第1幕
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[Act 1, Scene 5]
パチン、と壁のスイッチを押せば、薄暗かった部屋の天井の照明が点いた。人工的な光が、部屋の全貌を明らかにする。
「……すごい」
ホーソーンの後から入ってきたクリスは、感嘆であろう声を漏らして部屋を見回した。その目に映るのは、壁一面を覆う本棚だ。天井まである背の高いそれは、隙間なく本を詰め込まれている。
「この棚にある本が聖書及び聖書に関する書物です」
「それが、神の言葉?」
「ええ」
「全て?」
「そうです」
頷いたホーソーンから、クリスは再び本棚へと目を移す。相変わらず表情はわかりにくいが、微かに見開かれた目は驚嘆を宿しているようだ。恐らくはこれほどたくさんの本を目にする機会すらなかったのだろう。
本棚を見上げるクリスを眺めつつ、ホーソーンは目を細める。
偽りの理想郷から突然突き落とされた少女。原初の人間は神に嘘をついたことから楽園を追放された。ならば彼女の罪は何だろうか。作られたとはいえ幸福に違いなかった彼女の故郷は、彼女という存在の何を見、拒み、追い出したのだろう。
恐らくは、と思案する。その身に受けた異能の強大さだ。異能は必ずしも所持者の助けになるとは限らない。彼女はその強大さ故に、あらゆる権力に欲され、求められる。彼女の異能は天候操作だ、人間相手では無敵に等しく、しかも彼女はそれを無制限に近い範囲で行使できる。大戦中に彼女が英国でその異能を発現していたのなら、大戦は様変わりしていただろう。
しかし奇妙なことがある。クリスの話を聞く限り、彼女は異能を発現し発動した直後、もう一人の友から逃げるよう説得されている。つまり、彼女の異能の強さは彼女が異能を手に入れる前からわかっていたのだ。あらかじめ異能の強さを測れる方法があるのだろうか。
であれば、彼女の友らは”彼女がいずれ強大な異能者になり世界を破壊できる”ことを知りつつ、研究を進め、彼女に異能を発現させたのだろうか。国の研究機関で働いていたとしても、それでは彼女が哀れだ。彼らが唯一、彼女を強力な異能者という立場から遠ざけることができた人物であっただろうに。
彼女は――クリスは、友にとって研究材料でしかなかったのだろうか。しかしそれならわざわざ真実を告げて逃げるよう諭す必要がない。せめてもの罪悪感か。合理的に世界の真理を追求する科学者が。
奇妙な点が多すぎる。
「あ」
ふと上がった声にホーソーンは思考を止めた。と、背伸びをしたクリスが本棚から本を抜き取ろうとしている光景に気がつく。彼女の細い指で引き出されかけた本が、彼女の手をすり抜けて落ちていく。
あ、と思ったのはクリスだけではない。
アンバランスに引き抜かれた本につられて周囲の本も本棚から落ちた。それらはまるでクリスに怒りをぶつけるように、彼女へとなだれ落ちる。
ドサドサドサッ!
「わ、わわわ……!」
「……おや」
目を瞬いたホーソーンの前で、クリスは床に座り込んでいた。と、その頭上へ一冊の本が落ちていく。他の本から遅れてするりと落ちたそれは、その亜麻色の髪の頭頂部へと見事に落下してみせた。
ゴン、と重い音が聞こえてくる。
「あたッ」
小さな声が上がった。
「……おやおや」
くぅ、と呻きながらクリスが頭を抱える。僅かに涙がにじんでいるのは気のせいではないだろう。ここの本棚にある本はどれもそこそこに分厚い。かなりの衝撃に違いなかった。
「大丈夫ですか?」
そばにしゃがみ込み、手を差し伸べようとする。それは彼女の身を心配しての行動だった。けれどクリスはまるで殺意に怯えるかのように身をすくめてホーソーンを凝視する。その青の眼差しを見つめ、ホーソーンはため息をついた。
「……先は長そうですね」
「ご、ごめんなさい」
戦慄く唇から声が漏れる。
「ごめんなさい、たぶん大丈夫だと思います」
言いながらクリスは慌てて床に落ちた本へと手を伸ばす。その一つ一つの中を確認し、折れや破れがないかを見、表紙についた埃を払い落とす。その慌ただしい仕草に、どうやら彼女はホーソーンが怒っていると思っているらしいと察した。大丈夫か、の問いかけは本に対して発されたと思っているのだろう。
「違いますよ」
否定の言葉にクリスは本を拾う手をビクリと止めて身を硬くした。そんな彼女へ、ホーソーンはなるべく笑みを浮かべて顔を覗き込み、再び手を差し伸べる。
「本ではなく、あなたに怪我がないかと言ったのです」
「……あの、先生」
「私の名はナサニエル・ホーソーン。神に仕える者ですが、先生ではありません」
「えっと、じゃあ、ホーソーン……?」
「何でしょうか」
「どうして、そんなことを?」
なぜ自分のことを聞くのかとばかりにクリスは大きく目を見開く。この数日でわかったことだが、彼女は決して感情がないわけではない。感情の表現が薄いか、感情そのものが薄いかはわからないが、心の起伏は確かに存在するようだった。そしてその中で恐怖という感情が一番強く彼女に表れやすいらしい。
それは、彼女が友の殺害という恐怖を経験したからか。
「本よりあなたの方が心配だからですよ」
「なぜ?」
「あなたがギルドの仲間だからです」
「仲間……?」
「クリス」
名を呼べば、少女は顔色を窺うようにそっと視線を向けてきた。その目を覗き込む。その奥に秘められた色を探すように、その色に言葉を届けようとする。
「あなたに神を教えます。あなたが学んできた神ではない、本当の神を。信じるのは難しいでしょう。それでも良い」
この言葉は、彼女の頑なに塗り込められた心に響くだろうか。
「まずは私を信じなさい。あなたに信じてもらえるよう、私も努めますから」
「……信じる……?」
クリスはその言葉を初めて知ったかのように反芻した。深緑が青を縁取る。その湖畔の色を見つめる。
いつか、この色が心の底から微笑むことがあるとしたら。
きっと、その時の彼女は、どんな花よりも鮮やかで美しいのだろう。