第2幕
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***
手にしたティーカップから顔を上げ、不思議そうな顔を作り出しながら相手を見遣った。
「人喰い虎、ですか」
またこの話題か、という顔はしない。「初めて聞きました」という反応をしつつ、クリスは手元の紅茶を一口飲んだ。クラシック音楽の流れる喫茶店のボックス席からは、小規模ながら高質感のある店内を一望できる。店主の男性はカウンターの向こうで他の客のための珈琲を淹れているが、その様子もまたこの店に映えていた。
昼下がりの似合うこの店が事務所の階下にあるとは、贅沢なものだ。
「奇妙な仕事を持ってくるよねえ、社長も」
あー、と気の抜けた声を出しながら蓬髪の男がテーブルに突っ伏す。
太宰治。先日とある事件を解決した、探偵社の社員。彼が街を歩くクリスの前に唐突に現れ「お茶しない?」と誘ってきたのが数分前。こちらとしては頑固お断りしたい心地だったが、助けてもらった手前信頼を演じなければ奇妙というもの。そう判断して大人しく誘いに応じたのだが。
「虎と鬼ごっこだなんて面白い仕事だと思うのだけれど、国木田君ったら頭固くてねえ、仕事は仕事だ、聞き込み調査から始めるって言って私を連れ出そうとしたのだよ。聞き込みなんてめんどくさい」
「それで素直に従うフリをして一旦社を出た後に、お手洗いと称して社に戻った――と見せかけて喫茶に逃げ込んだ、と」
「君とお話してみたかったからね。ちょうど良い機会だと思って」
「わざわざ街中からわたしを探し出すほどに、ですか」
「そう」
含みのあるクリスの言葉に太宰はにっこりと笑う。こちらの意図をも理解した上での肯定。
「こうでもしないと私と二人きりになってくれないだろう?」
そのにこやかさしか窺えない表情と釣り合う顔を、クリスも浮かべてみせる。
「まさか。お誘いいただけるのなら時間のある限りはお付き合いしますよ」
「それは良いことを聞いた」
おそらく横から聞いた限りでは仲の良い男女の会話なのだろう。けれどそこに潜むのは、「仲の良い」などという形容が少しも相応しくない、静かな腹の探り合いだ。
武装探偵社。法と無法の間に位置する治安維持組織。そこにはクリスが警戒すべき相手が二人いた。一人がこの、太宰だ。異能無効化能力の所持者である彼にクリスが異能者であることを知られるのは不利だ。それにこの、クリスの本心を探り出し真意を見つけ出そうとする洞察力。
――捕まるのも、死ぬのも、知られるのも駄目だ。
あの言葉を守るためには、油断も隙も見せられない、絶対的な敵。
彼らは正義の側の人間だ。だとしても、クリスの味方にはなり得ない。それはクリスが正義とは逆の側の人間だからではない。
クリスがクリスであるが故だ。
この身に秘密が、技術が、異能があるが故だ。
――君、異能者だろう?
ふと思い出したのは、先日探偵社の廊下で聞いた声だった。明瞭かつ断定的、否定されるとも思っていない報告じみた声。
江戸川乱歩。
クリスが警戒すべき、二人目。
誘拐事件の後、探偵社の医務室でクリスは目覚めた。探偵社にそういった部署があることは知っていたし、事件の証人の治療をそこで行うことが多いこともあらかじめ調べてある。だから探偵社の女医に身体を見られたことは想定内だった。一般人には大して意味のない手術痕だらけの体だ、むしろ病弱なのかと心配され擁護されるようになるので状況有利にはなる。そしてやはり女医はクリスを心配し気遣ってくれた。優しさは便利な道具だ。
けれど。
無理を言って医務室を出たクリスの前に名探偵を名乗る男が立ちはだかるなど、想定できようはずもない。
――君、異能者だろう?
与謝野に場を外すように言った後、初対面だというのに彼はそう切り出した。
――見事な演技だったよ。僕でさえ君がただの被害者だと思い込むところだった。何かを目的に探偵社に近付いて来たってところだろうけど、騙す相手が悪かったね。素直に答えてもらおうか。
「君は何を考えている?」
記憶の中で反芻したものと同じ言葉が耳を直接叩く。ハッと顔を上げれば、太宰が笑みを浮かべていた。
「ボーッとしていたみたいだけど?」
「……すみません、お気に障りましたか」
「いいや、全く。でもちょっと気になったから」
「……その、人食い虎というものについて考えてしまって」
すぐさま恥ずかしさと諦めを混ぜた様子を作り出し、クリスは気後れするように身を縮ませた。
「わたしなんかが考えたところで、どのくらい大きいのだろうとか、毛並みはどんなだろうとか、そういうことしか考えられないんですけど」
「可愛らしい発想だねえ。毛並み、毛並みか。動物が好きなのかい?」
「好き、というほどでは。ただ、見かけたら思わず見てしまいますね」
「やはり君のような若い女性は小動物を気に入るのだねえ。犬とか、猫とか、クリスちゃんは何か飼っていたりは?」
「いえ、全く。食べられませんし」
「……え?」
「え?」
太宰と二人、顔を見合わせる。何か間違っただろうか。動物を飼っているかという問いに、否と答えただけなのだが。
牛や馬や羊ならまだしも犬や猫を飼う発想がクリスにはよくわからない。非常時に食べるにしては少ないし、骨や牙を売っても大した金にならない。そこまで考え、ふと喫茶店の窓の外を見た。犬と散歩している老人の姿が目に入る。
「……あ、もしかして愛玩動物の話でしたか」
「まさかこの流れで家畜の話になるとは思ってもみなかったよ」
「で、ですよねー……」
そうだった。ここは日本、移動手段にも食用肉にも困らない裕福な国だ。会話の選択を間違った。
ちら、と太宰を見れば、「ふむ、だから毛並みか」などと一人で考え込んでいる。怪しまれるほどではなかったらしい。兎にも角にも、太宰の思考を完全に虎へと移行させることができたのは成功だ。
「さて、そろそろ時間かな」
時計で時間を確認することもせず、突然太宰は立ち上がった。そしてなぜかクリスの隣の席へと座り直す。同じテーブルで向かい合っていたのだ、わざわざ移動してきた理由がわからない。
訝しむクリスへ、太宰は更に体を近付けて来た。
「ねえ、クリスちゃん」
距離を置こうとするクリスの肩に太宰の手が置かれる。身を捩ろうにもその腕力がクリスを妨げる。
ぞ、と悪寒がこみ上げてきた。危機感が意図せず殺意を生み、クリスに異能の行使を呼びかけてくる。しかし耳元で風は唸らない。
肩に触れる太宰の手が、クリスの異能を――抵抗を無効化している。
「太宰、さん」
拒絶の意味を込めて名を呼ぶ。しかし太宰は顔を近付け、その闇色の眼差しで目を覗き込んでくる。
何かを探るように。
隠しているものを、引きずり出そうとしているかのように。
「君は、何を考えている?」
囁き声が唇に触れてくる。
「隠し切れると思わない方が良い」
す、と太宰が体を離す。肩から手が離れていく。ドッと疲労が全身に降りかかってきた。触れられた感覚をこすり落とすように、クリスは自らの肩を強く掴む。
見上げた先で、太宰は席から立ち上がり、その長身を真っ直ぐに伸ばしている。そこにあるのは紳士的な笑み、しかし――目は、笑っていない。
一瞬で、思考する。
本来なら、何のことかわからないといった風にきょとんとしてみせるか、太宰の行為に心ときめかせて慌てるなり呆然とするなりをすれば良いのだろう。しかし、そのどれもが相応しくなかった。
この男にそういった隙を見せたのなら、彼は必ずそれを利用してクリスに近付いて来る。恋心という皮を被ってクリスの隣に陣取り探りを入れてくる。そういうことに抵抗のない男だ、この人は。
ならば、今わたしがすべきことは。
――完全なる敵意を表明すること。
クリスは微笑みもせず太宰を睨み付けた。それが答えだとわかったのだろう、太宰は僅かに目を見開く。予期していなかったクリスの様子に心底驚いたようだった。
「……敵わないね」
「わたしを甘く見ないでいただきたい」
そこでようやく、クリスは笑む。口元だけ、ゆるやかに、相手を挑発するように。
――あなたの思い通りにはさせない。
「完敗だ」
太宰が目を逸らして肩をすくめた。
「まさか真正面からそうされるとはね。騙し嘘をつくだけが君のやり方ではないということか。……ところで、一つ頼みがあるのだけれど」
「というと?」
「最近、国木田君ったらまるで性悪な姑なのだよ。今にも家具の隅に指を滑らせて『あらこんなところに埃が』とか言いそうなくらい。先日の親切が相当堪えたらしい。女性に頬を叩かれたことがないというから、その機会を作ってあげたというのに。――で、もしここに国木田君が来ても『いなかった』と伝えてもらいたいのだよ」
「わかりました」
ということは今後ここに国木田が来るのだろう。今後、というか太宰の様子を見る限りすぐ後だ。それを太宰は、クリスをお茶に誘う前から予期していたらしかった。自らとクリスの飲み物代を国木田付けにしていたのはそれでだろう。完全に嫌がらせだ。先日の携帯電話の件といい、この包帯男、同僚で遊びすぎではなかろうか。
じゃあね、と太宰が片手を振りつつ店を出て行く。カラン、と扉のベルが静かな店内に響いた。静寂に溶けていくその余韻を聞きながら、クリスはそっと目を閉じる。
太宰がどこまで掴んでいるのかはわからない。しかし、乱歩から話は聞いていないようだ。あの名探偵は約束を守ってくれているらしい。
『追われているんです。とある組織に、そして祖国に。わたしの身はあの国の……英国の重要機密だから』
人気のない廊下で告げた内容に、乱歩は眉を動かすことはなかった。ただ、静かにそこに立っていた。他国の重要機密――その一言で彼はわかったのだろうか。
この身に秘められたそれが、世界に知られてはならない類のものであると。
知られたら、再び戦火を巻き起こせるほどのものであると。
だから誰にも言わないで欲しいというクリスの言葉に頷いたのだろう。だから曖昧なクリスの答えに対して詳しく問い詰めてこなかったのだろう。それを安直に知り広めたのなら、己のみならず探偵社員全員の命が、この街そのものが、危機に晒されるとわかったから。
全てを言わずとも乱歩は理解した。聡い人だ。
「……それ故に厄介、ってね」
顔を上げて店員を呼んだ。水を一杯頼むと、すぐにグラスがテーブルに置かれる。水面を揺らした透明なそれを見つつ、クリスは自らの服をまさぐった。
「言ったはずだよ、太宰さん」
ポケットから出てきたのは、小さな黒いもの。体を近付けて来た太宰が忍ばせてきたこの小型機械に、クリスは勘づいていた。周囲の音を拾うそれをグラスの中にそっと落とす。
「わたしを甘く見るな、と」
ポチャン、と音を立て、盗聴器はグラスの中に沈んでいく。