幕間 -DEAD APPLE-
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***
谷崎は力尽きていた。全身が痛い。痛いを通り越して、動けなかった。そんな谷崎を、蹴り飛ばす足がある。みぞおちへ的確に食い込んだつま先に、そしてその衝撃によって肺へさらに突き刺さった肋骨に、谷崎は息を詰まらせた。
「が……!」
ざざ、と体が地面を擦る。息をついて上体を起こそうとしたその手を、足が踏みつけてきた。ゴリ、と骨が軋む。
「うあ……!」
足が離れる。しかし同時にどこからか伸ばされた手が谷崎の首を掴む。見えないそれは、動けない谷崎を持ち上げた。足先が地面から離れる。苦しさで、体が無意識に暴れる。しかし大した抵抗もできない状態で暴れたところで、さらに首が絞まるだけだった。狭まる視界に雪が舞う。その間から、見知った手が現れる。
それは自分の手だった。料理をし、文字を書き、資料をめくり、そして――妹へ差し伸べるための。
――ナオミを置いて自殺なんて、許しませんからね。
霞む脳裏に妹の声を思い出す。そうだ、と谷崎は歯を食いしばった。
まだ、死ねない。ナオミは霧の発生と共に姿を消した。彼女のいない状態で、谷崎は死を選べない、選ばない。
微かに湧いた力で首を絞める手に爪を立てる。しかし、それしかできなかった。呼吸ができない。声も上げられない。視界が白む。これは霧の白か、それとも。
「ちょうど良い」
声が、聞こえた気がした。幻聴か、と谷崎は遠のく意識の中で思う。ナオミの声ではない。ナオミの声はそれよりももっと明るく、軽やかで、艶があって。
――突然、肺に吸気がなだれ込んできた。肺が大きく膨らみ、肋骨がさらに深く刺さる。鮮烈な痛みが谷崎の意識を引き戻した。
「がはッ」
地面に倒れ、咳き込む。血の味がした。味がわかる、という事実に、谷崎は現状を知る。
まだ、死んでいない。
視力がゆっくりと戻ってくる。にじんでいた視界に映っていたのは、地面の色、霧の色、そして――赤、だった。その液面を呆然と見つつ、谷崎は呼吸を繰り返す。これほど無防備にしているのに、あの手は谷崎を襲ってこなかった。どこかに行ったのか、いやそんなはずはない。自問自答をしながら、谷崎はゆっくりと周囲を見回す。
赤い液体は鉄の臭いを発していた。いつの間に怪我をしたのだろう。朦朧とした頭で思いながら、その側に映るものを見る。
黒いブーツだった。使い込まれたそれは、先程まで谷崎を襲っていたものとは違う。じっとそれを見つめる谷崎の視界に、ス、と手が差し伸べられた。それは優しく頬をに触れてくる。ナオミのものではないそれを辿り、見上げる。
「遅くなりました」
柔らかに微笑む彼女は、亜麻色の髪を揺らしながら谷崎を見下ろしていた。緑を含んだ青の目が霧の中でも鮮明に浮かび上がる。
「……クリス、ちゃん?」
「お手伝いに回っているんです。先程、賢治さんと与謝野さんのお手伝いをしてきました」
彼女の声は未だにぼんやりとしている。耳鳴りがしているのは鼓膜が破れたからか。
「谷崎さんが捕まっているところに遭遇できて幸運でした。あれなら、見えずとも腕の位置は想定できる」
そう言ってクリスはもう片方の手に持っていたナイフを翳した。血が付いている。
「斬りつけたついでに血をぶっかけてみました。異能を切っても血が流れ出る気がしなかったので。あとは臭いで相手を追跡できると思います」
ふわり、と血臭が谷崎の鼻を突いた。吐きそうになる臭い、好ましくない臭いだ。そう思ってからようやく気付く。徐々に五感が戻ってきていた。心なしか痛みも和らいでいる。回復――与謝野のものとは違う治癒異能だろうか。
きっと違う。ここには谷崎と谷崎の異能、そしてクリスしかいない。この場にいる全員が治癒もしくは治癒に準ずる異能を持っていない。では、なぜ。
思考回路の機敏さが戻ってくる。血の臭い、クリスの言葉、現状。
血臭は目の前の血溜まりから臭っている。谷崎のものではない。【細雪】のものでもない。では、誰か。
――さ、と血の気が引いた気がした。
「……もしかして、クリスちゃん」
「他になかったので」
背後にナイフを隠しながら、彼女は周囲の気配を探る素振りで目を逸らす。
「谷崎さんの異能は視界を誤魔化すことができる。けれど、殺気や臭いまでは消せない。本当はもっと臭いの強いものを使えれば良かったんですが」
「駄目だよ!」
谷崎は叫んだ。クリスへと、その驚きを宿した表情へと、己を顧みない少女へと、訴える。
「駄目だよ、クリスちゃん。クリスちゃんが傷付く必要はなかった。わざわざ自分から傷つけるなんて、そんなこと、しなくて良いんだよ」
国木田が言っていた。連続通り魔猟奇殺人事件が終わった後、全ての後処理を終えた日、「谷崎も彼女を見張っておけ」と冗談なのか本気なのかわからない真顔でため息をつきながら言っていた。
クリスは基本的に自分のために行動する、言うなれば探偵社員に相応しくない側の人間だと。
だから理解できていないのか――こちらの心を置き去りに、茨の中へ自らの身を投じながら道を切り開こうとするのだと。
疲労を隠しもしない様子でうずまきのコーヒーをすすった国木田は、太宰に悩まされている時とは明らかに違うしわを眉間に寄せていた。「太宰は報告も連絡も相談もして来ないが、自ら命を張りに行くタイプではないからな、その点だけは安心している。自殺紛いの迷惑行為も俺の予定を乱す迷惑行為も絶対に許さんが」と付け加えていたので、その時は「苦労していますね」と話を合わせたのだが。
「もっと自分を大事にしてよ。じゃないと、クリスちゃんを大事に思っている人達が悲しむ。クリスちゃんが悲しませたくない人が悲しむんだよ」
クリスは驚いた顔をしていた。気付いていないのだ、自らの行動の意味を。それほどに彼女は誰かのために何かをしたことがない。彼女の詳しい生い立ちは知らない、それでも彼女が裏社会で生き抜くには適しすぎている子であることは察している。
でなければ「強烈な臭いをつける」という作戦を思いついたとして、自らの腕を躊躇いなく切れるわけがない。
「……わたしが、悲しませたくない人」
未だ立ち上がれないでいる谷崎の視線に合わせるように地面に膝をつきつつ、わからない、とばかりにクリスは困惑の様子を見せた。
「自分を大事にしろ、って……与謝野さんにもよく言われるんですけど、どういう風にやるんですか」
「どう、って、その……なるべく怪我をしない、とか」
「そうしないと助けられない人がいるのに、自分の命を優先しろと? 探偵社員みんな自分のことそっちのけにして事件に顔突っ込むのに?」
「うん。……いや、場合によるのかな……基本的には、というか……でも最近はけっこう常に無茶してる気がしてきた……ええと、ごめんね、探偵社にいるとそこらへんよくわからなくなるけど、でも、ほら、クリスちゃんだって国木田さんが怪我したら心配になるでしょ?」
我ながら上手い例えだと思った。
のだが。
「……え?」
クリスは初めて思い至ったかのように声を漏らした。そして何かを思い出したのか「……ああ」と納得じみた呟きをこぼす。
「苛立ちはしたかも」
「い、苛立ちかあ」
「わたしにはまだわからない感覚かもしれません」
「ええ……じ、じゃあいつかわかるようになるよ」
彼女の何をも知らないけれど、これだけは確かだ。
「クリスちゃんも優しい子だから」
やさしい、とクリスが呟く。見知らぬ赤の他人の名前を復唱するかのようなその声音は、形容詞を口にしているとは思えないものだった。これは苦労するだろうな、と谷崎はそっと思う。
けれど、きっと、彼女なら。
いつか問題なく、それを理解することができるだろう。
「……考えておきます」
どこかずれた返答をしつつゆっくりと首を横に振り、そしてクリスは腰から何かを抜き出した。それを谷崎へと差し出してくる。
拳銃だ。
「……ご自身の感覚を、信じて下さい」
それを受け取る。重みのあるそれは、武器だった。
異能を失った谷崎の、唯一の武器。
立ち上がったクリスに手を差し出され、それへと慌てて応じる。引っ張り上げられるように立ってみれば、先程までの苦痛は何だったのか、眩暈の一つもなかった。彼女が何かをしてくれたのだろうか。
「クリスちゃん」
呼び、そして谷崎は光に気がついた。雪ではない。蛍の光を思わせる、暖かく小さな光の粒。それがクリスがら発されていることに、ようやく気付いた。
「……終わったら、探偵社の屋上へ来て下さい。賢治さんと与謝野さんも来ます」
谷崎を見上げる少女の面持ちは、硬い。
「手伝っていただきたいんです。わたしの異能を倒すのを」
驚く谷崎の目の前で、クリスは何かを呟いた。国木田、という名がかろうじて聞こえたと思った直後、彼女の姿は光と共に霧散する。
消えた。
目の前で起こった事象に、谷崎は呆然と立ちすくんだ。まるで時が止まっていたかのような――殺気の一つも感じなかった、ひととき。耳鳴りすらしそうなほど、穏やかで警戒心の欠片も必要なかった時間。
その静寂を突如壊す気配。
背後だ。
「くッ!」
横ざまに飛び退く。地面に倒れ込むように動き、そちらを見た。誰もいない。濃い霧がたゆたっている。
何も見えないが、確かにいた。
己の異能が。
手の中の拳銃の重みを感じながら、グリップを握り込む。周囲に気を配りつつ、腰を上げ、手の中の安全装置を外した。中腰のまま両手でグリップを握り込み、再度目を閉じる。
人を失った街はしんと静まり返っていた。自分の心臓の音が聞こえる。湿った空気が鼻を通って来る。谷崎は呼吸を抑えて静寂の中の騒音を探した。
砂利を踏む音、焦りの含まれた呼吸音。肌を風が掠める。その風に鉄の匂いが混じる。
――顔面へと迫りくる拳の突進を、感じ取る。
衝撃が打ち込まれる直前、谷崎は体ごと横へ跳んだ。体勢を崩したかと思うほどの大きな回避――くるりと百八十度回転するように体の向きを変え、そしてしゃがみ込む。頭上を蹴りが通り過ぎていく。その蹴りの角度を、漂う血の香りの位置を、知る。
目を閉じたまま、谷崎は拳銃を手にした腕を持ち上げる。
しゃがみ込んだ自らの位置、そこから背後、上空、斜め六十度。
今、彼は片足を振り上げた体勢になっている。上体が少し逸れているはずだ。そこからの回避は柔軟性が必要となる、並みの青年には難しい。
「ボクは死なない」
この銃口の先は、ちょうど谷崎と同じ身長の人物の、その額の高さ。
「ナオミを置いて、どこにも行かない!」
引き金を引く。発砲音が耳をつんざく。反動が腕を軋ませる。
パリン、と音がした。
目を開ける。その先にいたのは――宝石のあった額に風穴をあけた、己だった。