第1幕
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クリスの活躍は目覚ましかった。ホーソーンとフィッツジェラルドの訓練により異能の行使ができるようになった彼女は、時に諜報員として、多くは戦闘員として、戦場に佇んだ。先日はとある構成員を殺害、その死を偽装し敵組織同士の抗争を誘発させた。その前には難攻不落のアジトを誇った組織をその天候操作の異能で山ごと破壊している。彼女の前では誰もが無力だった。彼女個人が襲われても、その驚異的な異能で大人数を圧する。仲間の手助けも要らない、むしろ仲間がいた方がその破壊力を存分に発揮できなくなる、孤高の戦闘員。
部下を持たない上級戦闘員として「特殊戦闘員」などと呼ばれ始めたのは最近だ。
彼女はギルド内外から恐れられた。とはいえ、彼女の存在を認識しているのはごく一部に限られる。彼女を恐れる者達の多くは、彼女の活躍に尾ひれがついた空想話を恐れていた。
クリス・マーロウ。天を支配する無敵にして無情な異能力者。それが、毎日デザートを料理人にせがみ、近くの公園で蝶を観察し、夜は一人で空を見上げ続けている少女であることなど、おそらく数人しか知らない。
一見すれば普通の子供である彼女の活躍により、ギルドは更に裏社会での勢力を強めていた。
――これで良いのだろうかと思う心は、確かにある。
夕日が水面を朱色に染める様を、メルヴィルは眺めていた。海は果てしなく広げた布地を波立たせながら、上空から下りてくる太陽を受け入れようとしている。遠くに見える橋が影を背負っていた。
昼の海も、夕方の赤い海も、朝方の薄青の海も、そして夜の黒い海も、どれを見ていても心安らぐ。ベンチに腰掛けながら、メルヴィルは波が押しては引く様を見つめていた。ざざ、と水がぶつかり合う音が途切れることなく聞こえてくる。
モビー・ディックが夕日に染まる空の中でくるくると旋回する。白い体が朱の輪郭を灯していた。輝いているようにも見える相棒の姿に目を細め、メルヴィルはふと遠くの浜辺へと視線を動かす。
そこに一人の少女がいた。海を眺めて、立ち尽くしている。闇を背負い朱色を乗せた亜麻色の髪が、海風に揺れている。
ふと、彼女は両手を広げる。誰かを説得をしているようだった。何かを訴えようと、虚空に叫んでいる。それは叫びのようでいて、歌のようだった。強く吐き出した声に乗って空気を震わせていく、言葉の連なり。
「……彼女は演劇をやめたのだと思っていました」
ホーソーンがメルヴィルの背後に立つ。
「初演の日以降、劇場の練習に参加していないと聞いていましたから」
「ずっとここで練習しておったよ。儂にも言わずにな。……誰にも言わず、ただ一人でずっと、儂の知らぬ物語を演じ続けておる」
「異国の物語ですか」
「いや」
目を細める。
「……粗削りの物語じゃ。しかし言葉選びが長けておる。そして物語の構築……ただ一つの結末に向けて駆け抜けていく、若いが一途な内容じゃな」
「ただ一つの、結末……」
「彼女もまたそうであろうな」
クリスは夜を前にした海を観客としているかのように、波打つ水面に声を張り上げ、訴えるように手を伸ばす。
その手が掴もうとしているのは。
あの眼差しが求めているものは。
「その結末が幸か不幸かは、儂にも彼女にもわからん。この世の誰にもわからんじゃろう」
「……彼女は幸せになれますか」
「さてな。あの身の上では、普遍的な幸福は無理に近いであろうが……じゃが、願うことはできる」
「あの子ったらこんなところにいたの」
呆れたようにベンチの横へ来たのはミッチェルだ。
「探してもどこにもいないんだもの。ほんっと困った子ね、どこまでも奔放なんだから」
「クリスに用があったのですか?」
「フィッツジェラルドさんから伝言を頼まれたのよ。次の任務に関してですって。でも今はそれどころじゃないみたいだし、後にするわ」
言い、ミッチェルもまた海辺に立つ少女へと目を細める。人々の視線の先で、少女はただひたすらに叫び、歌い、嘆き、笑っていた。彼女がクリスだと知っていなければ気付かなかったであろうほどの、喜怒哀楽の激しさ。まさに他者だ。
いっそ他者そのものになれたのなら、彼女は普通の人間として幸せを手に入れられただろうか。
くる、とモビー・ディックが宙を泳いで海へと向かう。そして、くるりくるりとクリスの上空を泳いだ。彼女はそれに気付くことなく両手を広げて歓喜を叫び、そしてつま先でくるりと回る。鯨と共に少女が海辺に舞う。服が空気を孕んでふわりと膨らんだ。朱に染まった微笑みは優しく、そして喜びに満ちあふれている。
いつか、と目を閉じて願う。
いつか、あの笑顔を、クリス自身が浮かべる時が来るのなら。
その”いつか”が必ず彼女の元に訪れて欲しいと、メルヴィルは思う。