第1幕
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***
支配人と挨拶を終え、三人は劇場内を案内してもらっていた。
「こちらが観客席になります」
支配人が重い扉を開けて中へとフィッツジェラルドを誘導する。差し出された手のひらに従い、三人はその扉の奥へと足を踏み入れた。照明のついていない広い空間に、上品な緋色の椅子が整然と並んでいる。その椅子達が向いている先に、広い舞台はあった。幕は上がっており、円形の明かりがその床を照らしている。
「ここで上演を行っています。日程は月によって違いますが、ほぼ毎日何かしらを上演していますよ」
通路を歩いて舞台へと歩み寄りながら、人の良さそうなふくよかな男性がにこにことフィッツジェラルドへ言う。ここを訪れた理由はクリスのためだったのだが、支配人は常にフィッツジェラルドへと話しかけている。それは仕方のないことだ、彼にとって代表人であるこの成金男は何よりも優先すべき客なのだから。
そして支配人のその対応に不満を持つ人間は、ここにはいなかった。
話し込む二人をよそに、クリスがふらりと舞台へと歩み寄る。憧れ続けてきたものが眼前にあるかのように、彼女は呆然とそちらへと歩み寄る。
彼女は舞台というものを見たことがないと、先程車の中で聞いた。舞台という場所も、舞台という芸術作品も、見たことがないのだという。けれどこの反応、全く知らなかったというわけでもなさそうだ。
「興味があるの?」
突然広い空間に響き渡った声は朗々としていた。カツ、と遠くから良く響く靴音が聞こえてくる。それは舞台の奥から聞こえてきた。クリスが驚いたようにそちらを見上げる。舞台袖から、女性が現れた。小麦色の肌が似合う背の高い女性だ。長い黒髪を後ろで束ね、すらりとした体の線を強調するかのようにぴったりとしたシャツとパンツを着こなしている。
「先程支配人から聞いた、新人さんね? 役者志望? 裏方でも手が足りてないから大歓迎だけど」
「おいおいコーディリア、勝手に話を進めないでくれ」
支配人が困ったように女性へと声をかける。
「どんなに君が優秀な女優だとしても、君には人を採用する決定権はないんだぞ?」
「けど、私が彼女を評価したら、参考にしてくれるんでしょう?」
「そりゃそうだけど……」
「新人には興味があるの。ちょっとお嬢さん、こっちにいらっしゃい」
支配人をあしらい、コーディリアと呼ばれた女性がクリスへと手招きする。突然のことに、呼ばれた少女はというと舞台の上の女性を見上げて立ち尽くしていた。しばらくして、え、と声を漏らす。
「……わたし?」
「この場にお嬢さんはあなたしかいないわよ。そうでしょう?」
「……お嬢さん……」
「男の子だったのならごめんなさいね、見た目で判断してしまって」
「えっと、そうじゃなくて」
わたわたとクリスが両手を広げる。慌てる彼女は珍しい。きょとんとする男性陣を横目に、クリスは何かを思うように視線を逸らした。
「……そういう呼ばれ方は、初めてだったから」
その言葉には、穏やかな声音が含まれていた。思わずほっと息をつく。彼女はいつも張り詰めたように黙り込んでいるか、心ここにあらずといった風にぼんやりとしているかの二択だったから、こうして他の人と普通に話している様子を見られたのは収穫だったかもしれない。
「そう。どこから見ても可愛らしいお嬢さんだけどね」
「え、えっと……」
「男前な女性だな、支配人」
フィッツジェラルドが支配人へと笑みを向ける。支配人はというと困ったように頭を掻いて薄い笑い声を上げた。
「はあ……まあ、男性役もこなす、うちの看板役者ですから」
「ほう」
「彼女に惚れる女性ファンは多いですよ」
少し自慢気に支配人が言った。それを聞いてコーディリアは「あんたも私に惚れてみる?」などと巫山戯てみせる。赤い口紅が照明に映えた。それに対しフィッツジェラルドはというと「あいにく俺には愛する家族が既にいるのでな」などとさらりと言ってみせる。違う世界に紛れ込んでしまったかのような居心地の悪さに、スタインベックは支配人と目を会わせて苦笑した。
「良い上司ね、お嬢さん。で、その階段を上がってこちらに来なさいな。ちょっとしたテストよ」
「テスト?」
「あなたの実力を見せてもらうわ」
コーディリアは悠然と舞台の上でクリスを待っている。クリスは困ったようにフィッツジェラルドを見遣った。彼女を歌手に、などと言っていた男はというと面白げに顎で舞台を指す。
「行け」
その言葉に決心がついたようだった。クリスが舞台への階段を上がっていく。その姿を見ながら、スタインベックはこそりと上司へ囁いた。
「……フィッツジェラルドさん、良いんです? 彼女、演技が何かも知らないんじゃ」
「その時はその時だ。彼女は感情の表現が薄い。ギルドに限らず、世間を生き抜くには誤魔化しや演技も必要だ。間近に役者を見ることができるこの環境は、彼女にはちょうど良い稽古場になるだろう。最悪裏方でも構わん。最終的には舞台女優をしつつ諜報活動をしてもらうが」
フィッツジェラルドが見つめる先で、クリスはコーディリアから本を手渡され説明を受けている。台本だろうか。
「……彼女をどのように育て上げるつもりです?」
「少なくとも、ギルドの戦力の一つにはする」
簡潔に答え、フィッツジェラルドは目を細める。
「……クリスを利用されないためには、クリス自身が自分を利用できるようにならなくてはな」
「じゃあやってみましょう」
コーディリアの張りのある声が響き渡る。軽やかな足取りで階段を降り、コーディリアはフィッツジェラルドらのそばへと駆け寄った。くるりと舞台へ向き直り、一人広いそこに立ちすくんだ少女へと片手を上げる。
「好きなタイミングで良いわよ。動きも好きにやって。それ全部を見て、あなたのふさわしいポジションを決めるから」
「いきなり難題だな、コーディリア」
支配人の囁きに彼女はウインクを返す。
「このくらいが良いのよ。演技ができる子なら、動きや声に感情を乗せようとするわ。舞台設置ができる子なら、どこに立てば一番自分が映えるかを考えられる。演出ができる子なら小道具や照明を最大限に利用できる。上手い下手は関係ないの、台本を読んで、どのように行動するかを見るのが目的よ」
なるほど、とスタインベックは舞台へと目を戻す。突然舞台で一人きりになったクリスは、台本を手に戸惑ったようにこちらを見ていた。彼女はどうするだろう。
しばらく台本に目を落としていたクリスは、肩で息を吐き出した後――台本を床に置いた。驚く観衆を前に、顔を上げる。
ふ、とその表情が緩んだ。
「――どうしましょう、今すぐ歌い出したい気分だわ!」
両手を大きく広げ、喜びに満ちあふれた表情で少女は高らかに告げた。
「素晴らしいわ! これほど素晴らしいことがこの世の中にあるだなんて! 生まれて初めての船旅、長らく願い続けた海の旅、それが今日、叶っただなんて!」
それは歓喜の声だった。少女はくるりと回って天を仰ぐ。光が少女を柔らかく包み、その輝いた表情を照らし出した。
「きっとこれは神が私に与えたもうた奇跡の船なんだわ!」
甲板の上で少女は胸の前で手を組んで目を閉じ、口元に微笑みを浮かべる。
「私はこの後、四十日四十夜を越えた朝焼けの中、神が新たに作りたもうた世界に降り立つの。それはどんなに美しい光景かしら! 海が久方振りに顔を出した太陽を映し出し、太陽が雨水の雫が落ちる大地へその輝きを届け、大地が広々としたその広大な土色に水をたたえて……いいえ、いいえ、想像もつかない!」
湧き続ける感情が、少女をくるりと旋回させる。ふわりとスカートの裾が広がった。先を綴じていた糸を断ち切った瞬間、一気に開花した花弁。
「ずっと待ってた……ずっと、待ってたの」
喜びを映し出す目から、涙がこぼれ落ちる。それは少女の目尻を離れ、宙を舞い、光を映し込んで輝いた。
「これが幸せ、これが喜び……これが自由、自由なのね!」
――知らない少女が、そこにいる。
解き放たれた喜びに舞い踊る少女が、そこにいる。
見知らぬ空の下、輝く太陽の日差しの下で、穏やかな風をまとった少女が。
見たことのない輝きをその湖畔の色に映した彼女の微笑みを、スタインベックは見たことがなかった。誰かを美しいと思ったこともなかった。造形の美ではない。晴れた空を見上げ続けたくなるような、岩肌を流れ下る川水の猛々しさと水しぶきに見惚れるかのような、絵や言葉で表現しきれない自然の美しさだ。
「――この先も必要?」
目元を拭いながら、その少女がぽつりと呟いた。その声に歓喜の色は全くない。舞台に立ち尽くすその姿は、見知った少女のもの――まぎれもなくクリスだった。崖から突き落とされたかのような衝撃に、スタインベックは息を吐き出そうとし、呼吸を止めていたことに気がつく。
「……いいえ、十分よ」
どこか呆然とした声が彼女に答える。
「……演技は初めて?」
「うん」
「そう、よね……」
コーディリアがぽつりと呟く。
「じゃなきゃ、こんなの、無理だわ」
「……どういうことだ、コーディリア」
支配人がようやくといった風に声を絞り出す。コーディリアが振り向き、その柳眉をひそめた。
「あれは演技じゃない。あの子、役になりきっているんじゃなく、役そのものになっているのよ」
「よ、よくわからないんだが……?」
「見ての通りよ。あの子にはね、自我がない」
その場にいた全員の目が舞台上の少女へと向く。突然の注目に、クリスは戸惑ったように身をすくめた。
「自我がないから、他人そのものになれる。……天才的だわ。けれど不安でもある。自我がないということは、誰にでもなれるということ。確立した自分がないということは、役に呑まれる危険性がある」
役に、呑まれる。
「普通、演技っていうのは自分の性格や思考を役に”近付ける”の。けど、あのやり方は自分の性格や思考に役柄を”上書き”しているような状態よ。洗脳に近いと言ったらわかるかしら。洗脳されると本来の自分を忘れる。それを何度も繰り返せば、操り人形のような意志も自我もない木偶になる。彼女にはその危険性があるの」
コーディリアはフィッツジェラルドへと向き直った。正面から、目の前の男を睨み上げる。その強い眼差しは意志を問うものだった。
「こちらからすればぜひとも欲しい逸材よ。でも、今のままでは壊してしまうかもしれない。あの子には難しい話だろうからあなたに判断を委ねるわ、上司さん」
強い眼差しが、交錯する。
「――あの子をちょうだい。ただし、あの子に自我がある状態で」
「俺が彼女に意志を与えろ、と?」
「そうよ上司さん。あの子を一人の人間にしてあげて。他人の言うことに従うだけじゃない、意志を持って選択をする人間に。あの子には演劇への興味がある、それをみすみす潰したくはないし、あの才能であの子を潰したくもない。良い話だと思うわよ。あなた、あの子に何かを企んでいるんでしょう」
「なぜわかる」
「何人もの男を演じてきたもの、そのくらい手に取るようにわかる」
切れ長の目がフィッツジェラルドを見据える。それはナイフの刃先のようだった。嘘も誤魔化しも通用しない、眼差し。そばで見ているだけで身が竦む。だというのに、フィッツジェラルドはというとコーディリアに悠然と笑ってみせた。
「さすが、と言うべきか」
「是非そう言って欲しいものね。――あの子が自分で考え自分の意志で行動を選択できるようにしてあげて。その様子じゃ、何をすべきかもう想像がついているんでしょう?」
囁くように言った後、コーディリアは舞台上のクリスに声をかけた。その指示に従い、クリスが舞台から降りてくる。近くに来た彼女へ、コーディリアは腰を曲げて視線を合わせつつ「合格よ」とウインクした。
「下積みの後、舞台の上で役者として働いてもらうわ」
「……役者に、なれるの?」
「あなたにはその素質があるわ」
「それって」
身を乗り出して、クリスはコーディリアに尋ねる。
「――わたしが、誰かが作ったお話を演じられるということ?」
その声が僅かにうわずったように聞こえたのは、気のせいか。
「勿論」
コーディリアが頷く。目を見開き、クリスは何かを期待するように唇を引き結んだ。初めて見る表情だ、何か演じたい作品でもあるのだろうか。
「下積みを終えたら、だけど。ともあれあなたは明日からこの劇団の一員よ。それで良いのよね、上司さん?」
コーディリアが試すようにフィッツジェラルドを見上げる。それは是と答えることを強制していた。強い女性だ、とスタインベックは思う。精神的な強さだけではない。相手を支配し使役する強さだ。
「ああ」
フィッツジェラルドが頷く。その声に、細めた眼差しに、スタインベックは身を凍らせた。
それは、人を統べる者の気配だった。子供の成長を思う男のものでは到底ない。
この人は、何かを考えている。何がかはわからない。けれど。
――酷く、良くないもののような気がしてしまうのは、気のせいだと信じたかった。