第1幕
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***
「ギルドは秘密結社だ」
車の中で、フィッツジェラルドは片手を広げた。
「構成員はそれぞれ本職を持っている。政府や大企業の要職についているものも多い。君は既に組織の一員だ、よって仕事に手をつけてもらいたい」
「……仕事」
フィッツジェラルドの向かいに座ったクリスが、ぽつりと呟く。
「仕事なんて、したことがない」
「安心しろ、君に似合う仕事を用意しておいた」
そう言ったフィッツジェラルドの顔を、スタインベックは盗み見る。
クリスは元々諜報と暗殺を主に行う組織の出た。それ以前は実験体として過ごしている。彼女に似合う仕事、と聞いても、情報屋だとか潜入捜査員だとか、そういった類のものしか思いつかない。しかしこの車は堂々と街中を横断している。どこへ行くつもりなのだろう。
「……仕事、して良いの?」
クリスがそっとフィッツジェラルドへ問う。
「わたしは、見つかりたくない」
「英国にか。問題ない、今から行くところは俺の企業の一つだ。君の国籍もパスポートも用意が終わっている。……ああ、そうだった」
何かを思いついたように、フィッツジェラルドが膝を打った。
「クリス、君のファミリーネームのことだが、勝手に決めさせてもらった」
「え?」
「マーロウだ」
フィッツジェラルドは告げた。
「クリス・マーロウ。それが君の名だ」
少女がそれを口の中で反芻する。悪い気はしないようだった。そして、そっとフィッツジェラルドを見上げる。
「……フィー、ありがとう」
予期しない一言に、フィッツジェラルドは一瞬目を見開いた。そして「ああ」と答える。
「その簡略化された呼び方を何とかしてくれたのなら、純粋に喜んでやろう。ホーソーンから聞いたが、記憶力は良い方らしいな? 俺の名もそろそろ覚えただろう」
瞬間、少し和らいでいた少女のまとうものが変わった。気付かれたくないところに気付かれてしまったかのような、気まずそうな雰囲気。それに気付かないフィッツジェラルドでもなく、とても良い笑顔でクリスに顔を近付ける。
「どうした」
「……呼びにくい」
スッとそっぽを向いてクリスは言った。
「ということは初めから俺の名を覚えていたな?」
「……フィーって呼んでも反応してる」
「そういう呼ばれ方はされたことがなかったからな、嫌でも耳に残る」
「じゃあ問題ない」
「……スタインベック君、どう思う」
「そんなタイミングで話を振らないでくださいよ」
フィッツジェラルド相手に簡略化した名で呼びたがるなど、そうそうない。彼女は案外、人をからかうことができるひょうきんさを持っているのかもしれなかった。
「仲が良さそうで良いと思いますよ」
「俺は認めんぞ」
ふんぞり返ったフィッツジェラルドに、クリスは物言いたげに半眼を向けた。仲が良いやら悪いやら。巻き込まないでくれたのなら、こちらとしてはどうでも良い。スタインベックがため息をついたその時、車が停止した。
「着いたな」
外からドアが開かれる。降りた先にあった建物に、スタインベックは息を呑んだ。
大きなエントランスホールがガラス張りの入り口から見える。古代の建築物を思わせる太い柱が内部に乱立したその吹き抜けの空間は、入った瞬間から異空間を感じさせてくれるだろうことが予想できた。巨大なこの建物は見上げるほどに高く、そしてその見上げた先に銀色のプレートを貼り付けている。そこに刻まれた文字を読めば、ここが何の建物かがわかった。
「……劇場」
「俺が代表を務めるシアターだ」
「こんなこともやっていたんですね」
「空港や鉄道と連携し客の集約を図っている」
「なるほど」
最後に車から降りたクリスは、魅入られるようにその建物を見上げながら数歩歩み出た。
「……ここが」
「君は歌が上手いだろう。ここでプロの仕事ぶりを見て歌手を目指すのはどうだ」
フィッツジェラルドの発言にスタインベックは思わず彼を凝視する。
「……あれを、公的な場でやらせるんですか」
いまでもはっきりと覚えている。
崩落した諜報組織の敷地内で彼女が歌った歌を。その時目の前に繰り広げられた幻覚を。
あれは精神操作に匹敵するほどのものだ。聴く者全てが錯乱し幻覚を見る。心を揺さぶり我を失わせる何かが、彼女の歌にはある。それを無差別に使わせるというのか。
「そうだ」
フィッツジェラルドはその笑みを深める。
「人に衝撃を与えるほどの実力だぞ、使わない手がないだろう。彼女は有名になる、この劇場の専属歌手にでもすれば、収益が上がるのは違いない」
「……そうですね」
この人は、そういう人だ。
「さて、早速支配人に顔を出しに行くか……」
フィッツジェラルドが歩き出す。スタインベックがそれに従う。が、一人、その場に立ちすくんでいる少女がいた。動かない彼女へと目を向け――フィッツジェラルドもまた、立ち止まって呆然とする。
「クリス……?」
――少女は劇場を見上げていた。瞬きを忘れるほどに、ガラス張りの正面玄関を見つめている。半開きになった口からは今にも感嘆が漏れ出るようで、緑に縁取られた青は大きく見開かれ、透き通っている。
「……気に入ったようだな」
フィッツジェラルドがそっと呟いた。