第1幕
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***
「組織戦の時の拾い子、であるか」
近くの喫茶で、ポオはそっと呟いた。何かを考えている素振りを見せる探偵を横目に、ホーソーンは隣に座るクリスへと目を向ける。駅の近くの店に入ったのは、彼女の経験のためだ。元よりこの外出はそれを目的としている。ポオがこの場にいるのは、彼が妙にクリスの話を聞きたがったからだ。
勿論、全てを話すようなことはしない。ポオはギルドの一員ではあるが、クリスを取り巻く事情について知らせておく理由はなかった。フィッツジェラルドは彼女を利用する気しかないが、彼以外のメンバーは皆、彼女の事情に触れることを躊躇っている。それほどにクリスは危険分子だった。
「お待たせいたしました」
店員が三つのカップを持ってくる。二つは珈琲、一つは紅茶だ。クリスは飲み物に何があるのかも知らないようで、メニューを見せても困ったように首を傾げるだけだった。珈琲は早いかと思ってホーソーンが選んだのが紅茶だったのだ。
カチャ、と目の前に置かれた白いカップを、クリスは覗き込んだ。茶色と呼ぶには黄味がかった夕日色に、彼女の青が映り込む。
「……これが、紅茶?」
「クリス君は普段何を飲むのだ?」
「……水?」
こてんと首を傾げるが、こちらに問われても答えは有していない。がしかし、彼女の警戒心を思えば、水以外の色のついた液体を口に含むとも思えなかった。今でさえ、この紅茶なるものを飲んでくれるかどうかわからないのだ。
クリスはそっとカップを手に取る。その手元を覗き込むように、彼女の膝に乗っていたカールが首を伸ばした。少女と小動物は、今ではすっかり仲が良い。
「……不思議な色」
そう言って彼女は紅茶へと顔を近付ける。
「匂いがする」
「紅茶は色と香りと味が楽しめますからね」
「毒の臭いじゃない……」
そっと口をつけ、カップを傾ける。口に含んだそれを味わうように、恍惚と目を閉じる。その仕草の一切を見ていた。目が離せなかった。伸びた背筋、手入れのされた肩までの亜麻色の髪、白い肌、柔らかな素材のワンピース。上品というものがそこにある。華奢さを表現した喫茶の椅子にちょこんと座り、少女は紅茶を味わっていた。喫茶特有の静かなざわめきが、聞こえてくるクラシックが、窓から差し込む穏やかな日差しが、鮮やかな背景となって少女を彩っている。
カップから口を離し、クリスは両手でそれを持ったまま小さく息を吐き出した。
「美味しい」
それは安堵の響きを持っていた。
「これ、好き」
――ホーソーンの言う通りだった。信じて良かった。
あの言葉を思い出す。あの言葉には、何度も裏切られてきた過去が垣間見えた。故郷を脱した後、諜報組織に身を隠すまで、彼女は何度か英国の手に間近まで迫られている。匿ってくれた見知らぬ人に売り渡されそうになった時もあったと聞いた。彼女はその身をもって、疑心を学び、生き延びてきたのだ。
「牧師殿」
ポオが囁くような掠れた声で呼んでくる。何となしに「何ですか」と答えれば、前髪に隠れがちな隈の目立つ目がホーソーンをしっかりと捉えてきた。
「我輩にはクリス君の詳しいところはわからない。けれど一つだけ確かなことがあるのだが、彼女を外に出すのはあまり良いこととは思えないのである」
――犯人を追及する時の探偵の目が、そこにある。
「牧師殿は彼女が組織戦の時の拾い子だと言った。しかし我輩には子守をしているようには見えないのである、牧師殿にそのようなことを言うと失礼なのかもしれないが……監視を兼ねていると、我輩は思うのだ」
先程飲んだ珈琲の苦みが、今更口内に広がってくる。
「先程彼女は『カールを切り刻んでも怒らないか』と言った。つまり彼女には動物を切り刻む技術か経験がある。その時点でこの子が表社会で育った普通の子供ではないことは確実。加えて、牧師殿はその手に十字架を隠し持った……つまり異能力の行使を考えた。普通の人間相手に牧師殿の異能は殺しに行くようなものである、子供相手では尚更。つまり彼女は普通ではない、強いて言うなら、牧師殿が公然の場で異能を使うことを躊躇わないほどの危険な存在――一番に考えられることは、異能力者である」
ぼそぼそとした声はクリスには届いていない。彼女はカールと戯れている。その聡い耳が、この推理を拾い聞いていなければ良いと願った。
「異能力者であるならば拾い子という説明も納得がいく。つまり、その異能を買われ、組織で世話をしている……今の牧師殿は任務中ということであるな。そこで気になるのは、クリス君が無知であること、そして獣を異常に恐れるということである。見たところ年は十を超えている、ならば犬猫程度見慣れているであろう。けれど先程のカールへの様子は、動物そのものを知らないようだったのである。そこから考えられるのは、彼女は長い間何かに閉じ込められていて、外界に触れていなかったという可能性」
目の前に浮かぶ小さな埃の一つ一つを視認するように、ポオは小さな思考を一つ一つ積み重ね、言葉に換えていく。
「先程牧師殿は『組織戦の時の拾い子』と言った。”拾い子”の部分が正しかったことを踏まえると、おそらく”組織戦の時の”の部分も正しい。つまり彼女は、敵組織に捕らえられていた、もしくはそこに隠れ住んでいた。おそらく後者である、なぜなら彼女は動物を知らなかったのに動物を切り刻むことができる自信がある、つまり対人の戦闘能力がある。けれど外界は知らない、つまり前衛の戦闘要員ではなく裏方、潜入調査系か情報操作系の技術者であるな。まとめると、彼女は『敵組織から異能を買われてギルドに来た諜報要員』である」
――何も言えなかった。
これが、とホーソーンは静かに隣に座っている男を見つめる。甘く見ていたつもりはない。けれど、そこまで知られることになるとは思ってもみなかった。
黙り込むホーソーンの横で、ポオはそっと珈琲を口に含む。
「……ここまでわかると、疑問が二つほど出てくるのである。一つは”外界を知らない”という点。先程我輩は彼女が外界を知らない理由を”敵組織に隠れ住んでいたから”と推理した。けれど組織に隠れ住む理由がわからないのである。裏社会の組織ならば堂々と闇を駆けていても表社会に顔が出ることはまずない、諜報員なら尚更である。裏社会にいながら外に出るのを拒んだ理由、つまり裏社会の誰かに姿を見られることすらも困るということだろうか」
これは疑問だった。つまり、答えなければいけない。ちらとクリスを見遣り、ホーソーンは答えを考えた。短く、的確な一言を脳内に探す。
「……表社会も裏社会も牛耳ている者に、追われているのです」
「理由は異能であるな」
さらりと言い、ポオはいつもより小さな声をさらに低くする。
「これが二つ目の疑問である。彼女の異能は何か。先程牧師殿は自身の異能を彼女に使おうとした、それを躊躇わなかった。つまり彼女の異能は牧師殿と同等か、それ以上である。けれどあの時彼女はおそらく隠していたナイフを出そうとしていた。異能を使おうとしたわけではない。けれど牧師殿は異能が使われることを想定した……つまり彼女はまだ自分の異能を操れておらず、いつ暴走するかがわからない。異能を十分に操れもしない異能者をギルドが買った理由は何か? ただ一つ、強力な異能力だからである。ならば『表社会も裏社会も牛耳ている者』もそれを求めることは確実。異能を統べる者は世界を統べることができる」
「今は戦時中ではありませんよ」
「大して違いはないのである。戦争は目に見えているだけであって、戦いや対立は常に世界中に散らばっている。……おそらく彼女を追っているのは国か、それ以上のものであるな。表社会も裏社会も支配できる存在などそうそうないのである」
「ええ」
「となると彼女はギルドの手に負えるものではない。ギルドは北米の異能結社でしかなく、国規模のものに対抗できる存在ではないのである。それで彼女を堂々と外に出していたのなら、いつかはその追っ手がこの国に来る。彼女を外に出すことは、彼女だけではなく牧師殿にも、我輩にも、この街にもこの国にも危険なことなのではないかと我輩は思ったのだ」
そこまで言った後、突然ポオは肩に首を竦めるように縮こまった。
「……た、たくさん喋って疲れた……」
そういえば彼の声をこれほどたくさん聞いたのは初めてかもしれない。事件解決の仕事をしてきた帰りだと言っていたので、今日は普段の何倍も喋っているのだろう。
「終わった?」
そう尋ねてきたのは淡白な少女の声だった。クリスはカールの頭を撫でながらこちらを窺い見ている。聞かれていたのか、とぞっとした。
「少しだけ。全部じゃない」
ホーソーンの考えたことがわかったかのように、クリスは首を振って答える。
「……ポオは、やっぱり凄い人なんだ」
「……驚きました。あなたはこの手の話題を嫌がる。私達の話が聞こえていたのなら、狂乱するのかと思っていました」
「うん」
カールを撫でる手が止まる。その手は、微かに震えていた。
「……ちょっと、寒い」
「えっと、その、悪かったのである……本人がいる前でこのような話を……」
「ホーソーンが、話を止めなかったから」
ポオの謝罪を聞き流し、クリスはこちらを見上げてくる。不安に揺れる青が、そこにある。
「ホーソーンが大丈夫だと判断したなら、大丈夫なんだと思った」
「……はい?」
「ホーソーンの言うことは正しいって、今日知った。そのホーソーンがポオにわたしのことを話した。なら、大丈夫なんだと思う」
――ホーソーンの言う通りだった。信じて良かった。
あの言葉が、彼女の気持ちの全てだったのだ。
ホーソーンは目の前の少女を見つめた。その眼差しを見返す。
青がそこにある。緑に縁取られた青が、真っ直ぐにホーソーンを捉えている。彼女に信じてくれと言った、それは難しいことだと思っていた。彼女は疑心しか知らず、信じるということが何かも知らないのだと思っていた。けれど違ったのだ。
彼女は人を信用するということを知っていた。盲信に近い信頼を相手に向けることを知っていた。彼女がたまに口にする男性の名を思い出す。彼のことをクリスは友人と称した。そうだ、彼女は既に彼を通して「信じる」という動作が何なのかを体験している。彼女は信頼を知らなかったのではない、信頼に足る人間に、今まで遭遇できなかったのだ。
そして彼女は今、自分に信頼を向けてきている。
「……そう、ですか」
そう言うだけで精一杯だった。けれど、それで良いと思った。
今この胸に広がった安堵に似た何かは、言葉で表すには曖昧過ぎる。