第3幕
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***
仕事を終えた時間はちょうど夕暮れだった。大きな太陽が卵の黄身のような色で、ぼやけた輪郭のまま空に浮かんでいる。つつけばトロリと中身が垂れてきそうだ。
「綺麗」
手をかざし、指の間から差してくる橙の光に目を細める。今日は少し散歩をしようか、と思い至った。
一枚の布を覆い被せられたかのような街の中を歩く。自分すらもその色を被っていることに安堵しながら、クリスは海へと向かった。あの広大な水面がこの色に輝く様子を見たくなったからだ。世界の異物と称された自分と世界が同じ色になるこの時間が、クリスは好きだった。
昼と夜の狭間、地が赤よりも柔らかく黄よりも深い明るさに染まる時。遠くに港が見える広場に辿り着き、クリスは遠くに見える海を眺めた。その水面も、木々も、建物も、広場全てがその色に染まりきっていた。同じ色を頭から被った子供達が駆け回っている。親の元へと駆け寄り、抱き着き、笑い合う。
――懐かしいと思った。何も知らなかった頃、それこそウィリアムと出会う前、自分は確かに「家族」と共にいて、「母親」のあたたかさに抱き着き、「父親」の優しさに甘えていた。桃の果汁のように甘くて芳しい記憶。
幸せだったと思う。あのまま何も知らずに生きて、何も知らずに死んでいたのなら、迷うことなく幸せだったと言っていた。
「……あれ」
ふと、ベンチに座る人影に気がついた。小柄な、見慣れた後頭部。子供達が親と連れ立って帰る中、一人でベンチに座り続けている一つの人影。
「……敦さん?」
見間違いではなかった。歩み寄り、声をかければ、彼は慌ててこちらを見上げてきた。
「……クリス、さん」
いつもは純真で真っ直ぐな目が赤く縁取られ、涙に濡れている。予想しなかった光景に、クリスは一瞬言葉を失った。
「……ごめんなさい、声をかけない方が良かったみたいで」
「い、いえ、全然、その」
敦は隠すように服の袖で目元を強く拭う。その腕を掴んだ。びくりと敦の肩が揺れる。
「赤くなってしまいますよ」
ウエストポーチからハンカチを取り出し、渡した。傷を負った時の当て布代わりに所持しているものだが、こうして人に差し出すのにも適している。小さな声で「ありがとうございます」と言い、敦はそれを受け取った。
「……隣、良いですか?」
「はい」
許可を取り、隣に座る。そのまま黙って、空を見上げた。
空では、青に似た闇色が地の果てから這い寄ってきている。空はすぐさま色を変えてしまうのだから、気変わりの早いことだ。それを人は美しいと呼ぶけれど、いつか消えてしまうものを美しいと呼ぶのなら、この世界は一瞬たりとも目を離してはいられない。
「……あの、クリスさん」
「はい?」
「……何も、訊かないんですか」
俯いたまま、小さな声で敦が訊ねてくる。ずっと黙ったままのクリスに戸惑っているのだろう。確かに、この場面は「どうしたの」と話しかけるのが一般的だ。
「敦さんが話したければ、聞きますよ」
クリスは敦へと微笑む。その放心したような横顔を見、そっと続けた。
「わたしは偶然近くを通った。あなたは一人時間を過ごしている。ただそれだけです」
「……何だか懐かしいですね」
へにゃりと敦が笑う。それは笑顔というよりも、当時を思い出しただけの表情の変化だった。何かに戸惑い、悩み、混乱している。敦の様子に気付かないふりをしたまま、クリスは「そうですね」と笑った。
「初めて会ったのも、こんな感じでしたね」
「……クリスさんはいつも、僕達を見守ってくれている気がします。今だって、きっと、僕が何を考えているかわかってるんですよね?」
「まさか。人の思考まではわかりません。けど、答えは返せますよ」
暗くなってきた広場で、街灯が点く。無機質な白い光が俯いた敦の肩を照らす。
「光はあなたの中にある」
何に悩んでいるかはわからない。それでも、きっと彼ならば、遠くない未来に答えを見つけ出して立ち向かっていける。それは勘に近かった。けれど確信している。敦は常にそうしてきたからだ。探偵社という場所を選び、芥川と対立し、鏡花を救い出し、街を守り切って、そして。
「……軍警に追われたあの時」
クリスを、助けようとしてくれた。
「本当は、嬉しかったんです。見捨てないでいてくれたことが、追ってきてくれたことが。まだお礼が言えてなかったですね。――ありがとうございます」
「そんな、僕はただ……」
言いかけ、敦は黙り込んだ。その手に掴まれたハンカチを握り締める。
「……クリスさんは、誰かを憎いと思ったことはありますか」
「ありますよ」
「その憎い相手が、実は父親同然に自分のことを思ってくれていたと知ったら、どうしますか」
「憎みますね」
ベンチの背もたれに寄りかかる。空から降りてくる夜に呑まれ始めた港を、それを照らす光の粒を、眺める。
「相手の真意が何であれ、わたしの中の感情はなかったことにはなりません。本当のことを知った後も、憎み続けると思いますよ」
「……その人のおかげで、今まで生きてきたのに?」
「だからこそ、です。憎い相手というものは、記憶の中に生き続けている厄介なものです。頭の中に住み込んでまでして苦しめてきた相手に今更好意的になれというのは無理がある」
ベンチから立ち上がる。そして、敦を見下ろした。その姿はいつもよりも小さくて、部屋の隅で凍える子供に似ている。きっと彼が納得する答えは、クリスには出せない。誰にもそれは不可能だ。答えは本人の中にしかない。
けれど、一縷の光を指し示すくらいのことはできる。
「納得できてないみたいですね」
「……わからないんです。どうしたら良いのか」
「でもわかっていることもある」
微かに顔を上げた敦へ向き直る。街灯に真上から照らされた姿に、憔悴した表情に、影になった眼差しに、微笑む。
「憎いだけではないことに、あなたはもう気付いている。だからわたしの答えに納得がいっていないんです。今日の進歩はそれで良いんじゃないですか? 答えはすぐに出てこない時もあります。自分の中を見つめるよりも、周りを見回した方が答えに辿り着けることもある」
「周りを……」
「だいぶ暗いですし、帰りませんか?」
手を差し伸ばした。
「一人で考えたいというのなら、敦さんがここにいることを探偵社の方々にお伝えしておきますけど」
「……もう少し、ここにいても良いですか」
「構いませんよ」
差し伸ばした手を下ろし、代わりにクリスは俯いたまま顔を上げない敦の頭を撫でる。驚いたように肩を跳ね上げた敦へポンポンと数度手を置き、クリスはその場を去った。
時間はある。きっと、彼は自分なりの答えを見出すだろう。それに長い時間がかかってしまったとしても、そばには探偵社の皆がいる。何も心配する必要はない。
「……わたしもお人好しだなあ」
笑う。敦には皆がいる、あの強さがある。クリスがいなくとも問題はない。なのに思わず手を伸ばしてしまうのだから、この偽善は厄介だ。
「心の底から誰かを思うことなんて、もうないのに」
暗くなった街は点々と灯った街灯で明るさを保っていた。人の数が減った通りを歩く。静かな中に、足音だけが鳴る。
その音が二人分に増えたのを察した瞬間、クリスは歩みを止めた。街灯の光の届かない位置で、闇に身を潜めるように立ち止まる。
目の前の闇が揺らぎ、街灯の下へ人影が現れた。二つに結んだ髪、赤の着物。小柄な背に、感情の乏しい表情。
「鏡花さん?」
何も言わず、鏡花は街灯の下で足を止める。光の下と闇の中、二人の視線が交錯する。鏡花に敵意がないことを確認し、クリスはそっと体から力を抜いた。
「……敦さんですか?」
こくり、と鏡花は頷く。帰りの遅い敦を迎えに行こうとしたのだろう。この道を通るということは、敦の居場所はすでに見当がついているということだ。誰かしらが鏡花に敦のことを伝えたのかもしれない。敦のあの様子は、おそらく何らかの仕事がきっかけだろうから。
ならば、特に口を挟む必要もないだろう。
「行ってあげてください」
クリスの言葉に、鏡花は瞬きをした。僅かな反応へ、クリスは笑みを返す。静寂の中の無言の応酬。クリスをじっと見つめた後、鏡花は歩みを再開してクリスの横を通り過ぎた。足音が背後へと遠のき、やがて消えていくのを聞きながら、クリスもまた歩みを再開する。
望まない殺しを重ねて生きてきた鏡花。彼女は今、光の下で彼女の望む生活を手にしている。白鯨の一件で街を救い、猟奇連続殺人事件の件でクリスを救ってくれた鏡花は、その手でまだたくさんの人を救えるだろう。敦もまた、その一人に違いない。
「……あなただけは」
呟く。声は闇に溶けていく。
「……そのまま、何も諦めないで」