第1幕
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***
人が多すぎるのも良くないと思ったホーソーンが選んだのは、駅だった。繁華街で買い物や食事をしてみるのが一番実践的だろうが、彼女の心的負担と非常事態の発生確率を考え、人混みは避けることにしたのだ。公共交通機関についても教えてある、序盤はそれについて体験してみるのが良いだろう。一つ隣の街まで行き、駅前を見て周り、そして帰ってくる。簡単なルートだ。
駅の建物を見上げたクリスの第一声は短かった。
「初めて見た」
彼女の出身である村は他の村との交流がなかったと聞く。交通網などなかっただろう、その感想は当然だった。不思議なものを眺めるように駅を見回し、そしてその中に入っていく。落ちつきなく周囲を見回し続ける少女を、ホーソーンは背後から見守っていた。
彼女が好んできているシンプルなワンピースに、髪と顔を隠すためのつば広の帽子。軽やかな服装は少女を普通の子供に見せていた。この子供が世界を戦火に巻き込む原因になる異能力者だなどと、誰が気付くだろう。
彼女はこうしてみると何の変哲もない子供でしかない。なのに、彼女は異常なのだ。その差異に、彼女は今後苦しむのだろうか。
「……おや」
ふと視界に入ってきた男の姿に、ホーソーンは思わず声を上げた。暗い印象を抱かせる、背を丸めた男がこちらへと歩いてきている。その腕に抱えているのは分厚い封筒だ。うねる黒髪は長く、彼の目元と首元を覆っている。気弱さを表したような足取りで歩いている彼は、何かをぶつぶつと呟いていた。こちらに気付く様子はない。
「ポオ殿」
「ふぁあッ!」
奇妙な声を上げて、ポオは大きく体をびくつかせた。どさどさどさ、とその腕に抱えていたものが地面に落ちる。紙束だ。足元に散らばった紙束に目もくれず、ポオは両手両足を空手の構えのようにしたままホーソーンを凝視する。
「お、おおおおおお驚いた……誰かと思えば牧師殿であるか……」
「それは申し訳ありません」
驚かすつもりはなかったのだが。というか、それほど驚かれるとは思わなかった。同じギルドのメンバーだが話す回数は少ないので、驚かれても仕方がないのかもしれない。若干の申し訳なさから、ホーソーンは地面にしゃがみこみ地面に散らばった紙を拾い上げるのを手伝う。ちらと見れば、それは彼の細々とした英字がぎっしりと詰め込まれた、何かのメモ書きだった。
「これは……?」
「き、今日の殺人事件の詳細を記載しておいたのである。小説の、参考になると思って……」
「ふむ、珍しいと思ってはいましたが、外出の理由は事件解決の依頼でしたか。ともあれ勉強熱心なことです」
「ち、違うのである、これは、その、乱歩君への復讐のための……」
「ホーソーン」
ふと小さな声が名を呼んでくる。見下ろした先で、クリスが不思議そうにポオを見遣っていた。
「誰?」
「ギルドのメンバーですよ。エドガー・アラン・ポオ。知の巨人と称される探偵です」
「探偵?」
何度か瞬きをして、クリスはポオの顔を見つめる。ポオは突然現れた少女に完全に固まってしまっていた。彼はオルコットと同様、人付き合いを不得手としている。初対面であるクリス相手に、ポオは緊張してしまっているらしかった。
「あ、あの、何か……」
「……凄い人なの?」
「え?」
「探偵は凄い人なんだって、本で読んだ。あなたも凄い人なの?」
ぽつぽつと単語を連ねるように言い、クリスは小さく首を傾げた。そういえばあの本棚には探偵小説も数冊収まっている。それも読んでいたのか。
凄い人、という何とも大雑把で抽象的な言葉に、ポオはというと呆然としていた。半開きにした口で「凄い、人」とそれを反芻する。
「……わ、我輩が、す、すす凄いと……?」
尋ねられているのはポオの方だというのに、彼は逆にそれをクリスへと聞き返している。よほど驚いているのだろう。わたわたと両手のひらを中途半端な位置で揺らしつつ、ポオは鬼気迫る表情を髪の隙間から覗かせながらクリスへと迫った。が、クリスはというと戸惑ったように身を引き、後ずさる。こちらの少女も別の意味で、人付き合いに慣れていないのであった。
「わ、我輩は、そんな、凄いなどという……ものでは……だって我輩は乱歩君に……推理勝負で……」
何かを思い出したように、ポオは語尾を萎ませていく。視線が下がり、彼は暗いオーラを出しながら俯いた。
その背から何かが飛び出してくる。
「きゅッ」
ぽーん、と見事なジャンプをして、それはポオの背後から彼の頭部へと飛び移った。そういえば姿が見えなかったが、彼には常にアライグマのカールがついてきている。今日も例外ではなかったようだ。
「――ッ!」
途端、クリスが声にならない悲鳴を上げた。身を竦ませ、驚きと怯えに目を見開きながら小動物と距離を置こうとする。が、足をもつれさせて尻餅をついた。
「いッ」
「クリス!」
「だ、大丈夫であるか?」
突然のことに驚いたホーソーンと同様、ポオもまた素っ頓狂な声を上げる。小心ながらも彼はそっとクリスの側にしゃがみこみ、少女の顔を覗き込んだ。その肩口に軽々と飛び乗ったカールが、クリスへと顔を近付ける。
「……嫌」
カールを凝視しながらクリスはただ一言呟いた。そして、震える手で必死に後ずさろうとする。
「何、これ……獣? これも〈赤き獣〉なの? わたしを殺しに来たの?」
「赤き……何と言ったであるか?」
ああ、とホーソーンだけが現状を把握した。クリスは閉鎖された村で育ち、その後は諜報組織に所属している。生きている動物を見る機会があまりなかったのだろう。彼女にとって獣とは排除すべき人間の天敵〈赤き獣〉であり、彼女はそれに異常なほどの恐怖心を覚える。
「違いますよ」
言い、ホーソーンはポオの肩に乗った小動物へと手を差し伸べた。意図を察してか、カールは大人しく頬を撫でさせてくれる。思った通り、クリスは信じられないものを見るような顔でホーソーンとカールを見つめていた。
「これはアライグマという動物です。人間と同じく、神に愛されているものの一つですよ」
「……〈赤き獣〉じゃ、ない?」
「あなたの故郷以外の場所に、それは存在しません」
「本当に?」
「ええ」
信じろ、という方が難しいかもしれない。クリスは疑うような目つきでアライグマを見つめている。大丈夫だと教えるためにカールを撫でてみせたが、あまり効果は期待できなかっただろうか。
「えっと、クリス君、と言うのであるか?」
ふと、ポオがクリスへと話しかけた。いつも小さい声が更に小さい。けれどクリスはそれを聞き取り、そして顎を引くように頷いた。
「我輩はポオ。こっちはカール」
「きゅッ」
肩からそれを下ろし、胴体を掴んでクリスの前に差し出す。ポオに合わせてカールが鳴いた。びくりとクリスは肩を揺らす。けれどそれを気にする様子もなく、ポオはそっとカールを彼女に近付けた。
「触ってみるのである」
「さ、触って……これを……?」
「カールは噛まないので安心するのだ。我輩はよく噛まれるけど……」
「それは、あなた”だけ”が噛まれるということですか?」
ホーソーンの一言にポオは「う」と言葉を詰まらせた。どうやらそのようである。
カールを目の前にしたクリスはしかし、そっと自らの太ももに手を伸ばした。そこにナイフを隠し持っていることはミッチェルから聞いている。
「……切り刻んでも怒らない?」
「きゅッ!」
「怒ります」
目を丸くするカールの鳴き声とほぼ同時にホーソーンは言った。もしもの時は自分が止めよう、とホーソーンはそっと十字架を取り出して手の中に隠した。
一瞬不満げに目を細めた後、クリスはそっと手を持ち上げてカールへと指を伸ばした。そろ、そろ、と見ているこちらが苛々してくるようなゆっくりとした速度で、彼女はアライグマに指を近付けていく。
その柔らかな毛先に指の腹が触れた瞬間、クリスは火に触れたかのように素早く手を引っ込めた。
「ど、どうしたのであるか? 我輩そろそろ腕が疲れて……」
「……なんか、ちくちくした。毒かもしれない」
「毛の先は尖っていますから、その感触ですよ。無害です」
「本当に?」
「ええ」
クリスがホーソーンへ顔を向ける。そこにあったのは恐怖とは少し違う表情だった。不安、か。言葉少なに見上げてくる少女へ、ホーソーンは微笑んでみせる。
「本当です」
アライグマに触る程度でここまで手間取るとは思わなかった。もういっそその小さな手を掴んでカールへ強引に押しつけてやりたくなる。が、これは好機だ。彼女は未だに誤った知識に縛られている。ここでそれを解消すれば、今後はもっと指導が楽になるかもしれない。洗脳を解くのは難しい。生まれついてからずっと浸ってきたものならば尚更だ。
再び手を伸ばして、クリスはカールの毛に指先を軽く乗せる。そして、そのままカールの頬を撫でた。先程ホーソーンがしてみせた動作をそのまま、繰り返す。カールは黙ってそれを受け入れていた。何度も何度も、少女の指はその柔らかな毛並みを撫でる。
ポオがカールを地面に下ろした。トッと足をつけたカールは、迷うことなくクリスへと駆け寄り、前足をその膝へ乗せる。その小さな体へ、今度は両手を滑らせた。何度かそうした後、ポオがしていたようにカールの胴をそっと掴み、持ち上げる。
そこにいたのは動物と戯れる少女だった。慣れない手付きで、しかし大切なものを慈しむように、その柔らかな全身を撫で続ける。カールがそれに応えてクリスの手に顔を押しつける。
「……本当だ」
腕にカールを抱きかかえて、彼女は再びホーソーンを見上げた。
「これ、〈赤き獣〉じゃない」
ほっとした様子で、彼女はそう言った。強ばっていた頬が緩み、微かに口端が上がっている。無表情に近かったが、けれど確かにそれは。
煌めく青が光を受けて緑を縁取る。亜麻色が艶やかに金を宿す。柔らかな表情を浮かべた少女が、そこにいる。
「ホーソーンの言う通りだった。信じて良かった」
ぽつぽつと単語を並べたような淡白な言葉。けれどそれは、予想だにしないものだった。
信じて良かった、などと。
「……それは、良かった」
ただそれだけ言い、ホーソーンはクリスを見つめる。自分がいつの間にか笑んでいることなど、とうに気付いていた。