幕間 -DEAD APPLE-
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***
クリスは走っていた。息が切れる。身体中が痛い。足も、腹部も、喉も、何もかもが。その背中を風が押す。まずい、と思う間もなかった。
突風に背中が圧される。足が地面を離れる。背骨が軋んだ。目の前にビルの外壁が迫る。
「……ッ!」
――ドオォン!
外壁に激突、塵が噴き出し瓦礫が落ちる。
「ッぐぁ……!」
叩きつけられた衝撃で肺の中の空気が漏れた。酸欠で目の前が暗くなる。勢いよく瓦礫の上に落ちる。欠片が皮膚に食い込んできた。悲鳴が喉から絞り出される。
「……は、あッ」
肺が吸気を求めて大きく膨らむ。それすらも痛い。瓦礫の上で横になりながら、クリスは空を見上げていた。霧を見ているのか視界がぼやけているのかわからない。額を伝うのは血か。肘をついて上体を捻り、何とか体を起こす。かは、と咳が喉の奥の異物を吐き出そうとした。胃液と血の混じった味が込み上げてくる。不快感に顔をひそめた。
何かが歩み寄ってくる。その気配へと、真っ直ぐに顔を向けた。
小さな自分がそこにいた。何も知らないまま、目の前の事象を眺めているだけの幼い子供が。その手で大切な友人を殺した醜い幼子が。
どうしてこんなことに、と言わんばかりの泣きそうな顔でこちらを見下ろしている。
「……わたしが憎いのは、あの国だけじゃない」
瓦礫の敷かれた地面を掴む。手のひらの裂傷に尖った破片が突き刺さる。
「あの時、ウィリアムを殺したわたし自身を、ウィリアムを殺してわたしを助けてくれた【テンペスト】を、わたしは許せない」
仕方なかったことはわかっている。人は死を目の前にした時、他者よりも自分を優先する。それは本能だ。あの時、ウィリアムはウィリアムとしての姿も意識もなく、継ぎ接ぎだらけの化け物としてクリスを襲ってきた。だから、仕方がなかった。だからこそ、許せなかった。
「君がその姿を選んでくれて良かったよ」
ウエストポーチからナイフを取り出す。【テンペスト】を生身の人間一人で倒すのはかなり難しい。だが勝算はある。想定外とはいえこの霧は異能なのだ、おそらくは範囲の限界、そして時間の限界がある。何より澁澤の元には太宰がいる。
手段はどうあれ彼はこの霧を終わらせるだろう。それまでに何人死ぬかはわからないが、澁澤とて一箇所に留まる気はないはず。死なないためにはタイムリミットまで生き残っていれば良い。持久戦だ。
もしくは、霧の薄い場所へと【テンペスト】を誘導できれば、もしかしたら。
一つの可能性が、現実になるかもしれない。
「異能が所持者の姿もしくは所持者が望む姿を取ることは珍しくない。可能性としては十分あり得た。でも、あまりにも期待通りすぎるね」
もし、と願う自分がいる。
もし――この異能を、この手で、殺せるのなら。
この少女を殺せるのなら。
「……最高だ」
幼子が表情を変えないままクリスを見つめる。もはや無表情と言っても良いだろうその変わらない泣き顔に似合わない、殺気を帯びた風が渦巻く。それを、クリスは黙って見つめ続ける。タイミングを計るように、その姿を目に焼き付けるように。
瞬間。
幼子の無表情が壊れた。目を見開き、口を半開きにしてクリスの背後を見つめる。風が収まっていく。殺意をなくした風は霧を揺らして静かに消えた。
信じられないものを見ているかのように幼子はその場に立ち尽くした。小さな口が動く。音のない声がただ一つの名を呼ぶ。
――唯一の。
「ッ――」
クリスは凍り付いた。
幼子が後ずさる。そして――霧に消えた。逃げたのだ。なぜなら、クリスの背後にいるのは。
彼女が、【テンペスト】が、クリスが、傷付けることのできない人だから。
ズ、と何かを引きずる音が聞こえてくる。ぴちゃ、と何かが落ちる。クリスの背後から、それは近寄ってくる。
ゆっくりと、首を回した。視界が、それを捉える。
おびただしい数の腕、足。腹から溢れる臓器は床を引きずり、骨格を失った顔は平たく歪んで、剥き出しになった舌から唾液をこぼす。
「……ん、で」
どうして、ここに。なぜ、この幻覚が。その答えは簡単なことだ。
これは幻覚ではないから。
――異能が所持者の姿を取るのは珍しくない。
ぺたりと地面に座り込んだクリスへ、いくつもの手が伸ばされてくる。腰を擦るように距離を取ろうとするも、体が上手く動かせない。震える手がナイフを掴み損ねる。
あり得ないと思っていた光景が、目の前にある。
これは、この異能は、クリスのものではない。なら分離したところで即座に澁澤に収集されるだけだ。元々自分のものではないこの異能を手放せるのなら――それも良いと、思っていた。
けれど。
彼は、ここに、いる。
「……なん、で、」
手が腕を掴む。肩を掴み、皮膚に触れ、その懐かしいぬくもりを忍ばせてくる。恐怖が心臓を冷やす。ばちゃ、と赤い塊が腹から落ちる。垂れ下がった腸が瓦礫に血の道筋を残す。動けない。目の前に迫る腹を、その内包物を、見つめることしかできない。
駄目だ、このままでは、また。
――切り刻むための武器は今、クリスの元を離れている。
ならば、どうなる。
――殺される。
死ぬな、というあの約束が聞こえてくる。
「い、や……!」
拒むように腕を振り払う。しかしいくつものそれはクリスを掴み、押さえ、のしかかってくる。肌にあたたかさが入り込んでくる。皮膚の温度がそれの体温へと馴染んでいく、溶けていく。
腕の一つがクリスへと伸ばされる。首筋に触れたそれに硬直した。急所を撫でられる不快な危機感。
首を締め上げられるのだと、首を裂かれるのだと、思った。
――それも、悪くないかもしれない。
復讐をしたいのは、きっと、彼も同じだ。
目を閉じる。来たるべき痛みを想像する。
「……ごめんなさい」
誰にも言えなかった謝罪の言葉を、呟く。
痛みはなかった。
首筋を撫でた手はそのままクリスの髪の中へ潜り、その側頭を包むように撫でた。はっと目を開き、目の前の化け物を見つめる。
その動作に、優しさに、覚えがある。
忘れるわけがない。
――クリス。
「……どうして」
それを見上げる。歪な顔は平たく潰され、原型を失っている。震える手で、クリスは頭を撫でるその腕に触れた。化け物はされるがまま、クリスを受け入れる。指から伝わる感触は幻ではなかった。記憶の欠片の再現でもない。澁澤の異能は他者の異能を具現化し、人間との接触を、殺害を可能にする。
けれど、この異能は。
「……どうして」
クリスを殺さなかった。
「……【マクベス】」
あの人から奪い取った異能。あの人が化け物として殺されたその日から、クリスのそばにい続けた存在。
目を閉じる。記憶の中のぬくもりと同じものが自分に触れている、夢のような現実を知る。
気付いていた。この化け物は幻覚として現れ何度もクリスを追い詰めはしても、クリスを殺めようとはしなかった。腕に触れ、抱き寄せ――それだけだった。
なぜなら彼にクリスは殺せないからだ。クリスがこれを拒みながらも殺すことを嫌がったのと同じく、彼もまた、クリスを殺せなかった。
そっと目を開けた。体を押さえつけていた腕は消え、しかし頭を撫でる手は残っていた。人の腕そのものであるそれを辿り、クリスは目の前の人影を見つめる。
懐かしい姿がそこにあった。目の前に膝をつき、クリスを優しく見つめている。柔らかな銀の髪、穏やかな茶色の眼差し。
「……ウィリアム」
彼はずっとそこにいたのだ。死した後も、ずっと。
異能という形で、クリスのそばにいた。
なぜこの身に友人の異能が植え付けられているのか、クリスは知らない。彼から命もろとも奪ったのだと勝手に思っていた。けれど、違う。目の前の穏やかな顔を見ればわかる。現状を冷静に分析すればわかる。
クリスが所持しているはずの【マクベス】が今もウィリアムの姿を取っている。
「……【マクベス】は、わたしが君から奪ったものじゃなかった」
つまり、この異能の所持者は。
「……君が、分けてくれたものだったんだ」
今も、ウィリアムだ。
目の前の男は答えない。幼い時に見たその背は大きかった。けれど今目の前にあるのは、年相応の青年だ。クリスより幾分か年上の男性だ。
いつの間にか、クリスだけが成長してしまった。
そっとウィリアムから手を離す。頭を撫でていた手が、離れていく。ぬくもりが消えていく。
「……【マクベス】はわたしが使うには強すぎる。強すぎる力は不幸しか呼ばない。そうじゃなくても……わたしは、君を使いこなしたくない。だから、本当は安心してたんだ。わたしが【マクベス】をあまり使えない事実に。そして、君が今もウィリアムの姿を取っていることも」
クリスはウィリアムを見上げた。穏やかに微笑み続ける彼は、何も言わず、ただそこにいる。その面影に、覚えのあるぬくもりに、眼差しに、泣きそうになる。しかしクリスはただ微笑んだ。すがりつくことも共に歩む未来を望むこともできない、永遠に手に入らない希望。
これは、幻だ。
「……都合の良い願い事を聞いてくれる?」
近くに落ちていたナイフを掴む。手の震えはなかった。
「今夜はきっと、神様がくれた奇跡の夜だ。ホーソーンなら『神からの試練』って言うのかもしれないけど、何だって良い。――ずっと憎んできたものがある。疎んできたものがある。今夜は、それを、殺せる。君と一緒にそれを成し遂げられる。……わたしは、君と一緒に生きたかった。今夜ならその願いすら叶えられる。だからね、ウィリアム」
握り込んだナイフを、クリスは構えた。
「もう一度、わたしに殺されて欲しい」
答えはなかった。
ナイフを手に、クリスはウィリアムの胸へ飛び込んだ。心臓を真っ直ぐに突き刺した刃先が、彼の胸元に光っていた赤い宝石を壊す。パキン、というその音は、何かの終わりを感じさせた。その音をかき消すように、ナイフを強く押し込める。
頭を誰かの手が撫でてくれた気がした。
サラ、と異能の姿が薄らいでいく。風に壊される砂城のように、細かな光は霧の中へと溶けていく。白と金の入り混じるそれの中で、クリスは顔を伏せたままナイフを下ろした。
見上げれば綺麗な星空のように塵が輝いていることなど、星のような輝きがクリスを見守るように見下ろしているだろうことなど、わかりきっていた。