幕間 -DEAD APPLE-
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***
会議室を出て行くクリスの背を、国木田は見つめ続けていた。扉が完全に閉まった後、手元の資料へと目を落とす。
人の良さそうな明るい青年の顔写真が写っていた。英国国籍の軍人で、物体の温度を変える異能者と共に建物ごと爆破され、死亡したらしい。現場は溶けた鉄に覆われ、肉塊すらも煮沸しきって欠片も残っていなかったという。この資料を見た後のクリスの様子を思い出し、国木田は眉を潜めた。
衝撃、悲しみ、そして――憎しみ。いつも笑っている彼女は、最近、国木田達に感情の起伏を見せるようになった。それは喜ぶべきことなのだろう、彼女が心を許してくれているということなのだから。しかし、と国木田はため息をつく。
一瞬だけ、しかし確実に一瞬、国木田はクリスに恐怖した。その冷たい眼差しに、その底に燃える青い炎に、身が凍った。その動揺が伝わってしまったのか、彼女はすぐさまいつもの笑顔を向けてきたが、それを見て思ったのは安堵ではなく後悔だ。
彼女はそのままの自分を国木田に見せてくれるようになった。そう願ったのは国木田自身だ。ならば、全てを受け入れなければならないはずだった。一瞬でも拒んではいけなかったのに。
「どうしたんだい、国木田」
席を立とうとしていた与謝野が声をかけてくる。首を振り、国木田は手元の資料と机の上の資料をまとめ、それを与謝野へと渡した。
「これは一部です、現場写真などはパソコンにあります」
「了解」
すでに社員はそれぞれの作業に入りつつあり、会議室には国木田と与謝野しかいなかった。そういえば会議の最中に乱歩が金庫に菓子を詰め込んでいたが、何を予見したのだろう。聞きそびれてしまった。
「見た限りじゃあ自殺にしては皆イキが良いねえ。自分の腹を刺すなんて、相当の覚悟がないとできないよ」
「クリスも言っていたが、自殺にしては妙な点が多い。精神操作の異能を使われた可能性が高いかと」
「精神操作、ねえ」
与謝野が思わしげに反芻する。
「そこまでして自殺させる理由があるってことかい? 他殺ではなく自殺に見せかける理由が、それも本人の異能を使わせる理由が」
「そこまでは何とも」
「まあ良いさ、妾も調べてみるし、遺体の状況から何かわかるかもしれない。国木田も頼んだよ、クリスのこと」
「クリス?」
予期せぬ名前に思わず驚きの声が出た。与謝野はちらと国木田を見上げて肩を竦める。
「これから追いかけるんだろ、急ぎなよ。案外足が速い子だから」
「別に俺は……」
言いかけ、国木田は口を閉ざす。確かに、クリスの様子はおかしかった。知り合いの死を知ったせいかもしれないが、それだけではない気がする。
――自殺?
会議室に良く響いたその声に含まれていたのは驚きだ。これのどこが自殺なのだと、彼女は言いたげだった。あの青の目にはこの事件が別のものとして映っていたのか。なぜか。
彼女は知っているからだ、この事件の全貌を、少なくとも犯人の手際を。
「……行ってきます」
与謝野に言い、国木田は会議室を飛び出した。急げば間に合うはずだ。必ず聞き出さなければならない。
エレベーターを待つ時間も惜しく、国木田は階段を段飛ばしで駆け下りた。ビルの外は明るい。良い天気だ。人々が穏やかに行き交う中を掻い潜るように走る。その背中はすぐに見えてきた。
「クリス!」
叫ぶように呼べば、一瞬遅れて亜麻色が振り返った。心底驚いたように目を見開き、クリスは国木田を凝視する。
「国木田さん?」
駆け寄り、息を鎮める。努めて低い声音で、国木田はクリスを見下ろした。
「……何を知っている」
単刀直入な問いに、クリスはふと目を細める。
「……と言うと?」
「とぼけるな。澁澤について、俺達に言わなかったことがあるだろう」
「まさか」
「あれは殺人なのか」
矢継ぎ早に尋ねる。クリスはさり気ない動作で周囲を見回し、そして国木田の腕を掴んだ。引き寄せ、囁く。
「……人が多い、移動しましょう」
低いそれは、普段の明るい彼女のものではない。青く煌めくその眼差しに、国木田はすぐさま頷いた。
クリスに誘われるがままに近くの路地へと入る。ここまで来れば、と国木田が足を止めるが、対してクリスは国木田よりもさらに奥へとゆっくり歩む。歩くというよりは進んでいるといった方が適切な気がしてくる、その夢遊めいたその動きを見つめた。
話すべき内容を脳内でまとめている、そう見える背中を見守った。
クリスが静かに立ち止まる。振り向かないままの背中が声を発する。
「……今夜です」
「何?」
向こうを向いているはずの彼女の声は、耳元で聞いているかのように明瞭に聞こえてきた。けれど聞き返してしまったのは、その言葉が短く、それでいて突拍子もなかったからだ。
くる、とクリスは半身振り向いた。ふわりと亜麻色が広がる。青の眼差しが鮮明に輝く。その光に国木田は瞠目する。
憎悪、敵意。
まるで網膜に刃を突き刺すかのようなその輝きは、激しく、鋭く、負の感情を宿していた。
見たことのない色が、光が、そこにある。
「今夜、霧が発生します」
「……なぜ言い切れる」
「特務課が探偵社に彼の捕縛を依頼したタイミングが今だった、このことからかなりの緊急事態だと想定できます。わたし言いましたよね、日本の異能特務課以外の異能管理機関はどこも、彼の詳細を知らなかったと。それどころか存在を把握していたかも怪しい。この事態が意味することを、国木田さんは考えつくことができますか」
毒のある言い方だった。まるで国木田には思いも及ばぬだろうと決めつけているかのような。しかしその毒は国木田へ向けられたものではない。
彼女は、国木田を前にしながら、別のものへとその感情を向けている。彼女がそこまで憎む相手は何だ。彼女がこれほどまで冷ややかに言い放つその感情の根源は何だ。
「国ですよ」
ようやくクリスは笑んだ。
「国が、日本という国が、澁澤さんを隠したんです。おかしいとは思いませんでしたか? 日本の異能特務課だけが澁澤さんの名を、顔写真を、年齢を把握してあるというこの現状。世界には日本を上回る捜査機関が山のようにあるのに、なぜ澁澤さんの姿すら、誰も捉えることができなかったのか」
「……特務課が、奴を世界から秘匿していたと?」
そんなはずがない。澁澤は危険な男だ。異能者を自殺に追い込んでいる。特務課が、国が彼を擁護する理由がわからない。戸惑う国木田はクリスは両手を広げる。さながら舞台の上の主役のように、彼女は微笑む。
「簡潔に話しましょう。事態は差し迫っている。――澁澤さんの異能は『他者の異能力を分離し結晶化する』。だからコレクターと呼ばれているんですね。彼は異能を集めているのでしょう」
異能力の分離。国木田は自身の胸元へ手をやる。異能力が自分から離れる。考えたこともない。異能は常に国木田の力であり、支えであり、自分の一部だった。澁澤の異能はそれを分離するという。つまり――どういうことだ。
「異能力は武器です。他者を救い、傷付け、殺めることができる刃物。だからこそ世界は異能の解明を急ぎ、あの場所はわたし達に異能の実験を施し、わたしにあの人を殺させた」
ハッと目の前の少女を見る。亜麻色の髪の少女は、激情を宿した面持ちでそこに立っている。
そうだ、彼女は。
「先の戦争では異能者が戦力となりました。異能というのは極めて厄介です、戦車で撃ち抜く前に戦車が潰される。けれどその力を分離し異能者を無力にできたのなら? ただの人間に弾丸をぶち込むだけで済みます。澁澤さんの異能は対異能者戦において非常に価値がある。だから国は手放せず、秘匿し続け、彼の行動を止めようともしなかった」
その結果が、連続自殺事件。
「だが、澁澤はこの街に潜入していると……この街で事件を起こそうとしているのではないのか」
「だからあなた方に依頼が行ったんですよ。自分達の失態で自分達の土地に澁澤さんが牙を剥いてきたから、仕方なく探偵社に自分達の尻拭いを依頼したんです。最終手段として探偵社へ出来る限り情報を削ぎ落とした資料を、責任を送りつけた。利用できるものを利用する、手に負えなくなったら切り捨てる、それが国というものですから」
国、という単語をクリスはこれ以上なく敵意を込めて言い放った。その青に息が止まる。身動きが取れなくなる。少しでも動いたら、殺される、そう思わせる緊迫感がここにある。
暗闇の中で光るその色はいつも鋭く、しかしどこか悲しげでもあった。なのに、今は、これほどにも――禍々しい。
彼女は憎んでいるのだ、自らの運命をもてあそび、友人に死を与えることとなったその存在を、その権威を。その憎しみを、怒りを、国木田は聞いている。知っている。本来ならば彼女のその意思を尊重し、彼女の受けてきた悲劇に同情しなければならない。それが、目の前で悲しみに咽ぶ人へ向ける最適な態度なのだろう。
わかっている。
それでも。
「……奴の現れる場所や時刻はわかるか」
「真実を知ってもなお、あなたはこの依頼を受けるんですか」
国木田へ、クリスは問う。その問いに、国木田は頷く。
「ああ。社長がそう決められた。何より、俺がそれを望んでいる」
「なぜ」
「俺達は武装探偵社だからだ。民を助け、悪を討つ。そこに誰の意図が絡んでいようと、救うべき命があるのなら迷いはしない」
睨み付けてくる少女の目を見返し、強く見つめる。この目に覇気があるように、威圧があるように、福沢のような気迫があるように、願う。
緊迫した路地は沈黙を落とし、身動きすら許さない。その中で、クリスはふと瞬きをした。青に緑が混じる。
ふ、と少女は気を緩める笑みを零した。
「……あなたのそういうところが好きですよ、国木田さん」
先程までの張り詰めた空気が残る中響いた声は柔らかく、儚く、耳に馴染んで溶けていく。
「あなたの真っ直ぐさには驚嘆するばかりです。いっそ好ましい。わたしはもう、この世界の何かを恨まないと生きていけないので。今は特に……少々気が立っていますし」
「クリス……」
「国木田さんの強さが羨ましいです。探偵社の強さ、と言うべきかもしれませんね」
クリスが笑う。穏やかで寂しげな、叶わぬものを焦がれる表情。それへと国木田は首を振ってみせる。
「強いのではない。強くあろうとしているだけだ。真似ているだけだ。……羨ましいというのなら、真似てみれば良い。この場合重要なのは、できるかどうかではなく、するかどうかだ」
「"To do, or not to do."か」
軽やかに呟き、彼女は目を閉じた。胸元に両手を添え、そこにある何かを抱きしめるように佇む。先程までの禍々しさはない。ようやく国木田は息を吐いた。今になってやっと肺が吸気を受け入れた気がする。
クリスの負の感情は、仕草は、表現は、あまりにも強烈すぎる。舞台の上ではないというのに意識が飲み込まれそうになる。一挙一動に緊張が走り、身動きが封じられ、声が奪われる。畏怖、という単語が合うのかもしれない。
――観る者聴く者全ての魂を奪う。
まさに、それだ。
国木田の様子に気付くことなくしばらく何かを考えた後、クリスは改めて国木田に向き直った。
「霧の発生源を特定してください。そこに澁澤さんはいるはずです。わたしの異能なら、霧を吹き飛ばせる。わかり次第連絡をください」
その青はいつもの、聡明な眼差しだ。
「その間に……風を浴びて頭を冷やしてきます。あなたと話をしていたら、少し、希望が見えてきました」
「希望?」
「怒りや憎しみがなくても生きていける……そういう人が実際にいる。この事実は、あなたが思っているよりもずっと重大なんですよ、国木田さん」
クリスが微笑む。喜びというよりも、太陽の眩しさに目を細めているかのような微笑みだった。