第1幕
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[Act 1, Scene 12]
空の青は砂埃に薄らいでいた。幅広の路面にも砂が積もり、その上を戦車が通っていく。太いタイヤが巻き上げた砂は風に乗り、石を切り出した塀に囲まれた集落へと落ちていく。
塀の中では石を積み上げた家々が並んでいた。どれも砂を被り、窓には砂避けの麻布がかかっている。独特の情緒のあるその街並みに、一つ大きな建物が建っていた。三角に尖った屋根に、派手な塗装の壁。入り口には豪奢な厚布がかかり、その布をくぐって出てくる人々の列は絶えない。薄手の布を頭まで被った彼らは、その下からわかるほどに晴れやかな顔で笑い合っていた。まるで心安らぐ何かを見たかのように。
その表情達を眺める影があった。三つ並んで、それは建物の影から人々を見守っている。
「皆嬉しそう!」
人々と同様に薄布を被った少女がぴょんと跳ねた。
「舞台は成功だね!」
「ふふ、良かった」
もう一人の少女が布の下で笑う。その身を覆う布は他の人のものより黒に近い色をしている。風避けとしての役割しか果たしていない人々のそれとは異なり、まるで光の全てを避けるように布を被っていた。その顔はその濃色に隠されていてよく見えない。
「様々な役を演じ切る詳細不明の少女、その多彩な姿はまさしく虹そのもの――まさかこんな場所で本格的な役者の演技が見れるとは誰も思ってなかったよー」
満面の笑みで少女が言った言葉に同意するように頷いたのは、彼女らと同年代の少年だ。
「今も紛争は終わってないからね、あの塀の外に僕達は出られない。隣街に行くのもままならない中で演劇なんて誰も興味を示さなかった。それが、虹姫の登場でとうとう日の目を見たわけだから」
「あー良いなあ、素敵な呼び名がついて。色鮮やかな演技力、これぞまさしく人の姿を得た虹水晶。良いなあ」
「つけてくれたのは観客の皆だし、わたしを舞台に上げてくれたのは劇団の皆だよ」
アイリスと呼ばれた少女は穏やかに笑む。
「知らない場所でどこまでできるかわからなかったけど……君達が受け入れてくれたからわたしは役者として舞台に立っていられるんだ。感謝してるよ」
「あんな舞台を見せつけられて受け入れないわけないじゃん! 演技を超えた演技だよ! まるで登場人物本人そのもの! アイリスの舞台を見てると、一緒に舞台の上にいる私達ですら物語の中に入ったみたいな気分になるんだよね!」
少女が跳ねるようにアイリスの顔を覗き込む。
「それに、一緒にいてとっても心地良いの! 優しいし、笑顔が素敵だし、これ以上ないくらい理想的な女の子だよね! あー羨ましい!」
「そ、そうかな」
戸惑うアイリスの横で少年が頷く。
「君は騒がしすぎるもんなあ」
「何よ文句ある?」
「ないない、ありませんよお嬢様」
「あーもうそういうところがムカつく!」
少女がポカポカと拳を少年に叩きつける。ごめん、ごめんって、と少年は苦笑いしながら少女に謝った。じゃれ合う二人に、アイリスはクスクスと笑う。
「二人とも仲良いなあ」
「幼馴染だからね。小さい頃から知ってるよ」
少年の言葉に少女が頷く。
「ずっとよ、腐れ縁ってやつ。そもそも十四年前までの大戦をまだ引きずってる地域だから、街の外なんて出られるわけもないし、街の外から人が移住してくるわけもないから、街の人は皆顔見知りの幼なじみってわけだけど」
二人の視線を追い、アイリスもまたそちらを見遣る。人々が行き交う街の背後、そこに立つ石の塀。行く手を塞ぐように立つその向こうからは時折、爆撃音や銃撃音が聞こえてくる。
それはこの街を守る壁だった。戦場と居住区を明瞭に区分する石の建築物。しかしそれ以上の意味はなく、街を攻撃してはいけないルールは明文化されていない。
あの壁は、見せかけだけの防護壁なのだ。
それを見上げながら少女は言う。
「いつ街の中に爆弾が落とされたっておかしくないわ。現に過去に何度も爆撃されてる。あたしの父さんもそれで死んだ。……でも、ここがあたしたちの街。この生活が嫌になったことなんてたくさんあるけど、そんなあたしを惨めさから救ってくれるのが舞台だった」
くるりと振り返り、少女はアイリスへ向き直る。思い詰めるように遠くを見ていたアイリスがその視線に気がついた。そんなアイリスに、少女はにっこりと笑いかける。
「演劇を見たり演じたりすると、その間だけ幸せになれるの。翼を生やして空を飛んだり、お菓子を宙から出したり、そんな非現実的なことを叶えるような、そんなわくわくした気持ちになれる。もちろん今のこの環境が嫌いってわけじゃなくて、とは言っても全部大好きってわけでもないんけど」
「言いたいこと、わかるよ」
アイリスが少女に頷く。
「……演じていると、辛いことも悲しかったことも夢だったのかなって思えるんだ。そんなの嘘だって、ただの現実逃避だってわかってる。けど、好きなんだ、舞台が」
「あたしも舞台が大好き!」
「僕も大好きさ」
三人は顔を見合わせ、そして同時に笑い出した。軽やかな声が街に響き渡る。道行く人々が三人を見て笑みを深めた。
「そういえばアイリス、脚本を書く許可が出たんだって?」
ひとしきり笑い終わった後、少年が笑みを残しながらアイリスに訊ねた。うん、と頷いた彼女に、少女が「凄いなあ」と感嘆の声を漏らす。
「演じるだけじゃなくて脚本もだなんて!」
「脚本は友達のだよ」
苦笑しながら否定したアイリスに、少女は目を丸くした。
「友達?」
「そう。劇作家になるのがずっと夢で……でも死んじゃったんだ。だからその人が自分で作品を発表することはできなくて」
「そっかあ」
まるでよくある話のように少女は相槌を打つ。
「だから代わりに夢を叶えてあげるってことね、素敵」
「素敵、なんてものかはわからないけど」
「素敵よ、ねえ?」
「うん、素敵だ」
幼馴染に同意を求められ、少年もまたアイリスに頷いてみせる。
「僕達は自分のために生きるので精一杯だからね、友達のことを考えて、友達の夢を叶えてあげようとするのは凄いことだと思うし素晴らしいことだと思う」
「……懺悔なんだよ」
アイリスは僅かに口の端を上げた。
「わたしのせいで死んじゃったから……あの人の脚本を演じて、あの人の名前が劇作家として有名になったら、あの人が生きていた証になるから。あの人のことを忘れずに済むから。……結局、わたしのためなんだよ。あの人の脚本を演じて、あの人のことを感じていたい。忘れたくない。だから、わたしはあの人の作品を世に出したい」
「大切な人だったんだね」
少年が微笑む。それに微笑みを返し、アイリスは頷いた。そんなアイリスに少女は首を傾げる。
「じゃあ何でこの街に来たの? こんな紛争地よりニューヨークとかシドニーとかの方がアイリスには合ってるんじゃない? 数年前には日本のヨコハマってところにも劇団ができたって聞いたし、こんなところより安全で栄えてる場所の方が良いと思うけど?」
「それは」
答え方に困ったように、アイリスは口を噤んで下を向いた。布に顔が隠れる。不思議そうに少女がそれを覗き込もうとした、その時だった。
――ビーッ、ビーッ、ビーッ!
けたたましいサイレンの音が街を覆う。ビクリと三人は肩を震わせた。
「空襲だ」
少年が目を見開く。
「どこかの国の爆撃機がこの街に近付いてる……!」
「逃げなきゃ!」
空を見上げながら、少女と少年は共に駆け出した。行く先は近くの建物、劇場だ。この街の建物はどれも地下室がある。紛争地であるが故の作りだった。
しかし二人は足を止めた。二人のそばを人が駆けていく。警報は鳴り止まない。
二人が振り返った先で、アイリスが立ち竦んでいた。黙って空を見上げている。
追いつかれた、とその唇が動くのを、少女は見た。布に隠された顔が恐怖と驚愕に染まっているのも。その視線の先、青空の中に黒い点がこちらに向かって来ている。
爆撃機だ。
「何やってんのよ!」
少女が叫ぶ。
「早くこっちに!」
「……ごめん」
騒ぎが拡大している中でも、その声は明瞭に聞こえた。
アイリスが振り向く。風に煽られ、布が彼女の頭部から外れる。
亜麻色の髪が、風に揺れた。
その下で、彼女は。
「……今までありがとう」
優しく笑っていて。
「……え?」
呆然とした少女に背を向け、アイリスは再び空を見上げた。爆撃機が急降下してきている。徐々に拡大していくその側面に描かれた――ユニオンジャック。
「英国……?」
それは自国の味方でも、敵方の援軍でもない。見たことのない勢力が、街へと向かってきている。その両翼の下から光と爆音が連続する。
いくつもの弾丸が、街へと降り注ぐ。