第1幕
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***
襲撃騒動からしばらくが経ち、劇場はおおよそ落ち着いてきていた。コーディリアもまた、ショックから立ち直り練習を再開している。他の皆もそうだった。しかし、目の前で知り合いが撃たれたり次々と人が死んでいったりという光景に後々も悩まされ再起不能に陥り、仕事を辞めた人もいる。数日後には公演を再開する予定となっているが、今まで通りの舞台を届けられるかは不明だ。
廊下を歩きながら、コーディリアはあの日のことを考えていた。突然の銃声、鉄の臭いを伴った血飛沫、混乱する場内、突きつけられる銃の冷たさ。そして、舞台に堂々と現れたフィッツジェラルド。彼の指示により、侵入者達は次々と撃たれていった。その中で一人だけ――呆然と立ちすくんでいた新人役者の少女。
あの子は無事だろうか。命の方ではない、心の方だ。あれほど何かに怯え、恐怖している人間をコーディリアは見たことがなかった。あの襲撃を主導したと思われる男は、あの少女だけを狙い、彼女に何かを囁いていたように思う。無差別な襲撃ではないことは明白だった。
彼女は――クリス・マーロウは何を隠していたのだろう。
それに。
彼女を捕らえていた男が突然血を流して倒れた時、一瞬見えた銀色の光。あれは照明を反射した刃物の輝きだった。少女が動いたようには見えなかったし、フィッツジェラルドも動いてはいなかったと思う。誰が、どうやってあの男を殺したのか。疑問は尽きない。
「……考えたってしょうがないわね」
ため息をつき、黒の長髪を掻き上げた。楽屋へ通じている渡り廊下は、両側面に大きめの窓を嵌めており、自然光でとても明るい。窓辺に植えた木々の緑が爽やかだ。小鳥が時折その木々に止まってさえずるので、演技に煮詰まった時などはとても心が安らぐ。
ふと足を止め、コーディリアは窓の緑を眺めた。小鳥がいるだろうかと耳を澄ませてみる。けれどその耳に届いたのは小鳥のさえずりではなかった。
「コーディリア」
名を呼んできた声に、一瞬の迷いの後、振り返る。遠くから走ってきたのだろうか、息を軽く切らしながら彼女はそこに立っていた。窓からの日差しが亜麻色の髪を金色に輝かせる。何かを決意したかのような青の目は、光を取り入れて僅かに緑がかっていた。
美しいと思った。この少女は光に愛されている。光の下にいることで、彼女はその美しい輝きを十分に見せつけることができる。まさに照明の下にいるべき存在なのだ。舞台の上に立つべき、演劇のために生まれたような子なのだ。
「……あなた」
「突然ごめんなさい」
クリスはよく通る声で言った。
「お願いがあって」
「……ちょうど良いわ、私も話があったの」
向き直り、コーディリアはクリスへと歩み寄った。しっかりとこちらを見上げてくる青い眼差しを、見返す。
「隠し事をするなとは言わないわ。けど、その隠し事のせいで劇場やお客様が危険にさらされるようなことはあってはいけないの」
「……はい」
「あなたに並々ならない事情があるだろうことはわかっていたわ。それをわかっていて、ここで働くことを許可した。だからあなたを責めることはしない。けど、教えてもらうことはできるかしら? こちらはあなたに巻き込まれた身よ、幸い私自身には怪我もなかったけど、心に傷を負ったスタッフはいる。私達には真実を知る権利があると思うの」
「……真実全てを話すことはできない」
そう言いつつもクリスは真っ直ぐにコーディリアを見つめていた。その眼差しに、嘘や誤魔化しを言うつもりがないことを知る。ならば、とコーディリアは思う。
聞こう、少女の話を、彼女が語る真実を。それが本当の真実でないとしても、きっとそれは嘘ではないのだから。
「わたしは、英国の出身なんだ。フィーに連れられて米国に来た。あの人達はわたしを英国に連れ戻そうとした」
「追われているのね」
「本当は舞台の上なんて立っちゃいけないんだと思う。けど、わたしは立ちたくて、舞台の上にいたくて、それでここに来てた。あなた達を巻き込んだことは本当に申し訳なく思ってる。でも、わたしは演劇がしたい。叶えたい夢がある」
「夢?」
「友達の脚本で演劇をすること」
凛然と言い放ったその言葉は短く、明瞭だった。
「その人はあの国で死んだ。あの場所に殺されて、同じ場所にわたしは追われている。――あの人の物語は全部覚えてる。あの人は劇作家になりたかったって言ってた。わたしがそれを演じるのを楽しみにしてた。わたしは、それを叶えたい。ここに来てからずっと考え続けてた」
この少女と初めて会った時のことを、あの驚異的な演技力を見せつけられた時のことを、思い出す。
――わたしが、誰かが作ったお話を演じられるということ?
期待に浮ついた声で彼女が言ったあの言葉は、そういう意味だったのか。劇団に来る前からずっと、この少女は、友の脚本を演じるという夢をその小さな胸にしまい込んでいた。
「周りを巻きこんでまで叶えたいだなんて、わがままで自己中心的だってわかってる。けど、叶えたい。それがあの人とわたしの夢だったから。願いだから。それを誰かに打ち明けるなら、一番はあなただと思ってた」
それは歌のようだった。詩のようだった。まとまった一つの思いを告げる、単調で真っ直ぐな声だった。
「迷惑はかけない。わたしを雇わなくて良い。わたしじゃなくて”役者を演じているわたし”を雇って欲しい。わたしには他人そのものになれるほどの実力がある、そう言っていたよね。わたしがわたしでなければ、あの国に知られない、追われることもない。だから、また舞台に立ちたい。それをお願いしに来た」
役者を演じる。
頭痛が痛いと同じような言葉の組み合わせのような気がした。けれど意味は自然と理解できた。
役者を演じる。
舞台役者としての自分を作り上げる。
追われている自分とは別の人物になりきる。
それは、難しいことだった。周囲の人に本当の自分を隠すということだからだ。人は外部に自分をさらけ出し認めてもらおうとする。そうすることで、自分という存在を確保する。自分を演じるというのは、それができないということだ。本当の理解者を得る機会を手放すということだ。
けれど、とコーディリアは目の前の少女を見る。彼女はそれを完璧にこなせるだろう。誰も彼女の本当の気持ちや本当の顔を知らないまま、彼女と接するのだろう。そうでもしないと彼女は舞台の上にいられないのだ。別人にならなければ、彼女は夢を叶えることができないのだ。
彼女はそれを選択しようとしている。その胸に宿った、願いを叶えるという意志のために。
「わたしが演じる役者を雇って欲しい。それがお願い」
「……私にはその権限はないわ」
「でも、あなたならできる」
真っ直ぐな目で、彼女は真っ直ぐな声を発する。
「それと、もう一つ」
「何?」
「名前が欲しい」
「名前?」
「そう、名前。わたしが演じる役者の名を、あなたから欲しい」
それは予期しなかった頼みだった。コーディリアは眼前に立つ少女を見つめる。緑を宿した底知れない澄んだ青に、自分が映り込んでいる。その輝きは、コーディリアを縫い止めていた。逃げられない。かつての彼女にはなかった強い意志が、その両の青にはある。
「……初めて会った時のこと、覚えてる?」
問えばクリスは静かに首を横に振った。
「あまり」
「でしょうね。あなたには意志がなかった。自我がなかった。言われたことをただこなすだけの生き物だった。それじゃ演劇はできないわ、演じるというのは魂を入れるということ、登場人物に心を寄せて、感情を一つにするということだから。当時のあなたはそれができなかった。けど、今のあなたは夢を自覚しそれを叶えるために選択しようとしている……成長ね、これほどとは思わなかったけど」
成長、とクリスは呟いた。まるで縁のない言葉のように発せられたそれを聞き、コーディリアは微笑む。
彼女を手放してはいけない。彼女を一人の役者に育て上げなければいけない。それは彼女の願いのためでもあったし、彼女という才能を無駄にしたくないというコーディリアの願いでもあった。
だから、伝えなければいけなかった。
「よく聞いて」
声を潜め、肩に手を置いて顔を覗き込む。突然のことにクリスは体を硬直させた。構わずコーディリアは続ける。
「ここを離れて。もうここに来ちゃ駄目」
「……コーディリア?」
「支配人が前の騒動を国に報告したの。あなたのことも」
サッと青ざめたクリスへ、言い聞かせるように顔を寄せる。
「支配人はあなたを異能力者って呼んでたの。それが何かは私は知らないけれど、その様子じゃあなたはわかっているようね。きっとそれがあなたの秘密の一つなんでしょう。――ここから逃げて。あなたは役者として成功すべき人材よ、だから」
最後まで言い切らなければと思った。
例え、この背に殺意が向けられていると気付いていたとしても。
例え、この背へ銃口が向けられていると知っていたとしても。
それでも。
――守らなければいけない願いが、命が、才能が、目の前にあったから。