第2幕
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バタン、と勢いよく喫茶の扉が開かれたのは、盗聴器の中から空気の泡がまだ漏れている時だった。
「太宰!」
国木田が怒りしか含まれていない声を上げながら飛び込んでくる。ぐるりと店内を見回し、目的の人物がいない事実にさらに苛立ちを募らせた。
「くそ、逃げられたか……もう一度発信器の信号を探らねばならんな」
「太宰さんを探しているんですか?」
耳にかけていたイヤホンを外し、立ち上がる。声をかけると、国木田は初めてクリスの存在に気付いたようだった。驚いた目がこちらを凝視する。
「ミス・マーロウ」
「クリスで構いませんよ」
くすりと笑いかけるも、彼の眉間のしわは以前深いままだ。太宰相手にそこまで真面目にやり合うなど、この人はその後その身に降りかかる苦労を予期できないのだろうか。それともそうせざるを得ないほど真面目な性格なのだろうか。
「失礼、クリス。太宰を見なかったか。太宰というのはあの日川辺で仕事を放り出して一人のうのうと寝ていた迷惑な包帯男のことだ」
「大丈夫です、太宰さんがどなたかというのはわかっていますよ。――先程わたしを強引に店に引き入れてお茶をした後、『国木田君が来てもここにいなかったと伝えておくれ』と言ってどこかに行きましたが」
あの時「わかりました」とは言ったが「そう実行します」とは答えていない。
クリスの返答により国木田はさらに怒りを増大させた。もはやいつ爆発してもおかしくはない。そんな国木田へ、クリスは呼びかけた。
「国木田さん」
「何だ」
「お茶、しませんか?」
クリスの申し出に国木田はかなり驚いたようだった。数度瞬きを挟み、けれど数秒間同じ姿勢を保ち続ける。太宰と違い、女性から誘われるということに慣れていないだろうことが窺えた。思った以上に扱いやすい相手かもしれない。
クリスには、この愚直で純粋な男性を道具として扱う以上の気はない。
「少しお疲れのようですし……先程太宰さんとお話できたので、今度は国木田さんとお話してみたいなと思ったんですけど」
言い、そっと微笑んでみせる。
「少しで良いんです。その後、わたしも太宰さん探しをお手伝いしますから」
無論手伝う気はない。太宰の居場所など既にわかっているからだ。国木田の様子を見つつ、クリスは後ろ手でイヤホンをポーチの中に隠す。その機械からは、太宰に仕込まれたと同時に仕込み返した盗聴器からの鼻歌まじりの音声が聞こえてきていた。どうやら彼は目的もなく街をぶらついているらしい。鋭いようなそうでないような、わかりにくい人だ。
しばらく考えた後、国木田はクリスの前の座席――数分前に太宰がいた位置に腰を下ろした。注文をしようと女給を呼び、太宰が自らの珈琲代を国木田へツケたことを知り全身に怒りの炎をにじませる。
が、経験豊富さ故か空咳一つで平静さを取り戻し、国木田はクリスへと向き直った。
「……失礼」
「ご苦労されていますね」
「ああ。特に太宰にはよく仕事を放り出す。奴の尻拭いは予定に入っていないんだがな」
ぶつくさと文句を言う国木田に適当に相槌を打つ。この状態では何を言っても火に油を注ぐだけのような気がした。
当たり障りのない話をしているうちに、珈琲と紅茶が運ばれてくる。本日二杯目だが、美味しいので問題はない。そっとカップを持ち上げつつ、さりげない様子で話題を変える。
「今皆さんは虎探しをされているんでしたっけ」
珈琲に口をつけつつ、国木田が頷いた。
「ああ。太宰に聞いたのか」
「はい。虎と鬼ごっこをしてみたいと言ってましたけど」
さらりと言うと、ピキリと国木田の眉間のしわが増えた。後々の太宰への対応が楽しみだ。
仕事を何だと思っている、と拳を握る国木田に、他人事のようにのほほんと微笑む。
「仲が良いんですね。国木田さんと太宰さん」
「自分が頼んだ分の珈琲代すら支払わないような奴と仲が良いなどという冗談はやめていただきたい。奴とは業務上一緒に行動する機会が多いだけだ」
「業務といえば、虎探しのようなお仕事もあるんですか?」
「稀だがな。仕事のそのほとんどは異能力を必要としたり、異能者を相手にしたりする危険なものばかりだ。おそらく今回の虎も凶悪なのだろう」
「……危険、ですか」
僅かに声を低めれば、国木田は眼鏡を押し上げて「ああ」と言った。
「危険だ。命の保証は、我々にはない」
そうだ。異能を使った仕事というのは、命のやり取りが隣で行われる世界で生きるということだ。
知っている。
身をもって、知っている。
「……怖くはないのですか」
「怖いか、と訊かれれば、怖いと答えるのが正しいだろう。しかしそれを差し置いても行動せねばならない。それが我々のすべきことだ」
「すべきこと、か」
そっと胸に手を当てる。
恐怖よりも命よりも先んじる、使命。
国木田にはあって、クリスにはないもの。
クリスにとってこの命以上のものはない。なぜなら、この身を害されれば全てが破壊されるからだ。この身が利用されれば、全てを赤い荒れ地に変えることができるからだ。それは事実だった。誇張でも、嘘でもない。否定することも拒むこともできない。
これが夢で、自分もどこかのヒーローのように己を投げ出して誰かを救いに行けたのなら、自分のことをどれほど誇らしく思えただろうか。
――目を逸らすな、クリス。
思い出した高慢な声を掻き消すように頭を振る。「どうした」と訊ねてきた国木田に「いえ」と答え、クリスは目を伏せたまま胸元の手を握りしめた。
「……そういうの、素敵だと思います。わたしにはそういうことができないから……演劇をしたいと思って劇団にいるだけの、浅はかな人間ですから」
「だがあなたの舞台は素晴らしかった」
「え?」
思わず顔を上げる。突然目が合ったことに驚いてか、国木田はすぐさま顔を背けてしまった。
「い、いや、一個人としての感想だ。……あなたが舞台に現れた瞬間、舞台が舞台に見えなくなってな……何と言うか、床も天井も何もかも、洋風の屋敷の一室のように見えた。正直あなたが主演の一人だったことにすら気付かなかった」
「目の前のわたしは地味ですもんね」
「そういう意味ではない、勘違いをするな、そうではなくて、その」
からかえば、国木田は慌てて否定してきた。太宰が事あるごとにちょっかいを出すのも仕方がないとさえ思う。国木田の反応は面白い。
「……あの時、確かに俺は観客ではなかったのだ。夢の中にいるかのようだった、と言えば良いのか……奇妙な感覚だった。舞台が終わったことに気付くのすら時間がかかった……いや、すまん、何が言いたいかというとだな」
しどろもどろになる国木田の言葉を、クリスは黙って待ち続けた。
「……あれは浅はかな人間ができるものではない。努力と信念があなたにはある。だから、そうだ、浅はかなどと思う必要はない。あなたの舞台は素晴らしかった」
この人は、とクリスは国木田を見つめる。
この人は、本当に純真な人なのだ。人を疑わず妬まず、努力を認め、正しい評価をしようと試みている。その真っ直ぐな言葉を自分にも他人にも向け、一人振り向きもしないまま、自分の信じる道が目の前に延々と続いているものだと錯覚している。
――強く、無邪気で、絶望を知らない愚かな人。
「……ありがとうございます」
クリスは微笑む。
けれどその胸の内は冷え切っていた。