幕間 -DEAD APPLE-
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[Act 2.5 Scene 3]
敦と鏡花は駆けていた。背後から殺気が追いかけてくる。奴の足が地面に触れるたび、地面が振動し破片が宙を舞った。巨大な獣だ。破壊者たるその獣は、道端に放置された車を次々と跳ね飛ばし、衝突させ、爆発を引き起こす。
夜の街には人の気配はない。忽然と消えてしまっていた。乱雑に並ぶ車にも、ファストフード店にも、交番にも、どこにも人がいない。半端に開かれた荷物や食べかけの食べ物だけが、彼らがそこにいたことを示していた。
周囲には霧。視界が悪い。運転手を失った車達の群れの中を走りながらも、敦の耳には背後から追いかけてくる脅威が届いている。地面が揺れる。爆風が背を押す。逃げなければ、走らなければ。あの獣が何かもわからないまま、敦は鏡花を追うように霧に包まれる全てを奪われた街を走る。
何が起きているのかわからない。思考する余裕がない。教えてくれる人もいない。
――逃げ続けることしか、できない。
その緊張感からか、それとも視界の悪さからか、敦は地面に横たわったものを回避することができなかった。
「うわッ!」
盛大に躓き、顎から地面に落ちる。痛みより先に「まずい」という直感が脳髄を走る。急いで起き上がり獣の位置を確かめようと後ろを振り返った。
獣はいない。まだここまで来ていないのだ。安堵――と同時に視界の隅のものが動く。地面に横たわっていたものが、意識を取り戻したかのようにゆっくりと体を起こした。人だ。自分と鏡花以外の、人。しかもそれは見慣れた背格好をしていた。束ねられた長髪、性格を表したかのようなきっちりとした服装。
その正体はあまりにも意外すぎた。
「国木田さん……?」
「……敦か」
弱々しく発された声に疑問を呈す前に、敦の目に赤が飛び込んでくる。左脇腹、心臓の下。服を汚し国木田の手をも汚したその赤は、今も雫を零している。
「その傷……撃たれたんですか?」
「弾は抜けている。問題ない」
撃たれたか否かという問いかけの答えはなしに、国木田ははっきりと言った。心配を拒絶するかのようなそれは切羽詰まった現状そのものだ。無駄な会話をしている暇はない――そう、聞こえた。
危機は去っていない。
国木田の顔色は悪い。傷の位置が悪いことなど知識の浅い敦でもわかる。国木田の言う「問題ない」はあまりにも信じ難い。
それに、何より敦は国木田という探偵社員の実力を知っている。怪我の様子からするに銃撃されたのだろうが、それにしても急所近くをやすやすと撃ち抜かれるはずがない。
この現状――「問題ない」わけがない。
「一体誰が」
周囲は異能者を自殺に追い込む霧。人々は消えている。切迫したこの状況下で誰が国木田を襲ったのか。
ポートマフィア? ギルドの生き残り? それとも第三の――?
「……お前達はまだ会っていないのか」
「え?」
「じきに来る。油断するな」
国木田が脂汗をにじませながらも忠告してくる。何が来るというのか。普段ならポートマフィアのことだっただろう。が、今はもう以前とは違う。社長から衝突を避けろと言われているし、ポートマフィアも首領から同じことを言われているという。なら何だ。腕利きの国木田の急所付近を撃ち抜いてみせた相手は、誰だ。
霧の中を歩くような敦の思考を妨げるように、振動が地面を揺るがす。ハッとそちらを見た。車が潰され、信号機がへし折られている。その上に佇む、牙を剥いた獣。四つ足のそれは、憎いものを見るかのように敦達を睨みつけてくる。
その眼差しに恐怖が湧き上がる。
「追いつかれた……!」
獣の強さを表現するかのように、その足元で信号機が漏電した電気を宙に放出している。小さな雷だ。
怯える敦とは対照的に、国木田が腰から銃を取り出した。数発、獣へと撃つ。あれほどの巨体に拳銃が通るのか――敦の疑問は答えを得なかった。国木田の撃った弾は獣の足元へと撃ち込まれたからだ。獣の足元で潰れた車から、ガソリンが漏れていく。
瞬間、火花がそれへと散る。
――ドオォン!
爆風が獣を覆い尽くす。気化したガソリンに引火したのだと気が付く。
「走れ!」
「安全な場所に心当たりがある。来て」
国木田の指示と同時に鏡花が駆け出す。予期せぬ爆風に気を取られていた敦は慌ててその背を追いかけた。国木田もまた、息を詰めながら鏡花の後を追う。敦だけが何もできていなかった。敦以外の二人は現状を理解していないながらも即座に対処しているが、今の自分の頭の中は恐怖と混乱とでいっぱいいっぱいになっている。二人を羨ましいと思う余裕もない。
今の自分が普段以上に足手まといになっている自覚はある。自分も探偵社員だ、正体不明の何かが襲い掛かってきているというこの非現実的な事象に対し、国木田のように冷静に、鏡花のように俊敏に、自らも何かをしなくてはいけない。同じ探偵社員である二人ができているのだ、きっと自分も何かができるはず。
その、はず。
「……嘘だ」
けれど、やはり敦の頭の中には拒絶めいた混乱しかなかった。
「まさか」
敦を襲ってきたあの獣、あの殺気。
覚えがある。
それはきっと、かつての己が恐れたもの。かつて自分は、あれに追われていると錯覚していた。孤児院の畑を荒らした獣、敦があの場所から追い出された後も追ってきた獣。不幸の元凶。
「まさか」
あれは幻覚だったはずだ。勘違いだったはずだ。この身に埋まる野生の暴力、最近ようやく自分の意思で扱えるようになった力。
それが今更、現実となって敦を追い立ててきた――?
「こっち」
鏡花が路地裏の狭い通用口を開ける。敦にはもはや、ここがどこかもわかっていない。ポートマフィア時代の経験が活かされているのか。
普段から人気がないのであろう狭い路地に転がり込み、しっかりと戸を閉め、三人はようやく息をついた。と、国木田が呻く。そうだった、彼は怪我をしていたのだ。先程は緊急だったせいか国木田の心の強さ故か走ることができたが、あの獣がここに辿り着いたとしたら国木田は太刀打ちできないかもしれない。それどころか、彼一人で逃げ切れるかもわからない。
国木田に助けてもらえない――その事実に、あまりにも情けない事実に、ぞっとする。
タッ、と鏡花が何も言わずに駆け出す。名を呼んだ敦に振り返りもせず、彼女はどこかへ行ってしまった。あの獣がまだいるというのに単独行動は危ない。しかし国木田を置いて追いかけることもできない。第三の選択肢が思い浮かぶわけもなく、敦は国木田と共に路地裏に腰を下ろした。
とはいえ、何かができるわけでもない。あの虎の足止めができるわけでもないし、怪我の治療は専門外だ。
何かをしなければとは思うのに、何も思い浮かばないし何もできないままでいる。
「……早く与謝野先生に診せないと」
「与謝野先生も同じ状況だ」
場の沈黙を重くしたくないがために呟いた言葉は、予想外の返答によって否定された。
「え?」
「与謝野先生だけではない、社長も賢治も、おそらく谷崎も、それに――クリスも」
同じ状況。彼らもまた、危機に瀕しているということか。強大な何か――「何か」と呼ぶにしては正体がわかりすぎているけれど――に襲われているという、この。
「この霧は澁澤龍彦の異能だ。内容は『異能者から異能を分離する』能力」
「異能を、分離する……?」
「言葉の通りだ。異能を所持者から引き剥がし収集する。クリスはそこまでしか言わなかったが、おそらくこの状況を考えると、奴の異能の効果はそれだけではない。異能を持たない者達は消えた。乱歩さんもな。そして分離した異能は澁澤の元へと集うではなく、俺達を襲ってきた」
国木田はやはり冷静に言った。けれどその話の内容は極めて深刻だ。
理解したくないことが、パズルピースのような欠片となって敦の頭に集まってくる。ぱちり、ぱちりとそれらが組み合わさっていく。
世界各地で発生した異能者連続自殺事件。その現場に見られた白い霧。それは、異能者から異能を分離する霧だった。霧の蔓延した街からは人々が消え、そして。
――分離した異能は、所持者を襲って来る。
「……じゃあ、やっぱり、あれは」
虎。
何よりも恐れてきた、あの、虎だ。
「俺達は今まさに、異能力者連続自殺事件の被害者となっている。事件の調査を依頼されている身でこの状況というのは恥ずべき事態だが……まずは探偵社に行かなくては」
国木田が胸元から手帳を取り出し、確認するかのように今日の日程を眺める。自らの腕時計と見比べつつ行ったその姿は、普段敦が目にする国木田の姿そのものだった。癖なのだろう。普段なら苦笑していたところだが、今の敦はほっと肩の力を抜いた。
「澁澤を探さないんですか?」
特務課からの依頼は、澁澤龍彦の捜査及び確保だったはず。ひとまずは探偵社に戻って他の社員と合流するということだろうか。
答えるより先に行動したいのだろう、手帳を胸元に戻し、国木田は立ち上がろうとする。意図がわからないまま手を貸し出した――瞬間。
理解するより先に、息を呑む。
――殺気。
それも、冷えた刃を思わせる。
「まずい」
直感だった。
国木田の背後に斬撃がほとばしる。いくつものそれは、呆気なく閉鎖していた通用口を破壊した。その奥から姿を現したのは、夜叉。
細身の刀を構えた、白い女性の異能生命体。見慣れたそれは、鏡花が所持しているはずの異能。
「【夜叉白雪】……!」
国木田が拳銃を手にする。敦は何もできなかった。何をすれば良いのかわからなかった。
異能者から異能を分離する能力。それがこの霧ならば、自分の手元に異能はない。どうする。どうする。
どうすれば良い?
何度目かの恐怖に思考が停止し始めた敦の耳に届いたのは、鋭いブレーキ音だった。振り向く。白い車が路地の向こうに停まっているのを視認する。
「乗って!」
運転席の鏡花が叫ぶ。先程飛び出していったのは、車を確保するためだったのだ。どこから、誰の車を、運転はどうやって。我ながら間抜けた問いばかりが頭を駆け巡る。
「走れ敦!」
叫び、国木田が銃弾を夜叉へと放つ。それらが刀で弾かれる音を聞きながら、敦は言われるがままに走り出した。鏡花の待つ車へ乗り込む。国木田もまた、それに続いた。
二人を乗せるや否や鏡花がアクセルを踏み込む。急加速を指示された車はギアを落とし、エンジンを唸らせた。
敦は後部座席から後ろを見た。勢いよく遠ざかる景色に夜叉白雪の姿はない。逃げ切れた、とわかっていても全身は未だに強張っている。視界の隅を走り抜けていく風景全てにあの白い夜叉がいるような気がしてならない。
「……【月下獣】に【夜叉白雪】、生身では難しい相手だな」
傷口を押さえながら国木田が呟く。
「まとめると、澁澤龍彦の異能は『異能者から異能を分離する霧を発生させ、異能に所持者を襲わせる』能力。分離した異能は結晶化し澁澤の手に渡る。それ故に呼び名がコレクターだ」
「つまり連続自殺事件は、自殺ではなく異能による殺人ってことですか……?」
敦の確認に国木田は頷く。自分を追って来たあの獣を思い出してみた。あの巨躯に、殺される。それは至極当然のような気がする。あんなのに敵うわけがない、自分は事件の被害者同様、「自殺」するのだろう。
「じゃあ、異能に勝てば?」
鏡花がハンドルを操作しながら訊ねる。国木田は首を振った。
「わからん」
「異能に勝つって、そんな無茶な」
「けど、可能性はある」
鏡花が前を見つめたまま返す。
「澁澤龍彦が異能を結晶化して集めるには、所持者と異能が戦って異能が勝つという結果が必要なのかもしれない。なら、その結果にならなければ、分離した異能は澁澤龍彦の異能の効果を失って所持者の元に戻るかもしれない」
「試す価値はあるが、簡単ではないだろうな」
想像もできないことを話す鏡花に絶句する敦とは対照的に、国木田は頷く。
「とにかく、探偵社へ急げ」
国木田の指示に鏡花は頷く。その二人のやり取りを見つつ、敦は呆然とした。
異能に、勝つ。
あの獣に。
あの牙に、爪に、眼差しに、勝つ。
――死にたくはない。自殺なんてしたくもない。けれど。
あの獣に素手で勝つなんて、無理としか思えなかった。