幕間 -DEAD APPLE-
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公共施設の広い敷地内に往来はなく、死臭めいた白い霧が立ち込めている。
与謝野は重い体で荒く息をついた。上体を起こす力すらなく、前屈みのまま相手を睨み付ける。
自分と同じ姿の女がいた。しかしその額には赤い宝石が埋まり、その血の色に似た輝きは与謝野に悪寒を感じさせる。女は与謝野と同じ姿をしていながら、与謝野とは正反対に背筋を伸ばしていた。怪我一つない、綺麗な肌。対して与謝野は幾度も地面に転がり、蹴りや拳を受け、痛みを抱えていた。手にした鉈で何度も女を切り裂いたが、何の意味もない。なぜなら女は与謝野の異能そのものだった。
異能力【君死給勿】。稀な治癒能力は、対象が死なない限りその外傷を繰り返し癒す。腕を切り落とそうと、足を切り離そうと、その胸に鉈を突き立てようと、無意味だった。むしろ異能で健康な体を手に入れ直し、疲労した与謝野をいたぶってくるだけだ。
「確かに、厄介な能力だねえ」
わかっていた。この力がどれほど厄介か。経験していた。この異能の異常さを。
けれど理解していることと、実際に目の前にするのとでは違う。
「ッはあああ!」
鉈を持ち直し、与謝野は女に駆けた。自分は戦闘要員ではない。どこまで相手にできるかわからない。けれど、このままでは。
――霧が出る前に社内で読んでいた事件の報告書を、添付されていた遺体の写真を思い出す。
振りかざした鉈を、女はその腕で受け止めた。皮膚を、肉を裂き、骨に突き刺さる感触。治癒は致命傷とかけ離れているほど手間がかかる。死に至らない深手を負わせる――それが【君死給勿】への有効打だった。まずは腕を切る、次に足を切る。大動脈を避けて筋肉の筋を狙う、今の一撃は理想通りと言っても過言ではなかった。
しかしそれを気にした様子もなく、女は鉈を腕に突き立てさせたまま手を伸ばしてくる。筋が断ち切れていないのだと気付いた。僅かに、本当に僅かに足りなかった。腕に力を込めて筋肉を硬くし、鉈が奥深くまで刺さるのを防いだのだ。だとしても本来なら痛みと動揺とで動きが鈍るなり距離を置こうとするなりするはず。
相手が人間だったなら。
女は人外めいた無感情さのまま鉈をぶっ刺した腕を伸ばしてくる。深く刺した鉈をすぐに引き抜くこともできず、与謝野は首を捕まれた。的確に、頸動脈を押さえてくる。
「ぐッ……!」
息が詰まるような朦朧とした痛みと共に、視界が白む。
急いで鉈を引き抜き、首を掴む腕へとそれを振り下ろした。再び皮膚と肉を断つ感触と、骨に刃が突き刺さる衝撃。押し込むたびに、ぐ、ぐ、と刃が食い込んでいく。徐々に視界が狭まっていく。腕を落とすのが先か、脳が血を失うのが先か。
息を詰める。全身の力を、腕に込める。負けるわけにはいかない。
この力は、この女は、自分だからだ。決して負けてはいけない存在だからだ。
声にならない叫びが喉を裂く。腕に刃が埋もれていく。あと少し、あともう少し。強く目を瞑る。視界は役に立たなくなっていた。脳が思考を失っていく。何も考えられない。ただただ、刃を深く突き立てていく。理由は忘れた。今の状況に至った過程も、ここがどこなのかも。
だから、気付かなかった。
首の圧迫が消えると同時に脳が悲鳴を上げた。突如流入してきた血液が脳の血管を圧迫する。頭痛、激しい脈拍が内側から頭蓋骨を打つ。
「――ッ、あ」
地面に落ち、喉に手を当てて荒く咳と呼吸を繰り返す。視界が色を映し始める。輪郭が明瞭になっていく。地面を掴む感覚が、柔らかな喉の触感が、正しく与謝野の脳を刺激する。
「ご無事ですか」
そばで誰かが手を差し伸べている。その指先を、手のひらを、手首を、与謝野は見た。顔を上げ、そこにいた少女を見上げる。
「……クリス、かい?」
「正解ですよ、与謝野さん」
微笑んだ少女ははっきりと見えた。体の全感覚が正常化したことを実感する。
「実はお手伝いに来たんです。わたしの方を手伝っていただきたくて」
「そう、かい。アンタからそう言ってくるなんて、珍しいじゃないか」
思った通りのことを言った。けれど彼女には意外な言葉だったらしい、思いもしなかったとばかりに口を噤んで与謝野に見入り、そしてそっと目を細めた。
「……そう、ですね」
納得めいた声音で呟く。
「わたしも、驚いています」
与謝野は口の端を上げた。これは良い兆候だ。孤独を突き進む彼女が、助けを求めて来た。事態が差し迫っているせいもあるだろうが、以前の彼女ならそれでも意固地に一人で立ち向かっていたはずだ。
「良いよ、妾にできることなら。それより先にあいつからだけど」
クリスの手を掴んで立ち上がり、与謝野は先程まで極限のせめぎ合いをしていた相手を睨み付ける。その先で見慣れた光る蝶が宙を舞っていた。かつては与謝野を、与謝野が助けると誓った人々を慈しむように舞い踊っていたそれは今、与謝野に似た女を守るように乱れ飛んでいる。女は真っ直ぐに与謝野を睨み付けていた。その腹部に空いた風穴が瞬時に埋まっていくのが見える。腹部に一撃、か。無論、与謝野による傷ではない。
ちらりとクリスの手元を見れば、使い込まれたナイフがそこにある。女が与謝野の首を掴んでいた隙に、その懐へ突っ込んだのか。
「あれは妾の異能だ。一撃で殺さないと何度も復活してくる。……本当に厄介な力さ」
「羨ましいなって思いますよ」
「うん?」
「だって」
蝶をまとう女を見つめるその青の目は、ナイフを握る手は、誰かを思い出しているように苦しげで優しい。
「大切な人を救えるじゃないですか」
「命を救うことが必ず人を救うことには繋がらないよ。死は権利だ、それを奪うんだからね。一部の人にとっては凶悪な異能さ」
「……そういう考え方があるんですね」
クリスは心底驚いたようだった。きっと彼女には経験がないだろう。救うことで失われるものもあるということを。そして彼女は知らないのだ。与謝野がかつて、命を救うことで地獄を生み出していたことを、その結末を。
だからこそ、伝えられるものがある。奪い騙すしかできないのだと嘆く少女へと差し伸べられる手がある。
「与謝野さんは『生きていれば良いことがある』って言うタイプかと思ってました」
「無責任なことは言わないよ。ただ、生きている以上は妾の手助けが届けられる。絶望だけじゃない『何か』を感じることができる。命ってのはそこに意味があるんだと妾は思うね」
髪に飾った蝶に、触れないまま思いを馳せる。
これを今も着けられるのは、今もあの異能を使い続けられるのは、探偵社という場所があったからだ。あの島で全てが終わらなかったからだ。
生き続けたからだ。
「だから妾はあいつを倒す。異能をそうやって使うなんて、お灸を据えないとねェ。どうせあの赤い宝石みたいなやつが悪さしてるんだろう?」
「だと思います。……前言撤回しますね」
少女は苦笑に似た微笑みを浮かべた。
「羨ましい、なんて浅はかでした。わたしに治癒の異能は使いこなせない。……与謝野さんがあの異能の所持者で良かった」
どこか安堵しているようにも見えたそれは、彼女なりの賛辞だろうか。
生かし続ける、という彼女にとって悪夢であろう与謝野の異能は、何よりも拒むべきものであろうに。
「そう言ってもらえて嬉しいね」
拒まれないというだけでも十分だ。差し出した手を掴んでもらえないとしても――差し出されている手があると認識されているのなら、それで良い。
一度息を吐き出し、与謝野は改めて目の前の己へと目を向ける。完全体になった女は悠然とそこにいた。相手が二人になろうが問題ない、とでも言いたげに。確かに、そうだ。与謝野の異能は戦闘向けではない。しかし、終わりがない。強力な敵は死力を尽くす必要があるが、倒すことは可能だ。しかし与謝野の異能は、倒れない。死力を尽くしても、斃せないのだ。
「策はあるのかい?」
「そうですねえ」
のんびりと顎に手を当て、クリスは考え込む。
「うん、こんなのはどうでしょう?」
その手が宙へ差し出される。空を飛ぶ蛍を指に乗せるかのような彼女の手に、光が灯る。その光は徐々に増え、何かを形作った。紐状のそれはやがて光を吸収し尽くし、へたりとクリスの手に乗っかる。宙から生まれたそれへ、与謝野は目を瞠った。
「アンタ、その力……」
「友人の力です」
「それって」
「宙にある原子に作用して、他の分子へと再構成させるとか何とか。詳しいことはわからないんですけど、彼がそんな風に言っていました」
さらりと言い、クリスはその手に現れたものを与謝野に見せる。長く細い、紐だ。
「与謝野さんの異能は外傷を治癒するものですから、これでいかがでしょうか」
クリスの様子に懐古のようなものは見られない。そうだ、と与謝野は我に返った。今はクリスよりも己の異能をどうにかしなくてはいけない。彼女への言及はその後だ。
「……やってみようじゃないか」
頷き合い、与謝野は女へと駆けだした。突撃してくる与謝野に、女は平然と待ち構えている。それへと鉈を振り下ろす。大袈裟な動作は見切られ、女はあっさりとそれを躱した。体を横へと移動する、簡単な動き。それを狙っていた。
与謝野の攻撃を避けた先で、女の頭上から紐が降ってくる。輪の形を描いたそれの中心に、女の頭が収まる。女の回避を先読みしたクリスが、死角から女の首へと紐をかけたのだ。突然の罠を避けられるわけもなく、女の喉元へ紐が食い込む。すぐさまクリスが紐を引いた。輪を狭めた紐で、くい、と首が絞まり、女が顎を引く。気道圧迫、確かな隙が女に生じる。
与謝野の正面で、女の額が無防備に晒される。
「与謝野さん!」
クリスの声に応えるように、拳を振りかぶった。
「妾は医者だ、どんな傷でも治してやる。今からのアンタへの一発も含めてね!」
その額へと一撃をぶち込む。
パリン、と醜い色をした宝石が砕けた。
瞬間。
女が形を失い、塵となり、ふわりと宙に霧散する。消失――しかし与謝野はそっと己の胸に手を当てた。感覚はない。けれど、わかる。
「……これが連続自殺事件の真実だったなんてね」
異能の分離、そして強襲。実際目にしなければ想像もしなかったこと。会議室のスクリーンに映し出された白い男を思い出す。とんでもない異能だ。異能者相手なら、太宰に次いで無敵だろう。
ガク、と視界の隅で崩れ落ちたクリスに与謝野は我に返った。
「クリス?」
「……【テンペスト】の補助がないと、やっぱりきつくて」
跪いたクリスの顔色は悪い。誤魔化すように苦笑しているものの、胸元を抑える手に余裕は見えない。運動量に対して呼吸が追い付いていないのだろう。
「走れないんですよね、まともに。虚弱すぎるというか……【マクベス】で瞬間移動できるので、少しはましなんですけど、さすがに戦闘は」
「もう良い、休んでな。後は何とかするから」
背に手をかけようとして止め、与謝野はそばに膝をついた。彼女は体が弱い。虚弱体質という意味ではなく、その体に合っていない負荷が多すぎるという意味の――そこまで考えて与謝野はようやく違和感に気が付いた。
「アンタ、大丈夫なのかい? 今【マクベス】って……それって確か、体に負荷が」
「反動は、ないですよ」
深呼吸を繰り返しながら、クリスは笑う。
「今は、ですけど。そんなことより、与謝野先生にお願いがあって」
「そんなこと、じゃないよ」
怒鳴り、与謝野はクリスの顔を覗き込んだ。青ざめた少女の顔に浮かぶのは驚きだ。疲労が見える。休息が必要なはずだ。
「……アンタの体も大事だ。雑に扱うんじゃない」
「すみません、後でそうします。今は時間がないんです」
さらに言おうとした与謝野を遮り、クリスは先程使った紐を与謝野に押しつけてくる。何を言うこともできないまま思わず受け取ってしまった。
「賢治さんが酷い怪我を負っています。急ぎ向かって欲しいんです」
「……わかったよ。場所は?」
「お送りします」
「え?」
クリスが一度息を長く吐き、そして決意するかのように立ち上がる。そうしないと体がついてこないのだと与謝野にはわかっていた。けれど制止はしない。できなかった。
「【マクベス】で生成したこの紐を媒介に、与謝野さんを賢治さんのそばへ”再定義”します。紐のついでに与謝野さんも転移するという形ならイメージがしやすい。……【テンペスト】を使いこなすためのギルドでの想像訓練がここでこういう風に役立つなんて思いもしなかったな」
切羽詰まっているその様子、そして霧が立ち込め同僚と未だ連絡が取れていないこの状況。何を優先しなければいけないか、探偵社員である与謝野はわかっている。わかってしまっている。是が非でも患者を医務室に運び入れる――などということができる会社ではないのだ。
武装探偵社には、己よりも優先すべきものがある。
それを体現しているこの、誰よりも己を優先しなければいけないはずの少女を、与謝野は止めることはできない。
「クリス」
「時間がありません、話は後で聞きますから」
クリスが手を広げる。光がその手に集まり、紐も同時に光り出した。蛍の光を思わせる柔らかなそれは、やがて与謝野へと伝播し、与謝野もまた光を発し始める。
「賢治さんと一緒に、探偵社へ来て下さい。……なるべく急いで」
訊きたいことがあった、確認したいことがあった。
けれど光は与謝野を待たず――与謝野の周囲を白く掻き消していく。
***
光が彼女を覆い尽くし、そして消える。与謝野の姿もまた、光と共に宙に溶けていった。
――蛍に似た、光の粒。
誰もいなくなった広場で、クリスはそっと目を閉じる。
「……強すぎるなあ」
その声は微かに震えている。
「ギルドにいた頃のおかげで想像の制御はできてるから、突然焼野原を作るなんてことは起こらないけど……【テンペスト】だけでも十分強すぎるのになあ。こんなの、フィーじゃなくても欲しがるよ」
クリスは異能実験体、その完成品だ。望みの異能を所持し、それを制限なく発揮する器。そこに物質変換の異能を与えるということの意味をウィリアムはわかっていたはず。【マクベス】がウィリアムから奪ったものではなくウィリアムが望んでクリスに与えたものだと確信した今、クリスはウィリアムの意図が読めないでいる。
「君は……何でこれをわたしにくれたのかな」
訊ねる。そこにいるかのように胸元へ手を当てる。返事はない。声も聞こえてこない。
答えは、誰にもわからない。