第1幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
「我らは海で産まれ海に育てられ海で生きる者、故に陸の王に仕えるわけには参りません」
甲板を模した舞台の上で、色あせた布を身に纏った男が言う。それを聞いた軍服の男は、同じ格好をした部下を見渡しながら高らかに笑った。
「勘違いをするな。我らが女王は陸の長ではない。この世の王となられるお方だ。故に貴君らもまた陛下にお仕えするべき貧民である」
舞台の上では海の民と陸の民の応酬が繰り広げられている。人の強欲の愚かさを描いたこれは、創世記に発想を得た作品だ。領土と支配を目論む二つの民族の人々はやがて、陸地をも飲み込む洪水に呑まれて大半が死す。生き残ったのは民族に関係なく神に選ばれた者達だけ。人々は神に支配された己を知り、己の存在の小ささに気付き、以降手を取り合って生きていくことを誓う。
照明の一つもない舞台袖から眩しいほどに明るく照られた舞台上を見つめながら、クリスは物語の進行具合を見守っていた。出番は近い。言い争いの末一触即発の緊迫した空気になった彼らの中へ飛び込み、洪水の到来を知らせる役だ。物語の重要な転換を示す役柄でもある。
「緊張してる?」
ふと後ろから声を掛けられる。振り返れば、船乗りの格好をしたコーディリアが立っていた。クリスが身につけているものより装飾品の多いそれは、階級の高さを表している。暗がりの中、肌も髪も黒い彼女の姿は見にくくなっていた。けれど彼女だとわかったのは、その纏う雰囲気からだろうか。
「……昨日食べたケーキを思い出してた」
「……そうね、あなたが緊張なんてするとも思えなかったわ」
「紅茶の葉を使ったケーキ。また食べたい」
「この舞台が終わったらね」
今舞台上で言い争いを続けている船乗りのリーダーの息子役を、コーディリアは演じる。彼は海の民と陸の民の戦いが始まろうとしている中で、神からの声を聞き洪水が引き起こされることを知る。あちこちに警告に回るが戦争を目の前にした仲間達は聞く耳を持たない。誰も味方がいない中奮闘する彼こそが、この物語の主人公なのだ。
「初舞台なのに余裕ね。まあ良いことよ、適度な緊張は必要だけど、それ以上の緊張は余計だから。――今日の舞台には誰か呼んだ?」
コーディリアの問いに、クリスは首を横に振った。初公演を迎える新人は、招待用チケットを無料でもらえる。来て欲しい人にそれを渡すことができるのが、この劇団の昔からの風習だった。
通常は知り合いに自分の初舞台を見てもらいたいと思うものなのだろう。しかしクリスには、そう思う相手がいなかった。ギルドのメンバーには良くしてもらっている。けれど、彼らを初公演に招待するということはつまり、フィッツジェラルドにもその情報が渡るということだった。
「……フィーに見られるのは嫌」
「何よ反抗期の子供みたいに」
「反抗期?」
「十五くらいの子供が自立心の芽生えから親に反抗的になる期間があるのよ」
「フィーがわたしの親だと?」
「そんなに嫌そうな顔ができるのね」
クリスの本心など気にも留めず、コーディリアは声を抑えて楽しそうに笑う。むう、と唸ったクリスへ、彼女は「ねえ」と目を細めた。
「あなたにとってあの上司さんはどんな人?」
突然の問いだった。心の奥底を見つめるようなその眼差しから逃げるように顔を逸らす。暗闇が目の前にあった。穏やかな光の中で過ごしていた時には知らなかった、陰鬱とした空間。あの場所から逃げ出してから、クリスはその中に留まり続けていた。照明の一つもない、真っ黒な世界。そこに差し伸べられたのが、あの男の手だった。
けれど。
「……厄介」
「厄介?」
「いつも力と金のことばかり考えていて、わたしのことは便利な道具としか思ってない。けど言い返そうとしてもねじ伏せられるし、殴っても奇襲を仕掛けても負ける」
「……最後のは聞き逃すことにするけど」
軽く頭に手を当てつつ、コーディリアは優しい声音で続ける。
「――あなたのことを大切に思っていることは、私にもわかるわ」
「大切?」
「やり方が良くないのか、あなたは嫌に思っているみたいだけど。……でなければあなたをここに寄越しはしなかったと思うわよ。だって、本当に道具として扱いたいのであれば、こんな所に寄越さないで傀儡人形のように洗脳すれば良いんだもの」
「……洗脳」
「忠実に命令を遂行するようにね。フィッツジェラルドさんが何かの組織の長だってことは聞いてる。あなたがその実力を買われていることも。……あなたに明るい世界を見せなければ、あなたは彼の手元で忠実な駒になっていたはず。けれど彼はそうしなかった。あなたに嫌われてでも、反抗されてでもあなたに外の世界を見せた」
「……わたしをこの劇場の稼ぎ頭にして、自分が儲かりたかっただけだと思う」
「それもあるかもしれないわね。あなたにはそれを目論めるほどの才能がある。けど、それだけじゃないことも確かよ」
コーディリアから目を逸らす。その凛とした顔に浮かぶ微笑みを、見ていたくなかった。
あの男の意図に、気付きたくなかった。
「それは上に立つ者として難しい選択だったはずよ。部下を道具としてしか見ていないのだったら、意志も自我も与えないわ。けど、彼はそうしなかった。……聡いあなたならわかっていたと思うけど」
無言を返す。不躾でもあるその態度にコーディリアは微笑むだけだった。
彼女の堂々たる佇まいと思考はクリスの背を支え、押してくれる。考えたくもないことも、コーディリアに言われればすんなりと心に染み入った。姉、というのはこういう人のことを言うのだろうか。家族がどういったものなのかについてはギルドのメンバーや劇団の同僚に聞いている。クリスには「父」と呼んだ男と「母」と呼んだ女はいたし、「兄弟」と呼んだ同年代の子供は何人かいた。けれど彼らは世間一般に言う”家族”ではなかった。あの「家族」に不満はない。誰もが自分達を大切に育ててくれた。偽りで囲われた小さな世界で幸せを与えてくれた。悲しみと苦しみから隔離してくれた。その結末は赤色だったけれど、それでも、あの記憶全てを拒絶することはできない。
なぜなら、彼らの優しさを覚えているからだ。彼らと過ごした日々を覚えているからだ。いっそ忘れられたのなら、あの場所を「憎い場所」「思い出したくもない場所」と言い切れたのなら、どんなに心安らぐことか。
だからあの場所が嫌いだ。あの国が嫌いだ。不幸せと幸せが入り交じる複雑なあの場所の記憶が、嫌いだ。
いっそ忘れられたのなら、いっそあの赤い結末だけを覚えていたのなら。
優しさは一通りではない。幸福に包み込むだけが、優しさではないのだ。同様に、赤色だけが悲しみではない。
だからこそ、あの場所を拒みきれないのと同様に、あの男を心底から許すこともできないのだ。
「海の魚が陸の民に敵うと思ってか!」
大声が舞台に響き渡る。ざ、と大勢が得物を構え距離を測る音。
「さ、あなたの出番よ」
猛々しい男達の声が湧き上がる舞台へと、軽く背中を押される。
「あなたにとって、あの光の下が心地良い居場所となりますように」
「コーディリア」
半身振り返り、クリスは闇の中に佇む女性へと顔を上げた。
「ありがとう」
無言で頷く彼女へと背を向け、クリスは白く輝く舞台の床を見つめる。その眩しい輝きが目に焼き付く。
この先に、光がある。長らく遠ざかっていた光が、あたたかな世界が。
息を吐く。そして吸う。息を止め、肩から力を抜き、顔を上げて正面を見つめる。口を開き、腹から湧き出る声で言葉を作り出す。
「――長よ、海の民の長よ!」
響き渡る己の声の木霊を纏いながら、クリスは光輝く舞台へと駆け出した。
何が起こったのか、わからなかった。
練習通りに舞台に飛び出し、異常気象の到来を告げた。得物を向かい合わせていた双方が、遠くの空を見、そこにある分厚い雲に気付き、そして肌に感じる風の生ぬるさを知り――混乱が始まろうとしていた、その時だった。
赤が、散った。
セリフを観客席に向かって発していたクリスの目の端で、一線の赤が。
海の民の長役だった男が、ドウッと舞台に仰向けに倒れる。その胸に空いた穴が、この場の異常さを表していて。
――遠くから、銃声の木霊が、聞こえている。
「う、うわあああああッ!」
誰かが叫んだ。台本にはない。それもそのはず、叫んでいたのは観客だ。雪崩のように観客は出口へと向かう。また銃声が上がる。今度は別の役者が倒れた。悲鳴と混乱の入り交じる舞台の上で立ち尽くす。
「――大人しく来てもらおうか」
声が、耳元に届いた。木霊のない、悲鳴と怒声の上がる中でもはっきりと聞こえてきた囁き声。背中に突きつけられた金属の筒と肩を掴まれた手に、クリスは現状を知る。
見つかったのだ。見つかってはいけないものに。
「あるべきものをあるべき場所に。……ペットは家に帰る時間だ」
舞台衣装を身に纏った男が、背後から囁いてくる。米国に来てから聞く機会の減ったイギリス英語。体が硬直する。声が出ない。呼吸が引きつる。
――死ぬな。捕まるのも、死ぬのも、知られるのも駄目だ。
「……だ、め」
「拒めばこの場にいる全員を殺す」
銃口が強く押しつけられる。いくつもの硬質な音が周囲から聞こえてきた。ぎこちなく首を回し、視線を向ける。舞台の上にいた劇団員の半数が、他の劇団員へと銃を向けていた。敵はすぐ近くに潜んでいたのだ。ぐるりと首を回して舞台袖を見る。コーディリアがいた。両手を挙げて、こちらを驚愕の眼差しで見つめている。
このままでは、全員が殺される。
否、自分が彼らに大人しくついていけば、誰も殺されなくて済む。けれど、それは。
「……できない」
「何?」
「できない。わたしは」
――風が、頬を撫でる。
「わたしは……」
捕まる。それは駄目だ。けれど彼らを殺させるわけにもいかない。では、この武装者を殺すか。否、こちらには武器も異能者もいない――クリスを除いて。
風が、吹いている。早く、と急かすように、クリスの皮膚を撫でている。いつかと同じだ。あの時と。
――〈赤き獣〉を倒すのが、神から〈恵み〉を受け取った者の役割です。
違う。あの人達の言っていた”神”は本当の神ではない。そう教えてくれた人がいた。その人を信じると決めた。
そうだ、この力は何かを倒すためのものじゃない。けれど、今、この男達をどうにかしないと。
望まない赤が、散る。
なら、その前に。
――あの日と同じ、裁きの刃を。
「い、や……だ」
あの日と同じ、赤を、この手で。
「嫌……嫌……!」
「では約束通り、この場にいるお前の仲間達を殺す」
「待って……!」
叫ぶ。男へ懇願しようと振り返る。それと同時に銃声が聞こえてきた。
劇場に木霊を伴って響く、発砲音。
――赤色の液体が、散る。
「……え?」
銃と共に倒れ伏したのは、劇団員へと銃を突きつけていた武装者だった。騒然とする舞台の上へ、再び銃声。またもや武装者が撃ち抜かれる。的確に額を撃ち抜くその銃弾は、明らかに観客席から向けられていた。
「誰だ!」
「俺だ」
焦ったように周囲へと叫んだ男に、さらりと返答が返ってくる。カツ、と空同然の観客席から舞台へと階段を上がってきた男に、クリスは息を呑んだ。
「……どうして」
「部下の初舞台を見に来ない上司がどこにいる」
凛然と背筋を伸ばして照明の下に立ち、フィッツジェラルドは肩をすくめた。武装集団を前にしたにしては余裕のあるその男に、クリスは彼の思惑を知る。
「……知っていたんだね」
「ああ。そろそろ君を迎えに来るだろうとは思っていた」
「お前がギルドの長か」
クリスを盾にしつつ、男が低く問う。ああ、とフィッツジェラルドが答えた瞬間、男はクリスから銃口を外し数発彼へと撃った。
鼓膜を叩く衝撃。
けれど。
「何……?」
「言っただろう、俺がギルドの長だと」
銃弾を手のひらから落とし、彼は笑う。その体から立ち上っている、熱気に似た違和感――異能力【華麗なるフィッツジェラルド】。銃弾などこの男に効くはずもない。驚愕する男達をよそに、フィッツジェラルドはクリスに顎で示した。
「殺れ」
「……え?」
「こいつを自分の手で殺れ。奴は君のことを知っている。今殺さなければ後々の火種になるぞ」
「……殺したくない」
「なら君が死ぬだけだ、クリス。生きるとは他者を虐げるということだ。他者を虐げるには他者よりも力がなければいけない。故に力あるものだけが生き残れる」
「違う」
あのひだまりを覚えている。誰もが優しくて、誰もが幸せだったあの場所を知っている。生きることと他者を虐げることは直結しない。あの場所がそうだった。あの場所そのものは嘘だったとしても、優しさだけで幸せな世界を作ることが可能であるのは確かだ。
「これが現実だ、クリス」
けれど男は言う。その鋭い目をこちらに向け、組織を統べる者は強い語調で言葉を発する。
「君は既にこちら側の人間だ。手を取り合うなどという貧乏人の屁理屈は通じん。敵に対して決して渡してはいけない物がある時、一番にすべき事はそれを決して手の届かない場所に隠す事、もしくは決して手が届かないよう力で外部を圧する事だ。力ある人間は後者を選ぶ。――死にたくなければ生きろ。生きたくば虐げろ。これが俺達の生きる世界の理だ。でなくば虐げられ使役される」
「けど」
「決めろ、クリス」
フィッツジェラルドが言い放つ。
「君に必要なものは愛情でも金でもない、未来のために今決意する強さだ」
未来のために。
今。
――何を。
死を。
殺しを。
赤を。
「……わたし、は」
噛みしめた唇は血の味がした。