引っかかっていた。誰にも囚われず利用されず逃げ続けることを必要としているクリスにとって、太宰こそが敵だというのは彼もおそらくわかっている。
だから、様子を見ている。彼の行動の端々に見える本心を探している。
敵とは誰のことか。策略というのは何のことか。それともあの言葉はクリスを困惑させるための嘘なのか。探偵社経由で国の機関である異能特務課の監視下に置かれてしまっている以上、逃亡を図るわけにもいかないので、暇つぶしを兼ねた情報収集でもある。
「それで、太宰さんは今どちらに?」
「社内にいるよ。どこかに電話しまくっていたけど……国木田の後をつけるかと思ったんだけどねえ」
「ふーん……?」
電話、電話か。太宰の思考は読めない。何をするつもりなのだろう。顎に手を当て考えるも、太宰が好みそうな手は思いつかない。この類の発想で太宰に敵うとも思っていないが、少しはあの、裏の裏ではなく裏の側面を掻くような、柔軟で突拍子のない考えができるようになれたらとは思う。
目の前の横断歩道の信号が赤になる。点字ブロックの上に立ち止まり、道路を往来する車の群れをぼんやりと眺めた。そういえば、と与謝野が声をかけてくる。
「行き先が同じだから一緒に来てくれたのはありがたいけど、クリスは駅に何の用なんだい?」
「駅に、というよりは隣街に用があって。頼んでいた物を受け取りに行くんです」
「特注品なのかい」
「いえ。パーツが珍しいので、取り寄せてもらって」
「パーツ?」
きょとんとする与謝野へ、人差し指を唇に当てて微笑む。それだけで察しがついたらしい、与謝野は途端に呆れ顔になった。
「……また無茶するんじゃないだろうね?」
「定期的なアップグレードですよ。最近新しいセキュリティシステムが開発されたので、それの対策です」
クスリと笑めば、与謝野は大きなため息をついて視線を逸らした。無茶をしないわけではないのだろうな、とでも思われたのだろう。しようとしていること自体は大したものではない、いつも使っている小型パソコンの改良のためのパーツ集めだ。
あらゆる場所にあらゆる手法で侵入できるその機械は、クリスの諜報活動に必須な道具である。中身は常に最新のパーツを使い、最新のソフトを掲載し、どんなセキュリティも突破できるように整えてあった。逆探知を阻害する機能も搭載している。多彩な機能を積んでいる分容量が小さいので多量のデータから特定のデータを抽出する作業などは苦手だが、容量の大きな機械に繋げば機能が共有され、その点を解消できるようにしてあった。
今回のパーツが手に入れば、さらに情報収集の効率化が進む。国の情報網にアクセスする時間も短縮されるはずだ。
信号が青に変わり、他の歩行者と共に道路を渡り始める。黒地に描かれた白の線を順に踏んだ。トン、トン、と跳ねるように歩くクリスの無邪気さを見、与謝野は苦笑を漏らした。
「アンタは変わらないねえ……」
「これが常ですから」
おそらく様々な意味が込められているであろうその言葉へとにこりと笑う。相手がどれほどクリスの動向を気にしていたとしても、「常だ」と言っておけば察しの良い相手ならすぐに諦めてくれる。探偵社と関わる回数が増えている分、彼らに渡す情報も選んでいかないといけなかった。余計な詮索をされないようにすることも大切だ、彼らは敵ではないが、敵でないことが必ずしも信用に値するとは限らない。
そんな意図を感じ取ったのか否か、与謝野はじっとクリスを見つめてくる。クリスはきょとんと目を瞬かせてみせる。
「与謝野さん?」
「……いや、何でもないよ」
与謝野は何かを言いかけたまま、首を横に振る。
「聞いたところで何も答えちゃくれないんだろう?」
「何のことかはわかりませんが、たぶんそうですね」
最後までしらを切り通す。与謝野は単にクリスを心配しているだけで、何かを聞き出そうとしているわけではないことはわかっている。けれど油断することはできなかった。彼女にその気がなくても、その後ろにいる太宰が、乱歩が、そうではない可能性がある。彼らの手の中にいる以上不利を被るわけにはいかない。
これを孤独だと呼ぶのなら、クリスの孤独は義務だ。これを怠れば世界が不幸に陥れられる。この身は、この身に潜む技術は、誰の手にも渡してはいけない。
それは、何を虐げ犠牲にしてでも守るべきものだ。
だから、わたしは。
――ずっと、一人で。
「そこのお嬢さん」
ふと道の脇から声が上がる。ちらと見れば、小さな台に店を構えた白い服の男がひょいひょいと手招きしていた。台の上の筮竹の入った筒や台の前面に張り出された手相の解説の絵が、彼が占い師であることを示している。
「……わたし?」
「うんそう、君」
占い師はにっこりと笑った。
「一つ運勢を見ていかない?」
「興味がない」
「ええッ! そこは『お願いします』って言うところじゃないの? ……うわあッ」
仰け反って大袈裟に驚く仕草をして、勢いあまって男は椅子から転げ落ちた。道化のような男だ。左目に傷痕があり、右目は仮面に隠されている。占い師らしからぬ白いマントを羽織ったこの男に警戒心を抱かないわけがなかった。
バッと立ち上がり、男はわたわたと両手を振り回す。
「じゃあ無料で! 無料で見てあげるから!」
「断る」
「何で! 女の子は皆占いが好きだからそれで声かければ怪しまれて話を聞いてくれますよってドス君言ってたのに!」
「……ナンパなら他の人を当たってください」
「待って待って! 伝言だよ伝言!」
「……伝言?」
立ち去ろうとしかけた足を止め、眉を潜める。改めて見遣った先で、男は――す、と表情を変えた。
静寂。
ふざけた雰囲気はどこにもない。真摯な意思を伝えようとするかのような、何かが始まろうとするかのような、視線を己へと惹きつける静けさが男から発される。
仮面の下の口が、薄い笑みを浮かべる。
「『あなたには力がある』」
――心臓が跳ね上がった。
「『あなたは全ての罪を消し全てを救済することができる』」
「……何を」
「君なら鳥の自由をわかってもらえそうだよ」
小さな台の向こうで男がマントの端を掴み、優雅にそれを広げている。派手な裏地に何かが隠されているとでも言うかのように、空いた手でそちらを差し示す。
――何かが、隠されているとでも言うかの、ように。
「はーい、以上!」
途端、男はまた満面の笑みを浮かべて両手を振り上げ明快な声を上げた。
「あ、最後のは僕の感想ね! 最初の方のが伝言! 最初の方っていうのは、えーっとね……うわわ、一度言ったら忘れちゃった! 僕何言ったっけ! まあいいか!」
バサリとマントを放るように広げた後、男は胸に手を当てて腰を折った。
「それでは、これにてさようなら」
「……待て、君は一体」
マントにくるりと体を包み込んだ男へ歩み寄り、手を伸ばす。翻ったマントの端が指先に触れる。
瞬間――白いマントが視界から消えた。
「……え」
店員のいない占い処の前で、クリスは何も掴めないまま握り込んだ手を掲げていた。あの道化師の姿はどこにもない。歩き去ったのではない、手が届かなかったわけでもない。
消えた。
「……異能者……」
ゾッと背筋に冷たい緊張感が走る。触れてはいけないものに触れたかのように、手のひらに握り込んだ空気がどろりとこぼれ落ちた気がした。
異能。それしか考えられなかった。瞬時に姿を消すなど、普通の人間ができることではない。
だとすれば、あの言葉は。
――あなたには力がある。
あの言葉は、伝言は、誰のものだ。何を示唆している。
宙を泳いでいた拳を解いて、下ろす。冷えた汗が首筋を這う。
「おや、お客さんかね」
とことことクリスの元へ中華風の服を着た男性が歩み寄ってくる。
「席を外していてね、すまんねえ。易占いかね、手相占いかね?」
「ここにいたのかい、クリス」
与謝野が道を戻ってくる。
「姿が見えなくなったと思ったら。占いに興味があったのかい?」
クリスは素早く周囲を見回した。与謝野も、占い処の店員も、他の歩行者も、白い道化師に気付いた様子も消えたことに気付いた様子もない。誰も気付いていない。あれがここに存在したことすらも。
ならば、あれは悪戯ではない。
手練れだ。
「……いえ、大丈夫です。そこに猫がいて、ちょっと戯れてました。行きましょう」
にこりと与謝野に笑み、そして占い処の店員へと頭を軽く下げて歩き出した。与謝野へ実在しない猫との出来事を話しつつ駅へ向かいながら、思考する。
あれは、誰だ。何であれ敵だ、クリスの力を知り、求める者。英国の刺客か、別の者か。
ぐ、と拳を握り込む。警戒を怠ってはいけないのだと自分に言い聞かせる。
――君はあまりにも奴の駒に適しすぎている。
太宰が「奴」と呼んでいた人物。白い道化師が伝えてきた言葉。
目に見えない誰かの手が、迫ってきている気がした。