第2幕
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[Act 2, Scene 5]
国木田は一人で立っていた。場所は市内のとある劇場の前、時間は午後四時三分五秒。国木田の時計は正確だ。約束の時間は午後四時ちょうど。しかし相手は未だ国木田の前に姿を現していない。
「どいつもこいつも時間を守るということがわかっていない」
国木田が思い出しているのは無論、同僚の太宰治なる男である。昨日は出社時間を三時間五十九分五十九秒過ぎても会社に現れなかった。四時間の遅刻は言うなれば半日のサボりだ。半日あれば仕事の一つ二つが片付く。それこそが理想であり非常に効率的で平凡な思考であることは自明。時間を無駄遣いにする人間の神経が国木田には理解できなかった。
そして発信器を駆使して探し回ってみれば案の定川の中。しかも見慣れない少年と共に、奴は川辺で平然と「国木田君に奢らせよう」などと言っていた。空腹の未成年を見捨てなかった点は褒めるが、そのやり方が非常によろしくない。国木田の財布の中身は国木田が一秒の無駄もなく働いた末手に入れている財、すなわち理想通りの行動が評価された証である。それを理想の「り」の字どころか常識すらさっぱり理解していない男に簡単に消費されてはたまったものではない。
「……中島敦と言ったか」
行き倒れた末太宰の自殺を助けてしまった不運な少年を思い出す。
知らぬ間に異能力を発現させ、何もわからぬまま孤児院から拒絶された少年。異能力は宿った者の幸せを支えるとは限らない。彼のように異能力により不幸になる者もいる。
彼を探偵社員にする、と太宰は言った。太宰は馬鹿だが頭は切れる。何か意図があるのだろう。しかし中島敦は区の指定災害猛獣という全く有難くない地位にある。いくら探偵社とはいえ、害獣を公に養えるほどの権力はない。
「……まあ良い」
明日、中島敦の入社試験が予定されている。手筈は先程話し合った。これがうまくいけば中島敦は入社できる。武装探偵社の社員となってしまえば、その身に課せられた法の枷などどうとでもなるのだ。
先程の苦労を思い出し、国木田は苦い顔をした。いつも国木田を苦労させている太宰を谷崎の協力を得て今度こそ陥れようとしたが、失敗したのだ。
奴は一体何なのか。
念密に考えた計画すら見切り、そして利用してしまう。頭が切れる、などという言葉では足りない。
この後谷崎と慰労会を予定している。空いた時間を有意義に使うべく、国木田はここに立っているのだった。
「すみません」
ふと国木田にかかる声がある。その流れる水のような、濁りの一つ、棘の一つも含むことの叶わない透き通った声の主へ国木田は目を落とした。
少女が駆け寄ってきていた。肩程までの亜麻色の髪は傾きかけた太陽の光により橙の輝きを持ち、その光は髪飾りのように彼女を彩っている。服装は彼女を男子と勘違いするほどに簡潔だ。装飾の少ない上着、膝が隠れるほどの長さのパンツ、ふくらはぎを覆う丈の長いブーツ。動きやすさが重視されていることは明白だった。
「お待たせしました」
「四分二秒だけだ、問題ない」
「……秒数まで気にされている方は初めてです」
青の目を丸くし、少女は再度「すみませんでした」と頭を下げてくる。
彼女は国木田の前に立つこの劇場で活躍する舞台女優だ。その若い見た目からは想像できないほどの実力者で、その手腕は「観る者聴く者全ての魂を抜く」とまで表現されている。何度か足を運んでいるが、その言葉は誇張してはいるものの間違いではなかった。
彼女を見れば彼女の足元に咲く異国の花すらも見えた。彼女の声を聞けば自らが異国の地の住人であると錯覚した。彼女の歌を聞けばここがどこであり自らが何者であるかを忘れてその歌声に聞き入った。
才能だ。
他者をも己の作り上げた世界観に引きずり込む、天性の才。
その神がかった天才女優となぜ待ち合わせていたか。それは至極単純なことである。
約束したからだ。
「これ、ありがとうございました」
彼女が差し出してきたのは一冊の本だ。
「この国の言葉は面白いですね。平仮名と片仮名、そして漢字……それらを組み合わせるだけで、物語の雰囲気が出来上がるんですから」
「今回貸したのは漢語を良く使う作者の本だったが、読めたのか?」
「少し苦戦しました。辞書を片手に読みましたが……漢字を多く使うと小難しさや堅苦しさが出るんですね。お話自体も面白かったです」
彼女は異国の出身で、あらかじめ習得してあったためこの国の言葉にはさほど苦労しないものの、小説という形態の文章は読んだことがないのだという。
そう教えてくれた彼女は、国木田の書物を借りたいと願い出てきた。国木田は難解な新書や合理的な物語を好む。太宰が速攻「ねえ国木田君、この本挿絵がないよ」と投げ出しそうなものばかりだ。不安はあったものの、彼女はこの本を無事読み切れたらしい。
差し出された本を受け取る。
「明日、他の本を持ってくる。今日は慌ただしくて選ぶ暇がなくてな」
「お時間がある時で構いません。ありがとうございます」
少女はにこりと笑った。
この後、時間になるまで二人は話し込んだ。国木田が口にするのは主に同僚のマイペース極まりない行動の数々だ。太宰は最も著しいが、他の社員もなかなかの強者で、国木田はよく振り回される。
国木田の話を彼女は楽しげに聞いた。たまに自らの仕事環境について話してくれることもある。劇団員とは仲良くできており、毎日が楽しいのだと彼女は笑った。
彼女は楽しげだった。舞台女優とはいえ普通の少女がそこにはいた。
国木田が守るべき市民の一人が、そこにはいた。
「そういえば、ご家族はどうしている」
国木田が不意に訊ねたのは、彼女が一人暮らしだという話をした時だった。
「家族ですか?」
「失礼ながら、あなたはまだ未成年だろう。共にこの街に来ていないとなればご家族は心配されているのではと思ってな」
「そうですね……とは言っても家族はいませんから……心配はされていないと思います」
考え込むように少女は言う。しまったか、と国木田はその顔色を覗き見た。触れてはいけない箇所に触れてしまったのかもしれない。人には誰しも、訊ねられたくないことがある。それは過去であったり、現在であったり、身の回りであったりと様々だ。
しかし国木田が見たのは、真剣に考え込む少女の横顔だった。
「……うん、きっとそう……あの人達はわたしを可愛がってはくれましたけど、心配まではしないと思いますよ」
家族はいない、そう彼女は先程言った。死別か離別か、良くないことがあったのだと思ったのだが。
少女の口振りはまるで、その存在そのものがこの世にないかのような。
「あの人達の仕事は、わたし達を育てることでしたから」
「……仕事?」
家族とは仕事なのか。否、と国木田は自分で答えを返す。
家族とは支え合うものだ。家族とはそばに寄り添うものだ。何があってもただ唯一帰ることの許された場所のことだ。そこに血縁関係の有無は関与しない。そして、仕事などというような、金銭で繋がる絆のことでもない。
どういう意味かと問おうとした口を強引に閉ざす。
これは聞いてはいけないことなのだ。人の心の中に踏み入ることは、限られた人にしか許されてはいない。国木田は彼女にとってそのような存在ではないのだから。
であれば、自分がすべきことは。
この子のために、国木田ができることは。
考えるも、今すぐにできることは思いつかなかった。うまく話題を変えられるほどの口の上手さもない。理想的な言葉は何一つ思いつかなかった。理想というものは、どれほど考え抜き手帳に記していたとしても今の国木田の手足では遠く及ばない。
「……不躾なことを聞いた。すまない」
「不躾……ああ、そうか、普通は両親がいないという話は話題に上げないものだから……こちらこそすみません、せめて故郷にいるとでも言えば良かったんですね。正直に話しすぎました」
どこかずれた謝罪を返され、返答に困る。国木田の様子に気付いてか否か、彼女はやはりその柔らかな笑みを絶やさず続けた。
「家族がいると、きっと楽しかったんでしょうね。毎日のことを報告して、それについて話し合って、笑い合って……家に帰れば必ずいて、いなくてもいつかは帰ってきて。ずっとずっと何度でも会えるというのは素敵なことです」
「……そうだな」
「良いですね、家族。わたしもいつかそういう生活をしてみたかった」
既に諦めているかのような言い方に、国木田は反応せずにはいられない。
彼女は、普通の人間だ。普通の民間人だ。少しばかり並外れた演技力を持っているだけの、ただの子供だ。けれど彼女は時折、こうして普通とは違う何かを国木田に見せつけてくる。
――そんなことより、どうして来たんですか。
先日の人質事件を、国木田は今後忘れることはないだろう。
動画の中で、銃を向けられながらも己の死を予告していたその姿を。爆発時間間際に救出しに来た国木田へ「来るべきじゃなかった」と言い切り、効率を考えろと言い放ったその声を。国木田の手を即座にはね除けた後、怯えを隠すこともなく恐怖を露わにしていたあの表情を。
――その時に見えた、青とは少し違う色味の眼差しを。
国木田の横で、彼女は何かを懐かしむように遠くを見つめている。その横顔に――その眼差しの色に、国木田は見入った。
青だ。どこまでも底の知れない、空のような、海のような、けれどそのどちらでもない青。太陽の光がそれに差し込み、ステンドグラスのようにその色を透かす。そうして初めて、その色は見えるのだ。
緑。それも、深緑の。それは青の中になじむように差し込み、青色をさらに美しく引き立てる。それは宝石の美しさではなかった。造形の美しさでもない。息を呑む美しさでもない。
それは、呆然とする美しさだ。人など些細に思えるほど大きな滝を目の前にした時のような、太い幹から伸ばされた無骨な枝が天を覆い尽くしているのを目の前にした時のような――目の前に広がる大自然を目の当たりにした時の心地が、国木田から感覚という感覚を奪い取る。
自然の美、人の手では決して作り出せないもの。
それは――湖のほとり、木々が深緑を宿した枝を伸ばす中、絹布の陽光が差し込む――湖畔の色だ。
「国木田さん?」
押し黙った国木田に、少女は名を呼びながら顔を向ける。少女の横顔を凝視していた国木田と、青の目がかち合う。光の差し込む角度が変わったからか、その目は既に青単色に戻っていた。
「……いや、何でもない」
それでも目を逸らしたのは気まずさからか。それとも子供の無邪気さが残るその眼差しから逃れるためか。自分でもわからない。
「ああそうだ、国木田さん」
何事もなかったかのように話し始めた彼女に安堵しつつ、国木田は「何だ」と尋ねる。
「今度、新作を発表するんです」
「新作か」
「ええ。今度は喜劇ですよ。魔法と恋の入り混じるドタバタコメディーです」
現在上演されている話は、敵同士の家柄の男女が惹かれ合い、死によってその恋を成就させる悲劇だ。方向性が全く違う。
「意外だな」
「ふふ、わたしもそう思います。もし良かったらまた観に来てもらえませんか」
少女がこちらを覗き込み、微笑む。その表情に暗いものはない。家族を仕事と称し、効率のための死を容認し、けれどその眼差しが生み出す表情はいつも楽しげで穏やかで平穏で。
彼女は普通の人間だ、少しばかり演技力のある、普通の女性。
けれど、国木田が知る何とも違う何かがあるように思えてならない。そしてそれはきっと、悲しみだけではないのだ。
彼女は何を経験し、何を思っているのだろう。
わからない。国木田にはそれを聞き出す権利はない。
けれど、ならば。
「……ああ、観に来よう」
国木田は短く答えた。それだけなのに彼女は、楽しげに、嬉しげに、笑う。
これだけで、彼女は幸せそうにする。
ならば、市民の一人である彼女を――クリスというこの少女を幸せに導くためならば、国木田は何であろうとすべきなのだ。それがこうした他愛ない会話だったのなら造作もない。この程度で良いのならいくらでもしてみせる。それが国木田の目の前にいる全員に平等に与えられるべき幸福、国木田ができる数少ないことなのだから。
そして、いつか――その湖畔の色の向こうに潜む何かを国木田に見せてくれたのなら。
傲慢ながらもそう願っている。