第1幕
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[Act 1, Scene 10]
闇を駆ける足音があった。空から地まで同じ暗さを呈した街の中、車の姿もない道路をひたすらに駆ける両足。息切れは激しく、その肌から時折汗がしたたり落ちる。一人駆けるその男はやがて、巣穴に飛び込むウサギのように細い路地へと駆け込んだ。足を止めて膝へ手をつき、うなだれながら荒く呼吸を繰り返す。
「……ここまで、来れば」
呼吸の中で呟いた言葉は短い。しかしその語尾を掻き消すように音が一つ重なった。靴音だ。わざとらしく鳴らされたそれに、彼は勢いよく振り返る。
黒い外套をまとった人影が彼の背後に佇んでいた。フードを深く被ったその姿は闇に輪郭を溶かし込み、まるでそこだけ闇色が濃いかのような錯覚を起こさせる。けれど確かにそこに人が立っていた。見間違いであるわけがない、なぜならその黒い人間こそが、追っ手だったからだ。
ひ、と悲鳴が漏れる。震える手でナイフを手にし、それを追っ手へと向ける。それが無駄だということはわかっていた。それでも、何もしないことはできなかった。
「う、うあああああああッ!」
叫び、駆け出す。一撃でも良い、一撃でも、かすり傷でも良い、ただ一つ、何か、この黒い人間に負わせ傷つけられたのなら、そう思った。
しかし一歩踏み出した瞬間、腹に衝撃が加わったことを感じた。それは痛みだった。何かが腹を食い破って背へと突き抜けた、痛みだった。
かは、と呼吸が切れた。全身が麻痺したかのように感覚を失う――その上に痛みという強烈な信号が上書きされる。
「が、ああああッ、うああああッ!」
叫ぶ。でなければ耐えきれなかった。床に倒れ込んだ状態で腹を抱えるように背を丸める。死を予感した。死ぬのだと、思った。
手を胸元に差し入れる。震える手で、それを取り出し、そして、霞む視界の中それをしっかりと見ようと目に近付ける。それは写真だった。妻と娘が笑っている。今朝も、同じ笑顔で見送ってくれた二人が、ずっと男を見つめてそこで笑っている。永遠の笑顔がそこにあった。
二人がずっと笑いかけてくれているのなら、自分も笑いかけなければいけない気がした。
ずっと、ずっと。
強ばる頬を持ち上げて、目を細め、唇の両端を上に動かす。
「――終わった。計画通りだよ、フィー」
遠くで誰かがそう言った。
「問題ない。殺せたよ、ちゃんと。それが、わたしのすべきことだから」
その後の声は聞き取れなかった。写真の中の二人が霞んでいく、遠のいて行く、にじんでいく。やがて目の前が真っ暗になった後、誰かがそっと瞼に触れてくれた気がした。
***
電話を切り、フィッツジェラルドは改めて目の前に座る男へと目を向けた。
「失礼、部下からの電話だったものでな」
「全然構わねえよ」
喫茶のテーブルに向かい合った彼はそう言って肩をすくめた。ひび割れた机上に指を滑らせる。
「俺の目的は手記だけだからさ」
フィッツジェラルドは椅子の背もたれへと寄りかかった。が、ギシ、と今にも折れそうな木の音に、背を離して背筋を伸ばす。「ふん」と鼻で笑いつつ、周囲を見渡した。
そこは喫茶店だった。しかしカウンターの向こうに人の気配はなく、そもそも棚にはグラスの一つ、酒瓶の一つ、茶葉の一つすら置かれていない。塗装が剥がれた壁は所々穴が空き、蜘蛛の巣がかかっている。窓ガラスは曇りきり、強盗でも目論んだのか強引に割られた箇所も見受けられた。天井から下がる照明は電球を失っており、明かりを灯す手段はない。
「わざわざ英国に来てもらって悪いな、ギルドのお偉いさん」
「茶の一つくらい出ると思ったがな」
「国に動きを悟られたくねえからな。ここなら《時計塔の従騎士》がすぐに押し寄せてくることもないし」
「ほう、異能組織を知るか」
「これでも軍に所属しているんで」
「違うな」
フィッツジェラルドの言葉に彼は口を閉ざした。微かに浮かべていた警戒心を解くための笑みすらも、消える。
「君自身が異能力者だからだ」
足を組み、フィッツジェラルドは腕を組んで彼を見据えた。外から差した光が彼のライトブラウンの髪を照らす。
「手記――異能チップは存在しない技術だ」
胸ポケットから取り出したそれを、テーブルの上に置く。三センチ四方程度の薄いそれは、見ただけではただの記録端末だ。しかしこれを解析させた結果、データの一つも入れられない、金属板でしかないことがわかった。そして、これに異能による封印が施されていることも。
「異能による封印自体は珍しいものではない。そういう技術者がいることは確かだ。だが、これは彼らの作り出した技術ではない」
「俺に無断で調べたんだ?」
「君が詳細を語らないのが悪い。ない情報は集める、それが基本だ。――これには異能の欠片が残っていると解析結果の報告書には書かれていた。残っている、というよりは込められている、だろうな。その異能は錠だと報告書にはあった。封印解除には、錠を消すではなく錠を開ける必要があると。つまり別の異能だ。他にもいくつか封印が施されているが、こちらは既存のものだ。注目すべきはただ一つ」
指先でチップを指し示しながらフィッツジェラルドは彼を睨み付ける。
「閲覧に二つの異能を必要とする記録端末――それの開発は並大抵な環境ではできんだろうな。異能の研究は国の支援と監視なしにはできない。……異能研究の施設は本国にもある。そしてこの国にも」
フィッツジェラルドの視線を受け止めつつも、男は表情を変えなかった。さすが軍人と言うべきか、企みを暴かれつつあるというのに動揺の片鱗すら見せない。
いや、とフィッツジェラルドは思う。
動揺していないのだ。なぜなら、彼は。
「……俺にこれの奪還を依頼したのは、全てを暴かれることも含めてか」
「情報提供と言って欲しいね」
「わざと探らせたということか。一人で考えたにしては手の込んだ策だな」
「一人じゃないさ」
ようやく男は表情を変えた。それは何かを懐かしく思い出す表情だった。この、忘れられたまま時を止め続けている店内に似た、古い記憶の中に留まる男の回顧。
「友達がさ」
「何?」
「作れっていうんだよ。手記を作って、それを誰にも開けられないようにしろって。無賃だぜ? 人使いの荒い奴でさ」
「無賃はいかんな。俺ならばこれほどの技術をタダでは作らせん」
「さすが。あんた良い長だよ。……まあ、無賃ってほどでもなかったかもしれないけど」
「金が発生しない労働ほど無価値なものはないだろう」
「一般的にはな。けど、俺は悪くなかったと思ってる。出会いも、別れも、苦労も、喜びも、その先にあるものを守れるのなら」
なあ、と彼は微笑んだ。それは敵意のなさを示すものではなく、目の前の相手に親しみを感じている人間の、自然と目元を緩めることで作られる笑みだった。
「このチップのことを彼女は知ってる?」
「ああ。条件の一つだったからな、奪還計画のメンバーにクリスを入れることは。……チップとクリスに何の関係がある?」
「それは今俺が言うべきじゃないことだ」
「なぜだ」
「そういう脚本なんだよ」
「何?」
「時間だ」
言い、彼は何かをテーブルの上に置く。二つ折りにされた紙だ。説明もなく立ち上がり、彼はフィッツジェラルドを見下ろした。
「そろそろここを離れないと。情報だったな、〈本〉の。俺の知り合いに予言の異能者がいる。これがそいつの連絡先だ。〈本〉の場所くらいはわかるだろうよ。――あ、あとそれ、あげるよ」
それ、と顎で指し示されたものは机上のチップだった。
「……何だと?」
「俺が必要としたのは、”彼女がチップの存在を知る”という経緯だ。チップ自体には別の役割がある。時が来るまで、あんたに持っていて欲しい」
「時、だと……?」
「彼女から言ってくるはずだ。それまで、誰にも渡さずに隠し持っていてくれ」
少し急いた口調で言い、彼は背を向けて店を出ようとする。ガタリと壊れかけた椅子を跳ねのけて立ち上がり、フィッツジェラルドはその背に声を掛けた。
「おい」
振り返ってきたライトブラウンを見つめる。
「……名を名乗れ」
「それもできない。脚本にねえからな。あえて言うなら村人Aってとこだけど。……これでようやく俺の出番も終わりだ。後は、舞台の終焉を待つことしかできない」
ふざけたようなことを真面目な口調で言い、男は背を向ける。
「――彼女の幸福を、願ってるよ」
呟きを店内に残して男は去って行く。言い止める言葉を思いつかないまま、フィッツジェラルドはその背を見送った。そしてテーブルの上へと、そこに置かれたままの小さな物体に目を戻す。
しばらくそれを見つめた後、チップを摘み、胸ポケットの中へと落とした。