第2幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
[Act 2, Scene 5]
僕、中島敦はとうとう職を得た。それは素晴らしいことだ。なぜならお金が稼げる。なぜなら社会に奉仕できる。
しかしそれが唐突であった場合、人は喜びよりも戸惑いを先に覚える。
「まさかこうなるなんて」
騙されるように武装探偵社と関わり、騙されるように入社試験を受けさせられ、断ることも断る理由もなく受かってしまっていた。数日前まで衣食住に困っていた孤児だったとは自分でも思い難い。恵まれているのだと思う。実際恵まれている。
だから頑張ろうと思う。取りあえず追い出されたくないから頑張ろうと思う。
「では、ご案内します」
樋口と名乗った女性依頼人に導かれ、敦は谷崎、ナオミと共にヨコハマの街を歩いていた。依頼内容は密輸業者の見張り。初仕事だが一人ではないし、簡単な仕事だと言われている。きっと物陰から写真を撮るだとか、その程度なのだろう。
樋口は振り返ることなく道を進んでいく。スーツを着こなしたその背中を追いながら、敦は谷崎らと会話を弾ませていた。
「それにしても、あの前職当てゲーム……太宰さんの前職が全くわかりませんよ」
当てれば七十万、とぶつぶつ呟く敦に、谷崎は苦笑する。
「しょうがないよ敦君。誰もわからないから、そこまで賞金が膨れ上がったんだもの」
「一体あのゲーム、誰が賞金を得るんでしょうね?」
ナオミは谷崎とぴったりくっついている。歩きづらくないのか、などという疑問は捨てるべきだと敦は既に学んでいる。彼らに疑問は不要だ。受け入れるしかない。
「社長も知らないんでしょうか?」
「さすがに社長は知ってると思うよ。というか社長も知らなかったら、太宰さんただの不審者になっちゃうよ」
「確かに……」
というかもはや、する事なす事が不審者そのものだ。喫茶の店員だけでなく樋口さんも口説いていたし。今でもきっとヘッドホンで何かを聞きながらソファで寝転がっているに違いない。
「そういえば、敦さんは明後日の午後は空いていますの?」
唐突にナオミが尋ねてくる。無論暇だ。というか、仕事次第というだけで予定も何もない。
「空いていると思いますけど……」
「じゃあ春野さんと一緒に演劇を観に行きません?」
「演劇?」
「せっかくワガママを言ってチケットを融通してもらったのに、兄様ったらお仕事が入ったらしくて、一枚余ってしまったんです」
恨めしげな妹の視線から逃れようと体を捻る谷崎の顔は青ざめている。この一場面だけでも二人の力関係が読み取れそうだ。
「演目は今話題の『ロミオとジュリエット』! 胸を焦がす決して叶わぬ恋……素敵なお話ですのよ!」
「今話題ってことは、有名なんですか?」
「敦君は知らないんだね」
谷崎によると、このヨコハマには太陽座という劇団が最近有名であり、特に最新作である『ロミオとジュリエット』は毎日席が売り切れるほどの人気らしい。
「太陽座……通りすがりの人が話していたかもしれないです」
「そっかあ。じゃあ行くと良いよ。観に行くって伝えれば、仕事が残ってても行かせてくれると思うから」
「そんなに凄いんですか!」
あの堅物の国木田さんも、強面の社長すらも「行って来い」と言うのだろうか。信じられない。どれだけ凄いんだ。もしかしてもの凄く金額が高いとか。もしかしてもの凄く豪華だとか。もしかしてもしかして、もの凄くど偉い人しか立ち入れなくて僕なんかが誘われるなんて奇跡だとか。
敦の妄想は膨れあがっていく。
「そ、そそそそんな場所に僕なんかが行って大丈夫なんですか……?」
「問題ないよ。というかね、あの劇団に所属してる知り合いがいて、その人とうちの会社が仲良いんだ」
ナオミが「その方にチケットを融通していただいたんです」と付け加える。なんでも、その劇団の稼ぎ頭らしい。
「そうだ、今度敦さんとクリスを誘ってお茶会を開きましょう! ね、兄様!」
「そうだね、楽しそうだ」
「勿論兄様は買い出し準備要員ですわよ?」
「えええ、仲間に入れてくれないの……」
「なーんて……う、そ、ですわ! ふふっ、焦った兄様も素敵ー!」
「な、ナオミ、さすがにここでそれは……!」
また始まった。しかも白昼堂々、人混みの中で。戯れる谷崎兄妹と呆れる敦、三人を置いて、樋口はスタスタと先を行く。慌てて後を追いながら、その背中を見つめる。
武装探偵社への依頼人って、みんなこんな風なんだろうか。動じる事なく、近くで交わされる会話に入ることもない。
きっとこの人がすごく真面目なだけだろう、と一人結論付けて、敦は樋口に案内されるまま道を歩いて行った。
***
――爆音が遠くへと木霊していく。
交番回りは黒煙が立ち上り、周囲はサイレンがけたたましく鳴り響いている。突然の爆破にざわめく街の一角から幾分離れた薄暗い路地を、クリスは歩いていた。クリスの正面――黒煙を背後に、その漆黒に染められたかのような黒衣の男がこちらへと歩いてきている。次の目的地へと向かっているのだろう。
爆破の犯人である彼とすれ違いざま、クリスは声をかけた。
「見事な手際だ」
立ち止まり振り向いた彼へと顔を向け、にこやかに微笑んでみせる。
「芥川龍之介さん、だね」
刹那。
首筋に刃が当てられる。――否、それは刃のように鋭い黒衣の裾だった。
なるほどこれが彼の異能力の正体か、とクリスはそれを平然と見遣る。殺戮に向いているという情報しか手に入れられなかったため、太宰の時と違ってわざわざ喧嘩をふっかける気も起きなかったのだ、手間が省けた。あまりにも思い通りに事が進んでいるからか、どうにも楽しい心地になってくる。
「何者」
誰何に微笑みを絶やさず返す。
「わざわざ聞かせるほどの者では。わたしは君に、聞きたいことがあるだけなんだ」
首に鋼鉄を思わせる黒衣が食い込む。じわりと肉に傷が付く痛み。けれど怖じ気づくほどのものではない、ただの脅しだ。
「聞きたいこと、とは」
一つ咳き込み、彼が問うてくる。その問いに率直に返した。
「君は太宰治という人を知ってる?」
ぴくり、と眉が上がる。それを見、クリスは一人微笑みを深くした。
「情報がゼロということからポートマフィアを疑ってみれば、当たりと来たか」
見つけたよ、太宰さん。君の、屑溜めで燃え残っていた鍵を。
「良かったら教えて欲しいんだ。どこを調べても情報がなくてね」
「貴様、太宰さんの何だ」
「さん付けってことは同僚というよりは先輩?」
「……元上司だ」
上司とは意外な言葉だ。へえ、と感嘆の声が意図せず漏れ出る。
あれが上司。あの、同僚に嘘の知識を教えるわ突然川に飛び込むわ前触れもなく社員を増やすわ、それでいて洞察力はあって油断ならない他称「迷惑噴霧器」が。かなり苦労していそうだ、どう見ても上司向きではない。
しかし、とクリスは目の前の彼の表情を見つめた。そこにあったのは嫌悪でも郷愁でもない。憎しみと悲しみとをないまぜにした複雑なものを感じる。国木田に太宰のことを訊いても、ただ呆れた顔をするだろう。
この差は何だ。
太宰は何者だ。
「上司ってことはかなりの地位にはいたのかな。君は今、ポートマフィアでは中々の階級なんでしょう?」
「……あの人は元幹部だ。僕は首領直轄の遊撃隊及び黒蜥蜴を指揮する権限があるのみ」
かなり良い子だ、とクリスは思う。次から次へと情報を垂れ流してくれる。自分と会った相手は全て殺していたからだろうか、戦闘経験はかなりあるものの、脅迫や取引は不慣れのようだ。
「なるほどなるほど、よくわかった。とても助かったよ。またわからないことがあったら訊きに行くかもしれないけど、その時もよろしくね」
「待て」
それとなく立ち去ろうとしたクリスへ殺気が突っ込んでくる。芥川の黒衣がいくつもの刃となり、全身をあらゆる方向から狙ってきたのだ。それらは全て、クリスの服に触れない程度のところで――少し動けばすぐさま傷を負う至近距離で止まる。その対応にクリスは目を細めた。
まだ、切り込まないのか。
これ以上クリスを留めていて何になるというのか。用のない敵は殺すに限る、なのに彼はまだクリスを殺そうとはしない。これでは敵に攻撃機会を与えていると同義だ。
「何者。何故太宰さんを知る、あの人はどこにいる」
「その問いには答えられない」
今度は答えを返す。答えになっていない答えに、芥川は怒りを滲ませた。鬱屈とした路地の空気に殺気が広がる。
「答えぬままでいられると思うか」
「……君に時間を費やす気はないんだ、悪いけど見逃してもらえないかな」
「笑止」
芥川の殺意が黒衣に伝搬する。目の端で黒色がぶれ、視界に残像を残す。
「死ね、女」
簡潔な命令と共に全ての黒衣がクリスへと突き刺さった、はずだった。
直立したままのクリスを中心にいくつもの弧状の銀色が走る。それらは黒衣へと素早くいくつもの線を描く。そして――衣刃は千々に千切れた。
「何……!」
予想だにしない攻撃に芥川がひるむ。隙とも捉えられるその短い時間を、しかしクリスは黙って過ごした。
「君に似た異能力者の知り合いがいる。彼の方が異能を器用に使えてた」
「……ふざけた事を言う」
「少なくとも今のこの会話を成立させるような、そんな時間の使い方はしなかった。呼吸する暇さえ与えてはくれなかったよ」
思い出すように呟いたクリスの言葉に、ぎり、と芥川が歯を食いしばる。図星なのだ、自身の力不足は理解している――それを、憎しみに似た思いと共に記憶している。なるほど、とクリスはそれを見つめた。
彼の強さは異能によるものだ。そして、それ以上がない。あるとしたら固執――戦闘とは別の、強さとは別の、捨てきれない何か。
それが彼の行動力を鈍らせ、時に爆発的な攻撃を生み出す。
「僕を愚弄など――その口、八つ裂きにしてくれる! 【羅生門】!」
黒衣が大きく広がり、口の形を模す。
「顎!」
大口が瞬きする間も与えず突っ込んでくる。しかし、とクリスはその攻撃の下を取るようにしゃがみ込み、前方へと転がった。先程の攻撃といい、直線的で単調だ、先が読める。その威圧に屈せず避ける動作ができるのならば、誰だってそれを回避できるだろう。
黒衣を避けて距離を詰めることに成功したクリスに芥川は再度驚愕を露わにする。クリスは彼の足下に片膝をついていた。その顔面に異能をぶつけることもできる、ナイフを投げつけることもできる。けれどそのどれも、クリスはしなかった。
「……敵として助言するよ」
少し動けば相手の懐に入り込める、その距離のまま、ただ静かに告げる。
「今後、わたしに何もするな。切り刻まれ肉塊すら残さない最期になりたくなければね。――これは助言であり警告だ、芥川さん。脅迫じゃない。……君が判断を誤らないことを願うよ」
「貴様……!」
芥川が唸る。けれど、攻撃を最小限の動きで回避し、あまつさえ攻撃可能距離で反撃してこなかったクリスに何も感じないわけではないようだった。憎悪に浸ったその目がクリスを凝視し、隙を探し、攻撃方法を探す。けれどそれが無駄に終わることをクリスは、そしておそらくは芥川自身も知っている。
そっと身を引き、立ち上がる。その間も互いの視線が逸れることはない。向かい合ったまま、数秒が経つ。
先に目を逸らしたのはクリスだった。気負いなくくるりと背を向ける。芥川が背中を攻撃してこないことはわかりきっていた。彼の戦闘経験はかなりのものだ、敵の実力を見誤ることはないだろう。
芥川に背を向けたまま歩き出す。静かな路地に靴音が響いていく。その音を聞きながら、思考する。
芥川と接触できたのも、彼から太宰についての情報を仕入れられたのも、大きな収穫だ。けれどそれが完全に良いことだとは言い切れない。芥川はポートマフィアの人間、あの組織にクリスの情報が渡るのは明白。
港で見た、尖塔じみた高層建築物を思い出す。この街で身を潜めて過ごすのはやはり無理があったらしい。
それでも。
「……大した問題じゃない」
要は知られなければ良いのだ。クリスが何者であるかを、その異能の詳細を、その目的を。であれば敵は警戒しかできない。正体不明の敵、それも直接は害を成さない相手にわざわざ戦力を晒してくるようなことはしないだろう。おそらくまずはクリスの情報を探りに来る。けれどそちら側の対策は万全だ、太宰が際どい真似をしてまで近づいてくるほどには対応が済んでいる。ポートマフィアはクリスに関する何をも得られまい。
「……太宰」
彼の過去はどこにも記されてなかった。奇妙なほどに消えていた。けれど、情報というものは必ずどこかに残っているものだ。例えば、人の記憶の中――決して癒えない傷のように、過去は誰かの中にとどまり続ける。
――隠し切れると思わない方が良い。
冷え込んだあの声を思い出す。
太宰治。自殺を好み底知れない聡明さを持つ、ポートマフィア元幹部。
この情報をどう利用させてもらおうか。
「わたしのことも、あの人のことも――君には指一つ触れさせない」
クリスの青の双眸は鋭く光る。