第1幕
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***
街の広範囲が野原と変じた事件はさすがにもみ消すことはできなかった。が、情報統制を行った結果、真実を曲げた報道が街を駆け巡り、ギルドが疑われるような事態を避けることに成功している。
「情報統制に苦労しなかったのは良い点だな」
言い、フィッツジェラルドは椅子に背を預けた。机上に広がる何枚もの資料を横目で見、ため息をつく。
「目撃者はクリスが全員消している」
「まさかこうなるとは……」
机を挟んで佇むオルコットが目を伏せながら声を震わせた。
「……クリスさんは大丈夫でしょうか」
「さてな」
――わたしは、幸せになりたいだけなのに……!
数日前の少女の叫び声が聞こえるような気がした。幸せとは、何だ。利益を手にすることだ。望むものを手に入れることだ。彼女は力を手に入れ、危機を排除し得る異能力者となった。彼女はこれからもっと強くなれるだろう、あの事件はその片鱗があった。喜ばしいことだ。だのに彼女は泣き叫んでいた。
彼女は何を望んでいる。それは本人にしかわからない。他者が知る由もない。だが幸福だと思って与えていたものを拒まれては、こちらも考えるというものだ。
ノックが扉から聞こえてきた。誰かを呼び出した記憶はない。何かの報告か。入れ、と声をかければ、扉はゆっくりと開かれた。
その奥から姿を現した予期せぬ人物に、フィッツジェラルドは息を呑む。
「……クリス」
真っ直ぐな青の目を向けて、彼女はそこに佇んでいた。狂乱していた時の姿は欠片も残っていない。あの日以降部屋にこもっていた彼女は、事件の後だということを忘れさせるような気高さを宿していた。
青が緑を孕んだ刃先となってフィッツジェラルドを見つめてくる。
何かを決意した少女がそこにいた。
「……オルコット君、外したまえ」
「え?」
戸惑うオルコットへ目を向ける。無言の指示に、彼女は慌てて頭を下げた後部屋を出て行った。扉の奥でクリスとすれ違う一瞬、オルコットは何かを思うようにクリスを見つめる。けれどクリスはフィッツジェラルドから目を離すことはなかった。決然としたクリスに、気弱なオルコットは何も言わないまま部屋を後にする。
ゆっくりと一歩ずつ、クリスは部屋に入ってきた。
「珍しいな」
無言のまま机の前までやってきた部下に、フィッツジェラルドは声をかけた。彼女は軽く目をすがめて、上司を見つめる。見たことのない表情だった。クリスはギルドで様々な感情を知り、その表現方法を知った。けれど、これは何だ。
何かを知り、そして決意したかのような、希望を秘めた絶望。
「……話がある」
「そうだろうな。君から俺に会いに来ることはまずない」
「フィー」
フィッツジェラルドの声を遮るように少女は呼んでくる。
「――わたしは、ギルドを抜ける」
少女は窓の光を受けていた。白い肌が輝く。亜麻色が金を彩る。青が、緑が、ガラスよりも美しく透き通る。
湖畔がそこにあった。さざ波の立たない、無風の光景。立体的な一枚絵。
「とんだ冗談だな」
両手を広げ、フィッツジェラルドは肩をすくめた。
「ショックが大きすぎたか? もう少し休んでいても良い、君の功績は十分すぎるほどだ。休みをやっても良いかと思っていてな」
「わかったんだ。わたしには舞台の上にいなきゃいけない。そう約束した人がいる。何より、わたしが望んでる。けどそれはここでは叶えられないんだ」
「現実から目を逸らしたか」
低めた声にようやくクリスは唇を引き結んだ。
「……違う。知ったんだ、わたしがどんな存在かを、わたしが生きるには誰かが死ぬしかないことを。そうじゃないって言ってくれる人を、場所を、ずっと探してた。けどどこにもなかった。じゃあ、わたしはどうすれば良いかって考えたんだ」
言い、クリスはそっと手を差しのばしてきた。その手にあったものは、ナイフ。
刃先がフィッツジェラルドへと向けられる。
「フィー」
凪いだ静かな湖をその目に宿しながら、彼女は波紋を水面に落とす。
「わかってはいるんだ。ここにいた方が身の安全は保障される。フィーの権力でわたしは他国から捕縛されることはないし、フィーの実力でわたしは他人から略奪されることはない」
クリスの無表情は強く険を灯す。
「けど、行かなきゃいけない」
「舞台に憧れたか。……確かに君に秘められた力は魅力的だ。だがそれだけではないぞ、クリス。君の演技も歌も、天性ものだ。だからこそ手放すつもりはない。それは俺だけではなく、世界各地の人間が君を知れば自ずと抱く感情だ。劇場の支配人のようにな」
「……知ってたんだね」
「俺を何だと思っている。――俺は君をそういった輩から守ることができる。だがそれは手元にある時だけの話だ」
椅子の背もたれから背を離し、机の上に両肘をついて指を組む。ナイフの刃先が眼前に迫る。それを気にすることなく、フィッツジェラルドはナイフを構える少女を見上げる。
「……どこへ行くつもりだ? クリス」
「どこへでも」
少女は声を低めて答える。
「夢の叶う場所なら、どこへでも」
「なら俺達も同じだ。どこへでも、君を取り戻しに行く」
夢、と彼女は言った。けれどフィッツジェラルドには少女の奥底に別の思いがあることを見抜いている。夢を叶えるためにギルドを離れるのだというこの少女の言葉が本当なら、まず一番にすべきは「やっぱり劇をしたい」と一言フィッツジェラルドに伝えることだっただろう。そう言われたのなら、フィッツジェラルドはあの劇団以外の場所をクリスに与えていた。この手に掴んだ財と権力は底がない。乞われれば何だってできる。
けれど、彼女はそうしなかった。舞台に立つのが夢だというのに、彼女はそれを優先していない。別の何かがあるのは明白だった。
「クリス」
名前を呼ぶ。大切な友人からもらったというその名を、呼ぶ。
「君は俺の庇護下でないと生きていけない子だ。夢なら俺が叶えてやる。だから考え直せ」
「無理だよ」
クリスは静かに首を振った。そう言われることをわかっていたようだった。
「君のやり方に、わたしはもうついていけないんだ。それにわたしの夢は、君のそばでは叶えられない」
「舞台に立つことか」
「舞台に立って、誰かを幸せにすることだ」
幸せ。
幸せか。
「……君にとっての幸せとは何だ」
尋ねてみたかったのは、彼女が何を求めているかを知りたかったからだ。あの昼下がりの穏やかな野原の中で慟哭していた少女が何を欲しているかを確かめたかったからだ。
クリスはその真っ直ぐな眼差しのまま黙り込む。ぽつり、と雨水のように言葉を零した。
「……わからない。わからないけど、ウィリアムのいたあの場所でわたしは確かに幸せだった。あの場所では、わたしの周りにいた人は皆笑ってくれたから。それが嬉しかった。だからね、フィー。わたしにとっての幸せは、きっと笑顔なんだよ」
そう言って彼女は――微笑んだ。
初めて見る表情にフィッツジェラルドは息を呑む。
幼さの残る少女が浮かべた微笑が窓からの日差しを柔らかく受ける。ゆるやかに弧を描く唇、目元に落ちるまつげの影、その下で透き通る――緑に縁取られた青。
美しい少女が、そこにいる。
「わたしの異能も夢も、誰にも利用させない。君にも、あの国にも。そのために、わたしはここを離れるんだ。もう欲しいものは手に入ってる」
「……欲しいもの、だと?」
「君がくれたもの」
ナイフを手にしたまま、少女は言う。
「身を守る方法、異能の使い方、世界の敵意、皆の優しさ。幸せとは何か、わたしは何か、何ができるか、何をしなきゃいけないのか、そして、どうすれば誰を幸せにできるか。……フィーの言葉は嘘じゃなかった。君は確かに、わたしに利益をくれた」
「心外だな、俺は嘘を言わん」
「へえ、知らなかった。散々騙されてきた気がするけれど」
「それが恩人に対する言葉か」
「これでも感謝はしてる」
軽口に似たやり取りにフィッツジェラルドは口の端を上げた。これが、あの埃に汚れた子供の姿か。死に怯え、罰に怯え、フィッツジェラルドに神よと縋ってきた子供か。
彼女は成長した。その目は死を知っている。そして幸せを知っている。幸福を求めれば彼女の周囲には死が量産されることも、彼女はわかっている。
それで、この選択か。
「君の異能力、声、そして君自身。どれを取っても捨て難い。捨てる気などない。だから仮に君がギルドという場所を離れて自由を得たとしても、俺は君の目の前にまた現れるだろう。俺だけでなく、俺と同様に君に囚われた数多の略奪者も、君の故郷も、何度も君を追い、襲うだろう」
ここにいれば安全は確約される。ギルドを離れた後、彼女は理解するだろう。自分一人の力ではその小さな背に背負った夢すらもろくに叶えることができないということを。
彼女の背負っている運命は彼女一人では抗いきれない。それを、彼女はまだ理解できていない。
ならば理解させれば良い。世界が刃を無限に埋めた大地だと知れば、ギルドだけがこの少女を守れる唯一の盾だとわかれば、彼女は必ずギルドに戻ってくる。人とはそういうものだ。夢に焦がれて鳥籠を飛び出しても、飛び続けることの難しさを知り、結局は安寧を探し始める。
「それでも行くか、クリス。脅威が迫る恐怖は、脅威の中に留まるよりも過酷だぞ」
「ああ、行くよ」
クリスは答えた。何も知らない無垢の声は、歌を紡がせればきっとどこまでも美しく響いていっただろう。何も考えず、死体など気にすることなく歌い続けていれば、生き残った誰かが褒め称え歓声を上げて彼女にお望みの笑顔を向けていただろうに。
弱者が強者となるには、弱者とは何かを知らなくてはいけない。夢を追わせるのも悪くはないか。今回の事件で英国はギルドへの手出しを控えるだろう、クリスが至急必要になる事態はまだ先になりそうだった。
「そうか」
言い、フィッツジェラルドは目を閉じた。光が差し込んだ青を、その輝きを受けて色味を増した緑を思い出す。
――わたしは、君の友達になれる?
「……君とはずっと共にいられると思っていた」
返事はなかった。クリスの、背を向けて歩き出す気配。足音が遠のいて行く。
やがて、沈黙が部屋に満ちた。