第1幕
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突然《王国》に加入してきたエドマンドという謎の男に、ケントは警戒していた。
「全く、あのわがまま娘らめ、孝行の気配すらない上にあのような不審な者をそばに置くとは」
無造作に伸ばした髭を掻きながら、彼は朽ちた建物の中をすたすたと歩いていく。ここは大戦中、砲撃を受け灰と化した街に唯一残った高層ビルだった。出来る限りの修繕は終わっており、このみすぼらしい外観のせいで、ここが《王国》の本拠地であるとは誰も知らないため、格好の隠れ家になっていた。
しかし、とケントは思う。
「……《王国》はその名にふさわしくなければならぬ組織、英国を闇から牛耳るもう一つの王国であるべき組織。だのに未だ前王を探すこともなく、異国の地のおんぼろ小屋でのうのうと惰眠をむさぼっておる……さながら牛じゃ。鳴くことしかできぬ無能な女王に牛耳られた牛の王国じゃ」
ふん、と拳を握りつつ、ぼそぼそと呟く。
《王国》は元々一人の男が統べていた巨大組織だ。その権威は英国を呑み込み、あの異能機関《時計塔の騎士》と同等に渡り合った過去を持つ。裏社会はもちろん、表社会にもこの《王国》の手は伸ばされていた。もう少しで《時計塔の従騎士》をも虐げブリテン島を制圧していたはずだ。
それが、突然崩れた。理由はわからない。ある日突然、《王国》は崩壊した。本拠地に《時計塔の従騎士》が雪崩れ込み、構成員の多くはなすすべもなく捕縛され、運良く逃げおおせた者は世界各地に散った。スパイがいたのだろうとケントは思っている。この薄暗く重く冷たい廃墟のように、薄暗く重く冷たい敵の影が、あの《王国》には落ちていたのだ。それをあらかじめ見つけ出せなかったことを、ケントは今も悔いている。
だからこそ、今回は見逃すわけにはいかなかった。それは《王国》のためであり、あの日を最後に姿を消したかつての主君への忠誠心故であった。
「あのエドマンドという男、グロスターの配下になって早々に同僚たるエドガーを裏切り者として進言したというではないか。エドガーはグロスターの実の息子、父と共に前王に重宝された、愚直で従順な男だ。裏切りなどできる度胸があったとは思えん」
「何かお困り事でも?」
突然の声にケントは大きく肩を跳ね上げた。腰の拳銃に手を置きながら振り返り、そこに立つ黒外套の男の存在を視認する。ぐ、とグリップを握りしめた。硬いそれが、ケントの震える胸に深呼吸を促す。
「……やあエドマンド。調子が良いようですな」
「おかげさまで、快適です」
皮肉と探りの入ったケントの挨拶の意図を察してか否か、エドマンドはのんびりと挨拶を返す。フードに隠れた顔は全く見えず、彼が何を考えているのかもわからなかった。
「ところでケント殿、ゴネリル様を知りませんか? お部屋にいらっしゃらなくて」
「いえ、存じませんが」
「そうでしたか。また鬼ごっこか隠れんぼなのでしょうか……困ったな」
顎に手を当て、エドマンドは何やら考え込む。その表情を少しでも覗き見ようと顔を寄せれば、彼はくるりと背を向けてしまった。隠しているのだ、とケントは警戒心を強める。腰に下げた拳銃が重い。
「周囲を探してみます。それでは」
「エドマンド」
名を呼べば、彼は踏み出そうとした足を止めた。背中越しにこちらへ続きを促す気配。唾を呑み、ケントはそっと息を吐き出す。
「……失礼ながら申し上げますと、女王個人のお部屋に向かわれるのはあまりお勧めできません」
「というと?」
「あれは若いが我らの組織の長。安易に接触されては、彼女らの威厳に関わります。それに」
「私が両御方をたぶらかしていると?」
その声には笑みがこもっていた。笑っているのだ。嘲笑と言っても良い。この男は、ケントの考えを知った上で、答えている。
どこかのスパイではないかと疑っているケントを、嘲笑っている。
「くせ者が!」
腰から銃を引き抜き、それを向けた。
「何が目的だ!」
「誤解をされているようですね、ケント殿」
「誤解などしていない、我らは《王国》の一部にして《王国》を守る者」
「では私と同類だ」
「違う」
「違いませんよ、ケント殿」
振り返り、エドマンドはこちらを見据えた。ふわりと外套がふくらむ。それだけで、ケントは自分の肺が縮こまるのを感じた。空気に異物が混入したかのように、呼吸が難しくなる。この男は危険だと訴えるように、肌が一斉に粟立つ。
この男は、周囲の空気そのものすら統べるのだ。彼を眼前にした者全てを硬直させ、口を噤ませる圧、権威、そういった凶悪で強力な何かを、これは有している。
「私もまた、この《王国》を守る者。……エドガーのことを気にされているようですね」
その高圧な空気を従えた男は静かに言った。ケントは頷いた。頷いて、何度か口を動かし、ようやく肺から絞り出した声で言葉を話した。
「……あれは主に忠実な男だ。父の理想を具現化した息子、指示を聞き思考を閉ざし王に仕える者。あれは暗殺などを企てられる器ではない」
「その小さく見積もられた器を、本人は壊したかったのでしょう。この《王国》と共に崩したかった」
エドマンドの表情は見えない。けれど、その口角が上がっていることを、ケントは察していた。静かで理性的な声音は、告げている事実の重要さを無視した無感情を放っている。
「私が見つけたエドガーの手紙には、外部の組織と連携し己の父を暗殺する手立てが記してありました。グロスター殿は現女王陛下にとって重要な臣下の一人。彼を殺せばこの組織は確実に傾ぐ。なぜなら、この《王国》にはまだ前王の影があるから」
「……知っているのか」
「女王から聞きました。……《時計塔の従騎士》から追われたその日、組織を束ねていた王は姿を消し、《王国》の民たる構成員は指揮官を失い混乱に陥った。その残党のうち米国に渡った構成員を束ねたのが現女王、そして今の《王国》です。しかし女王二人の若さ故、未だに前王の再来を望む者も多い。今の女王にとっての悩みの種は前王派だとお伺いしております」
すらすらと、男はさも自分が経験したかのようにそれを語る。ケントは銃口の先に立つ黒ずくめの男を見つめた。その素振りに、口調に、何か片鱗が現れるのではないかと思っていたのだ。けれどエドマンドは悠々と両手を広げて驚くべき事を口にする。
「そして今、《王国》を狙う組織がある」
「……何?」
「ギルドという組織をご存じですか?」
聞いたことはある。この北米で闇から権威を振るう異能組織であり秘密結社、悪玉さながらのその存在は伝説だと噂されている。無論伝説などではない。影から獲物を狙う悪魔の一手の如く、かの組織は米国中枢にまでその触手を伸ばしている。組織の再建を目論む《王国》にとって、ギルドは最も警戒すべき組織だといえた。
それが、《王国》を狙っている。
「……その話が真実である根拠は」
「エドガーの手紙の相手がギルドの構成員でした。おそらくエドガーを懐柔し、彼に悪事の片棒を担がせようとしたのでしょう。この《王国》を傾がせるという悪事を。ギルドにとって、海外から流入してきた《王国》は目障りなもの、かつての英国同様に米国で暗躍されては邪魔だと思うのも道理。一刻も早く根絶やしにしたいと考えているところかと」
「……そして手始めに女王の戦力と地位を削ぐべくグロスター殿を……」
「グロスター殿は優秀な異能者と聞いております、異能の者が恐れるは異能の者。初手としてはまずまずでしょう。……しかし結果は失敗、悪事は露見しエドガーは追放の身。出鼻を挫かれたギルドにとっては相当の痛手でしょうね」
ゆったりとした口調でエドマンドは言った。それが自分の手柄だと誇張するでもない穏やかなそれに、ケントは拳銃を構える腕に一瞬躊躇いを表す。ふらりと揺れた銃口にエドマンドは何も言わなかった。それがゆっくりと下ろされる様を、フードの下から静かに見つめている。
「貴様を信じたわけではない」
腹に力を込めて言い放つ。
「この《王国》に害なすならば、容赦はせんぞ」
「是非そうであって欲しいものです。これ以上に心強い味方はいない」
この敵意が自分に向けられているとわかっていないのだろうか、エドマンドは他人事のように肩をすくめた。
「ギルドが前王派を使って《王国》を狙っている今、《王国》に最も必要なのは女王への忠誠心です――前王に対するあなたのような」
――その一言を言い聞かせるように言ったのは、わざとだろうか。
ケントは無意識のうちに体が強ばるのを感じていた。それは動揺だった。隠し通さなければならない内なる心だった。
「……まさか、何を言うかと思えば。我が心は《王国》のもの、今《王国》を統べるは女王二方、ならばこの身を捧げるべきは前王ではなく女王だということは明白」
「その言葉を聞き安心いたしました。ケント殿」
エドマンドはくるりと背を向けて歩き出す。
「我が心は女王と共に。――あなたも前王派ならば排さねばと思っておりました」
「冗談を」
その悠然とした態度を睨み付けつつ鼻で笑ってみせる。しかしその声とは裏腹に、ケントは手の中の拳銃を強く握りしめていた。
靴音が遠ざかっていく。墨色の闇の中へ、その黒い背中はゆっくりと溶け込んでいった。