第1幕
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***
スタインベックは久し振りにギルド本拠地へと顔を出していた。長い休みを取っていたため、関係していた任務からは一時的に離脱している。そのため、今どの任務がどこまで進み、何をするところからなのかを知る必要があった。それともう一つ、一応組織の長への挨拶だ。
そう思ってフィッツジェラルドの部屋へと赴いた。が、ボスはちょうど出張で不在だった。となると時間が余ってしまう。
「……さて、どうしようかな」
任務関係者の元に顔を出すのが筋だろう、と思い立ち、スタインベックは本拠地内を歩き回っていた。高層ビルに居を構えるこの組織は秘密結社であり、皆が本業を持っている。そのため全員が全員この建物にいるわけではない。しかし一人だけ、心当たりがあった。
エレベータで最上階を目指し、さらに上に続く階段を上る。そこにあったのは扉が一つだけだ。
異能を使って鍵穴の中を細かにいじって鍵を開ければ、扉を開けることができた。そっとそれを押し開き、風の心地良い屋上へと出る。
思った通り、そこに人影があった。上空に青い空を従えながら、彼女は一人立ち尽くしている。
「大変だったみたいだね」
声をかければ、彼女はゆっくりと振り返った。頭部に巻かれた白い包帯が、その生気のない顔をさらに青白く見せている。
「酷い顔だ」
「……今日から復帰?」
「そう。とはいっても君との任務は終わったようだけど」
歩み寄り、風に良いようになびかせている亜麻色の髪を眺める。傍目から見れば、雑誌に取り上げられそうな憂鬱げな表情の似合う乙女だった。風を浴び、髪を乱しながら遠くを眺める少女の横顔。
ここ最近のクリスは、中身も見た目も成長著しい。年相応、という表現が似合う。身長が伸び始めたのにはさすがに驚いた。けれどその表情はやはり未だ乏しく、不自然さは拭い切れていない。それでも、彼女が何かに落ち込んでいることはわかった。
「……何かあったんだね」
「わたしは、演技で人を傷つけて殺したんだ」
ぽつりと言い、クリスは目を逸らした。
「誰も死ななくて良いプランのはずだった。誰も傷付かないはずだった。でも……駄目だった」
「結果的にはチップは手に入れられたんだって聞いたけど」
「死んだ二人の首に鍵が一つずつ下がってて、その二つで金庫室は開けられた。チップも手に入った。でも」
首を振ってクリスは黙り込む。風が強く少女の髪を吹き上げ、その背を押す。どこかに誘おうとするその見えないものに、彼女は抗うことなく身を委ねていて。
まるで、水中へと沈むように。波に揺られるがまま、呼気を水泡に変えながら、彼女は明るい水面を眺めながら暗い海底へと沈んでいく。その白い肌が、ぼんやりと開いた唇の赤が、焦点の合わない青が、黒へと飲み込まれ輪郭を失っていく。
彼女が考えていることはわかる。けれど、かける言葉がなかった。ギルドの任務は仕事だ、金を稼ぐための手段の一つだ。家族の生活がかかっているというだけの、ただの作業。それにここまで悩んでいては体も心ももたない。
けれどそう言おうものならさらに思い詰めてしまいそうな、そんな弱さがクリスにはあった。今だって風に煽られて屋上から転落したって不思議ではないほどに、彼女は不確かだ。何か言った瞬間、ふと風に誘われて足を踏み外してしまいそうだった。
口を閉ざし、代わりに床に座り込んで先を促す。クリスはスタインベックの近くに座り、膝を抱えた。
「……スタインベックは、ギルドが嫌じゃない?」
「仕事は大変だけど報酬が良いからね、それで家族が養えるなら何とも思わないよ」
「フィーのことは?」
「……嫌いだけど、それで仕事に支障をきたすようなことはしないね」
「さすが」
「クリスはボスのことが嫌いなのかい?」
逆に問えば、クリスは黙り込んだ。そして、額を膝につけ、小さく首を振る。
「……わからない。ギルドがわたしにとって一番良い場所だってことはわかってる。フィーの言っていることが何一つ間違ってないこともわかってるし、わたしはそれに従うべきなんだとも思う。でも、それが本当に正しいことなのか、最近わからなくなってる」
風は穏やかに吹いている。その風に、少女の呟きが乗り、宙に舞い上がり、消えていく。
「正直生きていたくない。けど、生きなきゃいけない。わたしは死ねないから。そんなわたしが生きているせいで、わたしのせいで、いろんな人が苦しんでる。死んだり、傷付いたりしてる。それは仕方ないことだってフィーは言うんだ。弱者を虐げるのが強者だからって。わたしは強者でい続けなくちゃいけないから、虐げられちゃ駄目だから、だから虐げるんだって。だから、わたしが生きる上で誰かが死ぬのは仕方のないことなのかもしれない」
強者は弱者から搾取し富を得る。それがフィッツジェラルドの生き方だった。確かにそうなのだろう。本来生態系は強い者だけが生き残るようになっている。人間だけが情を持ち合わせているが為に、弱者をも掬い上げ強者が施しを行う平等を求めている。しかしそれでは共倒れしてしまう。この世界は、生き残れる者だけが生き残るべきなのだ。
その”生き残れる”側にいるのがフィッツジェラルドであり、ギルドだった。ギルドにいる限り強者でい続けられる。だからスタインベックはここにいる。家族が弱者とならないために、強者の元にいる。
これが生きるということだ。それに伴う犠牲など考えてはいけない。考えるような余裕を持ってはいけない。そんな余裕を持ってしまったが最後、強者でありながらも苦しむはめになる。
この少女のように。
「スタインベック」
名を呼び、少女はさらに膝を抱える。
「……わたしの生き方は、正しいのかな」
その問いへの最適な答えを、スタインベックは持っていなかった。黙って少女を見つめる。沈黙が風と共に、二人の間を吹き抜けていた。
***
風を切って、飛行機が飛んでいた。
『《王国》を崩壊させたとお伺いいたしました』
機体の中、個室の中で艶やかな機械音が微笑む。
『さすがですわね』
「ふん、良く言う」
テーブルに置いたパソコンを睨み付けつつ、フィッツジェラルドは珈琲を一口飲んだ。苦い香りが鼻を突き抜ける。それをパソコンの横に置けば、黒い水面は僅かに揺れた。細かな振動を伝えていく波紋の広がりを見つめる。そして、再び窓の外を見た。宙に刺さるかのように鉄の翼が横に伸び、その遥か下に薄く白い雲が何重にも重なっている。遮る物のない太陽光を反射した翼は眩しく、鋭くフィッツジェラルドの目を刺した。
「あれは君達が取り逃したネズミだろう」
『ええ。とても感謝しておりますわ。各国に散ってしまっては、さすがのわたくし達《時計塔の従騎士》にも手に負えませんでしたもの』
「それで」
『感謝と謝罪の意味を込めて、そちらに贈り物を差し上げますわ』
さらりと言い、女性の声は上品に笑む。
『あなたのお手を汚す必要はもうありません』
「自国のネズミをこちらに寄越し、その排除を実行させ、余った数匹の排除を名目に我が国に土足で入り込む……手の込んだやり口だな」
『あら、土足だなんて。そんな不躾なことはいたしませんわ』
「何が目的かお聞かせ願おうか」
『勿論』
ふふ、とその声は続ける。
『”ネズミ取り”ですわ』
相手がネズミと呼んだものは《王国》の残党だけではないだろうことは、容易く読み取れた。フィッツジェラルドの脳裏に亜麻色の髪の少女が思い浮かぶ。二人の女王が倒れ伏した部屋で、床に座り込んだその姿を、呆然と二つの亡骸を見つめるその後頭部を、思い出す。
「ネズミ、か」
世間を知らないまま育った、檻の中の実験用動物。
彼女は本当に誰も傷付かず死ぬことのない任務になると思っていたようだった。けれど組織戦が平和的に終わるわけがない。相手が本気で何かを守っているのなら、こちらも本気でそれを崩しにいかなければいけない。本気同士のぶつかり合いで被害が出ないわけがなかった。
彼女は甘い。その身は被害を必要とするほどに残酷な存在であることを自覚しているというのに、彼女は誰かが傷付くことを恐れている。それを甘さだと言わずに何と言えば良い。被害なしに得られる平穏などない。それがこの世界の理だ。
だから人は全力で大切なものを、場所を、守るのだ。自分達が害を被ることで得られる平穏を、それに届けるために。守るとは傷付くことだ、そして大切なそれへと平穏を届けることだ。
彼女はまだそれを理解していない。だからこそ、まだ守らなくてはいけない。目の前でそれを見せ、理解させなければ、彼女は何を守ることも何を得ることもできない。
「……俺の所持品には一切手を出すなよ」
確かな威嚇を声に込める。
『その元々の所持者はわたくし達英国ですわよ?』
「だが今は俺の物だ」
目の前にはいない相手へ、低く告げる。
「人の物に手を出すような低俗な輩ではないと信じている」
『そちらこそ、人の物を奪うような野蛮なお方でないことを信じておりますわ』
穏やかな会話に潜んだ棘が、画面越しの相手へと突き刺さる。目に見えないそれを、深く、深く、相手へと埋めていく。
『北米の方は活動的ですこと。大人しく紅茶の香りを楽しむこともできないのでしょうね』
「実力で領土と平和を勝ち取った民族だからな、手に入れられるものはこの手で手に入れに行かねば」
『〈本〉も、ということかしら?』
「当然だ」
棘の残る声が機械越しにやり取りされる中、フィッツジェラルドは目を細める。
「――あれは俺が手に入れる」