幕間 -DEAD APPLE-
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***
体がゆっくりと揺れていた。ふ、と浮上した意識が、誰かに背負われている現状を知る。鼻先を金糸がくすぐる。その柔らかな髪に誰かに似た懐かしさを感じ、それに顔を埋めかけ――気付いた。
「――うわあッ……?」
「ど、どうしたクリス!」
突然体を跳ね上げたクリスに驚き国木田が立ち止まる。驚いているのはこちらだ、なぜ国木田に背負われているのだろう。それにここはどこだ。酷く荒らされた街並、コンクリートの破片が地面を覆う中、昇ったばかりの白い朝日が低角度から顔を覗かせている。その街の中、社員らが横並びになってどこかに向かおうとしているところだった。福沢もいる。その涼やかな横顔を見ると、心配する必要もなかったように思えるほどだ。どこで合流したのだろう。
「な、な、何が一体どうして」
「霧は晴れたよ」
楽しげな笑みを浮かべながら、横を歩いていた与謝野が顔を覗き込んでくる。
「今、骸砦の方にいる敦達と合流しようとしているところさ」
あの霧が、晴れた。確かに、周辺に霧はもう見当たらない。あの禍々しい赤の霧は姿もなかった。
「な、何が一体どうなって」
「おいおい説明するよ」
クリスの戸惑いように与謝野が笑う。その前に、何としても解決したい問題があった。
「く、国木田さん」
「何だ」
「……下ろしてください」
社員皆が揃って街を歩いている中、一人だけ背負われているというこの状況。かなり心にくるものがある。がしかし、国木田は歩く足取りを緩めることなく、それどころか軽く揺すり上げるようにクリスを背負い直した。慌ててその首にしがみつく。ふわりと束ねられた髪が頬をくすぐる。体の内側から熱気が顔へと昇ってきた。
「あ、あの、聞いてます? ハローハロー?」
「やめろ耳元で囁くな!」
「じゃあ下ろしてくださいよ!」
「叫ぶのも止めろ!」
ぎゃいぎゃいと喚く二人を、他の社員達は黙って見守るばかりだ。これではまるで罰ゲームである。何か悪いことをしただろうか。心当たりがありすぎる。
「あれですか、国木田さんから眼鏡を盗んで乱歩さんにかけてもらったり、パソコンの中にウイルス似のキャラクターを突如出現させたりしたのが悪かったんですかね……?」
「何、あれは太宰の仕業ではなかったのか……!」
「太宰さんと一緒に考えました」
「なおのことタチが悪いわ!」
「でも、国木田さんの手帳の中身をスキャンして社内全部のパソコンのデスクトップにしたのは太宰さんですから!」
「あれもか!」
「わわ、落ちる落ちる……!」
衝撃の告白に呆気にとられた国木田が腕を緩める。ずるる、と体が落ちるのを、クリスは必死に国木田にしがみついて耐えた。慌てて国木田がクリスを背負い直す。そうじゃなくて、とクリスは我に返った。
「いや、下ろしてくださいよ!」
「下ろしたところでまともに歩けんだろうが」
「歩けますし!」
「だから叫ぶな!」
「まあまあクリスちゃん」
谷崎が苦笑に似た笑顔でクリスを見上げてくる。
「無理をするのは良くないよ。僕達にはこのくらいしかできないんだし……」
申し訳なさそうなその言い方に、クリスは黙り込んだ。そういえば、随分といろいろ吐露してしまったような。そう気付いた瞬間、クリスは「う」と顔を国木田の背に埋めた。
何だかものすごく、ものすごく恥ずかしいことをした気がする。
「……すみません、わたし、大人げないことを」
「大人を名乗るにはまだ若いだろう?」
与謝野が的確に突っ込んでくる。ぐ、と言葉に詰まったクリスへ、与謝野は続けた。
「それで良いんだよ。もっと泣いても良いし、叫んでも良い。それを聞くくらいのことはしてやれるからさ」
聞いてもらったところで、と卑屈な自分が胸の中で嘆いている。けれどそれを口にするわけにもいかず、クリスは小さく頷いた。
「……善処します」
「良い返事だ」
「それで、あの……」
そんなことより現状だ。国木田から下ろしてもらう件は一旦置いておいて、まず何から聞こうか。思案したクリスが最初に聞く質問を決めるまでの時間は短かった。
「爆撃機は」
「上空近くまで来たんだけど、霧が消えたのを見て踵を返して行ったさ」
「……引き返したって、ことですか?」
「そうだけど」
あの英国が。
やはり、政府が仕事をしている国相手に正当な理由なく爆撃を行うことはできないのだろうか。そう思いつつ、クリスは一つの疑問に考え至っていた。
あの国にとって日本は爆撃で沈めても構わないほどにちっぽけな極東の国でしかない。そのごく一部で発生した霧現象および異能者変死事件の発生など、あの国にはどうというものでもなかったはず。しかし英国は霧が赤に変じた瞬間、特務課に連絡を寄越し、爆撃機の派遣を宣告してきた。
まるで澁澤の企みを感知していたかのような、素早い行動。
それに疑問を持っていたから、直接攻撃を試みようとした。撃墜とは別に、英国との信号を傍受するためにクリスは爆撃機の元へ向かおうと思っていたのだ。彼らの通信を少しでも傍受できれば何かわかるかもしれないと思っていた。
――しかし、今思えば。
彼らは澁澤が日本にいることすら知らなかったはず。では、待っていたのではないだろうか。何かを理由にこの極東の国を焼却する機会を。そして今回、ここぞとばかりに爆撃機を派遣した。
彼らの目的が、澁澤だけではなかったとしたら。
そして今回、その標的の姿を確認できなかったがために焼却を断念したのだとしたら――否、そもそも焼却が一番の目的ではなかったとしたら。
「……まさか」
胸の奥が一気に冷え込む。息が詰まる。
まさか。
「あ、いました!」
賢治が声を上げる。前方を見れば、瓦礫の中に立ちすくむ三人の姿がそこにある。
敦、鏡花、そして太宰。
武装探偵社の社員は皆、あの凶悪な一夜を全員がくぐり抜けたのだ。
「太宰さん、自殺してなかったんですね」
安堵からかのんびりと谷崎が笑う。それを聞き、クリスはそっと国木田に囁いた。
「良かったですね、太宰さんが無事で」
「どういう意味だ」
「心配してたじゃないですか、霧の中でのうのうと自殺を図っていそうだから奴を探すって」
「心配などしていない。あれは社の威信を守るためにだな」
「国木田さんってもしかしなくてもお優しいですよね」
「ふ、ふざけたことを言うな!」
「あ、照れた」
「照れてない!」
くすくすと笑うクリスに、国木田は小さく舌打ちをする。
「それで誤魔化せたと思うなよ」
「……ばれました?」
「『まさか』の続きは何だ」
やはり聞こえていたか。肩をすくめ、クリスは首を振る。
「何でもありません。終わったことですから」
「またそうやって隠すのか」
国木田の言葉に、クリスは黙る。帰ってきた沈黙に、国木田はため息をついた。申し訳ないが、確証がない話をするわけにはいかない。重くなった空気を紛らわすように、クリスは大きく背伸びをして手を振った。おい、と国木田がバランスを崩しかけるのも気にせず、見えてきた三人に声をかける。
「敦さん、鏡花さん!」
「……私は?」
「んじゃ、太宰さん」
「オマケみたいじゃないか。ところで何で国木田君に背負われているの?」
「足を怪我しました」
「ふうん?」
クリスのわざとらしい嘘に、太宰は何かに気付いた素振りを見せながらも何も言わなかった。異能がない状態では普通に動くだけで体調が崩れる、などというこの身の脆さをこの男に知られたくない。探偵社と心底仲良くできないのは、何を考えているかわからないこの男がいるせいでもある。
クリスと国木田を見比べていた太宰へ、国木田が「貴様会議にも出なかったくせに、どうして骸砦にいた」と問うた。それに対し太宰が「ビビッと閃いた」だの「蟻の行列を追いかけていった」だの、あることないことをつらつらと良い、国木田はなぜか納得したようにフンフンと頷く。その様子を見、そして敦と鏡花が他の社員と無事を確認し合っているのを見、空を見上げた。
朝焼けが、広がっている。
霧一つない、空。
――あの場所で三人で見上げた空とは、違う色。
あの空はもう、見ることは叶わない。ウィリアムはこの手で塵に変えた。どこかで生きているかもしれないと思っていたベンすらも死んだ。
「どうしたの、クリスちゃん」
太宰が答えを知っている顔で問うてくる。それへと、クリスは笑顔を向けた。
「いえ。……良い天気だと、そう思っただけです」