第1幕
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[Act 1, Scene 11]
街を走っていた。ただひたすら、走っていた。楽しげに街を行き交う人々の中を掻き分けて走り続ける。行き先なんて考えていない。ただ、走っていた。
――森の中を走った記憶が重なってくる。丈の高い草を掻き分けて、その葉に皮膚を切られながらただ走って、高く伸びた木々の間を真っ直ぐに走って、たまに木の根に足を躓かせて。熱い息が口からとめどなくあふれ出て、息を吸うことができなくて、溺れるように息を継ぎながら走った。
どうして。
嫌だよ。
嘘だと言ってよ。
目の前に霧散した赤色を思い出すたびに、周囲を漂う小さな光を見るたびに、叫び声が空気のなくなった肺から外へ出ようと足掻く。
あの時の息苦しさが、喉を締め上げている。
「……ッは……!」
――唯一君が心を痛める必要のない人間が集まる組織がある。それがどこか、わかるな?
高慢な笑みが、近くにいる。
――君にとって彼が友だというのならそれだけが事実だ、その生死は君に関係ないだろう。それに拘るよりも友だという真実を思い続ける方が何倍も有益だ。
真っ直ぐで偽りのない本心が、突き刺さってくる。
――来い、雇ってやる。
差し伸ばされる手を思わせる声が、聞こえてくる。
覚えている。
全てを。
そして理解している。
彼こそが、自分を脅威から守ってくれる唯一の人であることを。
だから、戻らなくてはいけない。この街にあの国が迫ってきている。一人で行動してはいけない。そんなことはわかっている。けれど走り続けていた。何かを振り切るように走り続けていた。
一瞬。
――ゴオッ!
頭上を爆音が通り過ぎた。
「――ッ!」
バッと顔を上げる。そこにいたものに、クリスは大きく目を見開いた。
「……う、そ」
宙に浮かぶ、鉄色の機体が五つ。その横腹に描かれているのは。
周囲の人々がざわめく。戸惑いと緊張と興奮が混じり合ったものが空気を埋めていく。
呼吸が、できない。
「え、あれ英国の航空機?」
「戦闘機っぽいよね、迷彩柄だし」
「こんな街中にどうしたんだろ」
声が耳を塞いでいく。何重にも重なった言葉が街中にあふれかえり、積もり積もった紙のようにクリスを覆い尽くしていく。足が、胴が、腕が、埋もれていく。口が塞がれる。音が遠のく。
溺れる。
「……嘘、だって、まだ」
戦慄く唇は言葉を途切れさせる。
ついさっき、英国の情報網にハッキングまでして確認したのだ、あの輸送機は数分前にこちらへ向けて離陸したばかりであることを。速度も確認している、風向き等を考えてもまだここに到着する時間ではない。
なのに、なぜ。
「……空間移動の、異能……?」
そうだ、《王国》は異能組織、それに対抗できるのは異能者だけ。あの機体には異能者が積まれているのは明白だと、わかっていたではないか。
先にギルドに機体を目撃させ、その速度を計算させ、航路や天候を加味して到着時間を予測させた。そして。
彼らは瞬間的に移動してきた。
踊らされたのだ、あの国に。
轟音を立てて機体は上空を横断していく。見せつけるように、晒すように――何かを探すように。
ぞく、と背筋が粟立つ。
「……あ、あ……」
膝が震える。叫んでしまいそうになって、口を両手で塞いだ。ひ、と息が引きつる。
――探されている。
機体は何度も上空を旋回している。《王国》の構成員の残党狩りが目的なら、《王国》の本拠地だったあの廃墟の周辺へ行き、その腹をぱっくりと開けて数多の人間を吐き出せば良い。そのための大人数に違いないのだから。
けれど。
もし、と不意に思考が何かを仮定する。
もし、彼らが――あの組織の殲滅を主目的にしてここに来たのではなかったとしたら。
「……まさ、か」
声が漏れる。その声が聞こえるはずもないのに、機体はクリスの思考へ応えを返した。くるり、とその寸胴を軽やかに旋回させてくる。
――輸送機だ。到着予想時間は明日の早朝。輸送人数は五十人程度。
違う。
全部、違う。
旋回を繰り返していた五つの飛行機のうち、一つが軌道を逸らした。ただ円を描いていただけの航空機は、何かを決したように真っ直ぐに突き進んでいく。
こちらへ。
太陽を反射したフロントガラスの向こうで誰かがこちらを見つめている。操縦桿を握った、誰かが。
わたしを、見た。
寸胴状の機体は、その見せかけだけの大きな腹をぱっくりと開けて中から細い筒を引き出した。先端の尖ったそれは、キラリと光った後、煙を上げて機体から切り離される。
「な……!」
ここは街中だ。周囲には多くの人が空を見上げている。
多くの、人が。
――悲鳴が上がる。空気をつんざいて、声で悲劇を押し返そうとするかのように。無意味な抵抗は宙を覆い、鼓膜を破いて轟音を掻き消す。
何も考えられなかった。
向かってくる巨大な弾丸へ両手のひらを向ける。
「――【テンペスト】……!」
呼ぶ。乞う。願う。
空を覆うように低温層、真空層、高圧層を展開、防御壁を形成。透明な氷が弾丸を食い止める。
両手の先で銃弾はギュルギュルと高速で回転していた。ピキリ、と空中がひび割れる。パラ、と破片が落ちて、地面へとぶつかって割れた。
「……ぐ……」
踏ん張った足がズルズルと地面を擦る。正面から押されるように、強い力が防御壁ごとクリスを押していた。耐え切れるか。わからない、これほど大きなものを食い止めるのは初めてだ。けれど。
ちら、と周囲を見る。恐怖に身を竦めた人々が、呆然とクリスを見つめている。願うように、乞うように、見つめてきている。
少しでも気を緩めれば彼らが死ぬ。自分も死ぬ。
――死ぬな。捕まるのも、死ぬのも、知られるのも駄目だ。お前は死骸すら利用価値がある。生きて、生き続けて、お前が実験体だったことも、実験成果であることも、全部隠し通して逃げ続けるんだ。
そうだ、自分は死ねない。捕まることもできない。生き続けるしか、許されていない。
だから。
絶対に。
生き残って、逃げ切ってみせる。
顔を上げる。襲い来る金属の塊を睨み付ける。
「……逃げて」
声を絞り出す。
「逃げて! 早く!」
悲鳴がどよめく。普通の人達は異能というものを知らない。この光景を、どう思うだろう。一人の子供が奇妙なことを叫んでいると思うだろうか。銃弾なんて幻想で、これは特撮の何かだと思っているだろうか。
何でも良い。何でも良いから。
――助けられなかった命が、脳裏をよぎる。
「逃げて、お願い、お願いだから!」
この人達だけは、救いたい。
こんなわたしでも誰かを救えると、証明したい。
ギュルル、と突き進もうとしてくる弾丸を睨み付ける。高圧層を徐々に厚くしていく。弾丸は勢いを殺すことができればただの金属片だ、低温で熱を奪って圧力で押し返せば、止められる。
皆を、守れる。
睨み付けた先で何かがキラリと光る。ひび割れた空の中で、それは時折太陽を反射させながら小さく旋回していた。航空機のうちの一つだ。何かを見定めるように、静かに旋回を繰り返している。
――何かを、見定めるように。
「……しまっ、た」
見られている。
異能を使っている姿を。
あの国に。
――目標捕捉、異能確認。検体ナンバー八八三と推測。これより捕縛作戦を開始いたします。
聞こえてくる気がする。
――素晴らしいよウィリアム君! 君は”その身をもって”理論を照明した! これで我が国は世界を支配できる!
先生の声が。
――捕まるのも、死ぬのも、知られるのも駄目だ。
ベンの声が。
「……い、や」
見ないで。
知らないで。
わたしに、気付かないで。
――パキ。
何かが、割れる音がした。
ガラスだった。透明な、ガラス。宙に貼られた一枚の壁。そこに浮かんだ歪んだ線は、弾丸の先を中心にして水面に広がる波紋のように広がっていく。同心円状の模様に、放射線状の模様が重なっていく。
パラ、と小さな欠片がガラスから落ちていく。
「……あ」
目を見開く。目の前の光景を見つめる。息を呑む。透明で歪んだガラスに、緑を浮かべた青が映り込む。
カシャン。
涼しい破壊音が街の上空に響き渡る。同時に、模様は欠片となって弾け飛ぶ。
防御壁が、割れた。
防御壁を破って弾丸が向かってくる様子を、見つめていた。両手のひらに向かってそれが飛んでくる。今更防御壁を形成しても間に合わない。
間に合わない――誰かを救うことも、自分が生き残ることもできない。瞬き一つしないうちに、この地には死体が転がっているのだ。そして彼らはここに降り立ち、一つの死体を回収する。
ただ一つの、死体を。
その事実が突然心を食い破ってくる。痛みが衝撃となって押し寄せてくる。
嫌だ、と誰かが叫んでいる。死にたくない、知られたくない。
殺したくない。誰も、殺したくない。
どうか、どうか。
強く目を瞑る。腕で顔を庇う。巨大なものが空を切りながら近付いて来るのを感じながら、願う。
強く、強く。
あの時のように。