第1幕
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***
《王国》を制圧したという知らせは、ギルド本拠地に留まっていたメルヴィルの元にも届いていた。
「ご苦労だったな」
椅子に腰掛けつつ、パイプを口から離す。ふわりと上がった煙の中を、白い鯨が泳いでいった。それはゆったりと宙を泳ぎ、部屋の入り口で佇む少女の元へと向かっていく。口先で頬をつついてきたそれにようやく顔を上げ、クリスはそっとモビー・ディックに手を伸ばした。
「……久し振りな気がする」
「長らく顔を合わせてなかったからな」
やっと目元を緩ませた少女を見、メルヴィルは彼女の胸に積もる疲労に思いを馳せた。彼女はその生い立ちと異能故にフィッツジェラルドに利用されつつある。しかしそれはただ道具として利用しているわけではなかった。その点を、彼女はわかっている。けれどだからといってフィッツジェラルドを許容することもできず、しかし拒絶することも出来ないでいる。
十五を超えた程度の少女に、その矛盾する心はかなりの重みだろう。
モビー・ディックに誘われるように部屋の中に入り、クリスは部屋の中央に置かれたソファへと腰掛けた。じゃれてくる白鯨を撫でつつ、その沈んだ眼差しをメルヴィルに向けてくる。
「グランパ」
その愛称を呼ぶ声も沈んでいる。
「……独り言を、聞いてくれる?」
「構わんよ」
「ありがとう」
言い、モビー・ディックから手を離した彼女は膝の上で拳を握り合わせた。
「……何が正しいのかわからなくなるんだ」
零れる涙のように、彼女は言葉を零していく。
「わたしは英国に追われている。それから逃げるためにはフィーの言うことを聞いているのが確かに正しい。フィーはわたしを守ってくれている。けど、このやり方で良いのかな。他の人を殺して、それでわたしが幸せになって……それで、良いのかな」
モビー・ディックがクリスの膝元に泳いでくる。それを優しく撫で、クリスは続けた。
「《王国》はね、弱い人を守るための場所だったんだ。二人は揃って言っていた。前王は戦いで組織を拡大させていて、それが元で《時計塔の従騎士》に目をつけられたんだって。それに二人は知ってたよ、前王が組織を売ったってこと。前王が、《時計塔の従騎士》と取引して、金と土地を受け取った代わりに組織の弱点や秘密通路を話して、それで《王国》はなすすべもなく一日で崩壊したんだって。ケントは知らなかったようだったから、きっと二人で内緒にしていたんだ。組織を混乱させないために。……ただ金庫から手記を盗み出すだけじゃ、駄目だったのかな」
「《王国》は元より脅威とされていたからな、潰すには良い機会だったのじゃろう」
「知ってる。わかってる。でも、もし、って考えちゃうんだ。……考えても仕方がないんだけどね」
そう言って彼女はソファの上で膝を抱え、顔を伏せた。モビー・ディックがゆらりと泳いでメルヴィルの元へと来る。相棒へと手を差し伸べ、メルヴィルはその美しい白色へと目を細めた。
「苦しいかね、クリス」
「うん」
「つらいか」
「つらい。……ウィリアムと一緒にいた頃には知らなかった感情なんだ。どうすれば良いかわからない。ただただ頭は真っ白で、ぼうっとしてて、呼吸が難しくて、いっそ呼吸なんてしたくないとさえ思う」
「それが生きるということだ」
「じゃあ、生きるのをやめたら楽になる?」
「どうだろうな」
ふ、と笑ってしまったのは、その問いが予想していた通りだったからか。
「楽になるかはわからん。じゃが、死とは時を止めることじゃ。死した瞬間が苦しかったのなら、その一瞬が永遠に続く。儂はそう思うがな」
「……死ぬのも難しいんだね」
クリスの声は残念そうだった。まるで欲しいおもちゃが売り切れていた時の子供のような声は、緊張感もなく、さっぱりとしている。
「じゃあ生きるしかないか。どうすれば楽に生きられる?」
「そうじゃのう」
ふと考えるふりをし、椅子から立ち上がる。くるりと頭上を旋回したモビー・ディックがふわりとクリスの元へと向かった。
「目標を作ると良いかもしれん」
「目標?」
「小さくとも大きくとも構わん。何かしたい事があり、それを成すために努力をする、その過程があるならば人は死ではなく生を見るようになる。死を見つめながら生きるのは眠りながら歩くのと同じほどに困難じゃが、生を見つめながら生きるのは周囲の風景を見ながら歩くのと同じほどに容易く、心安らぐ」
目標、と少女は呟く。その少女へメルヴィルは言葉をかけた。
「演劇の方はどうだった」
クリスは肩を跳ねさせる。彼女の初公演の日、英国の刺客が劇場へ押し寄せたことは聞いていた。あの日以降クリスが劇場に顔を出していないことも。けれど演劇を語る時のクリスを見る限り、それが彼女を唯一輝かせるものであることはメルヴィルにもわかった。
「……わたしは、きっと駄目だよ」
ぽつりと彼女は言う。
「追われている身で舞台に立つだなんて、矛盾してるもの。わたしにはもう、演劇なんて」
「演じれば良い」
「え?」
「役者である自分を、演じれば良い」
きょとんと顔を上げたクリスの頬をモビー・ディックがぐいぐいとつつく。突撃とも呼べるほどに勢いよく小突かれているにも関わらず、クリスはそちらを見向きもせずに目を瞬かせた。
「……え?」
「クリスであれば可能じゃろうと思っておるよ」
それが唯一彼女に夢を諦めさせない方法だと、メルヴィルは確信している。
「役者を演じる、そうすれば皆は他人としか見ん。誰もクリス本人だとは思わんよ。別人として舞台に立てば、見つかることもない。芸名を使えば更に良いじゃろう」
彼女の演技力は非凡だ。ひとたび演じさせれば、彼女を彼女と認識することすら難しくなる。それを普段から行っていれば、きっと彼女は”別人になれる”。
クリスにとってギルドは檻だ。その本質が砦だろうが、その首に鎖をつけている時点で彼女にとっては牢獄でしかない。それから放つためには、彼女が別人になる必要があった。異能力者でありその身に秘めた機密故に英国に追われる少女と、舞台に立ちその演技力をもって人々を魅了する役者。二つの顔を使いこなせば、彼女はもっと生きやすくなる。
「……役者を、演じる」
考えてもみなかっただろう言葉を反芻し、少女は己をつついてきていた白鯨を見遣る。
「……考えてみる」
その声は先程までの寂しげなものとは違っていた。少し見えた光の眩しさに目を細めつつも見惚れているかのような、ぼんやりとした、けれど心動いた者の声だった。