第1幕
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赤が、舞った。
三日月を思わせる薄い銀色が、いくつも宙に生じた。草を刈る鎌のように目の前の巨体を切り裂く。大きな塊が瞬時にたくさんの小さな塊に変わる。
ぼたぼた、と欠片が少女の全身へと降り注いだ。
どこからか歓声が聞こえてくる。やったぞ、〈赤き獣〉は倒された、と誰かが叫んでいる。
「……あ」
呆然と座り込んだまま、少女は己の頬へと手を伸ばす。そこに張り付いたものをつまみ取り、手のひらに乗せた。
赤い肉片。
指で摘めば簡単に変形し、しかし力を緩めればすぐさまその形を取り戻すほどの弾力性のあるそれが、部屋のあちこちに散らばっている。
手のひらに乗るそれにはまだあたたかさが残っていた。
頭から被った赤い液体にも、そのぬくもりは含まれていて。
――クリス。
優しい手が、頭を撫でてくれている気がした。よくやったね、と褒めてくれている気がした。
けれど。
「……は、はッ」
どうして嬉しくないんだろう。
この化け物は〈赤き獣〉で、自分は念願叶ってようやくそれをこの手で殺すことができたのに。
頭上で歓喜する村の仲間達を守ることができたというのに。
どうして、どうして、ちっとも嬉しくないんだろう。
『特異点指数上昇、止まりません!』
まだ、声が聞こえてくる。
『本当だったのか……!』
いつもは静かに神様の話をしてくれる声が、うわずっている。
『彼の理論は、正しかった……無抵抗異能の、人工発現……素晴らしい、素晴らしい!』
誰かが叫んでいる。
『素晴らしいよウィリアム君! 君は”その身をもって”理論を照明した! これで我が国は世界を支配できる!』
だれかが、さけんでいる。
その名を。
あの人の名を。
「……ねえ、ウィリアム」
強い風が耳元で轟音を立てる。
「やったよ。わたし、やっと、できたよ」
ばき、と何かにヒビが入る音が連続する。
「いるんでしょ……見ててくれたんだよね……わたし、初めて役割が果たせたんだよ……初めて〈赤き獣〉を倒したんだよ……?」
『まずい……建物が壊れます! 避難を!』
「どこにいるの、ウィリアム……・?」
ねえ、答えてよ。
姿を見せてよ。
「返事をしてよ、ここに来てよ、お願いだから、お願いだから、会いに来てよウィリアム……!」
叫ぶ。
「嘘だって、言ってよ……!」
風が暴力を振るう。叫びを乗せたそれは、ヒビの入った壁を崩し、天井を割り、そして、大きく渦を作り出し――建物全体を吹き飛ばした。
***
「……雨が、降ってた」
クリスはぽつりと声を漏らす。
「教会は欠片ばかりになっていて、たくさん人が倒れていて……みんな死んでた。潰れたり、折れたりしてて……ベンだけが、いた」
静かな廃ビルの中で、クリスの声は静寂の帳を揺らすように小さく、ささやかだった。その声が告げるのは、穏やかな毎日、あたたかな日だまりを思わせる優しい記憶、そして。
その日々の終焉。
「ベンが、言ってた。逃げて、生き続けろって。死ぬなって。だから、逃げた。あの場所から。……あちこちで盗んだり匿ってもらったりしながら逃げ続けて、しばらくして近くの組織に拾ってもらって、そこでいろんなことを教えてもらった」
「それがあの、諜報組織だったというわけか」
フィッツジェラルドに頷き、クリスはその真っ直ぐな目で己の居場所を奪った上司を見つめた。その眼差しに、スタインベックは目を細める。
良い顔つきをするようになった。初めて会った時から数日しか経っていないというのに、別人のようだ。今の彼女の眼差しは木々に拘束され埃にまみれた子供の眼差しではない。死に怯え体を縮こませる子供ではない。強力な相手と真正面から対峙し、己の足でその場に立つことができる、一人の人間だ。
「一つ確認するが」
フィッツジェラルドがふと口を開く。
「君が故郷を離れる際、雨が降っていたと言ったな」
「降ってた。たぶん、わたしが降らせた」
「火はどうだった」
「火?」
きょとんとクリスは目を丸くする。なぜそんなことを聞くのかと言いたげな反応だ。
「知らない。あの場所はいろんなものが壊れてただけ」
――五年前ロンドン郊外の森で火事が発生、焼け跡から居住地があったことが明らかになりました。
ホーソーンの報告では、クリスの今日と思われる場所は焼失したのだという。しかし彼女が離れる際は火は発生していなかった。この齟齬は何だ。何を意味している。
それに、とスタインベックは顎に手を当てる。
「……ベン、か」
その惨状を目撃した、もう一人の生存者。生存しているかは不明だが、彼の行動には些か不審な点が見受けられる。何が、かはまだはっきりしない。だが、話を聞いているとその「何か」が引っ掛かって仕方がない。崩壊し多くの死体が量産された村の中で無傷だった点、ウィリアムという者と同じ”役割”――異能の人工発現研究をしていたという点。
そして、そう、最もたる違和感、それは。
――彼女はベンという人物について把握しているにも関わらず、口をついて出てくるのはウィリアムという人物のみなのだ。
まるで、彼女にウィリアムという存在を強く、何よりも強く植え付けているかのように。
彼女の中には、ウィリアムという人物とその最期が何よりも重大なこととして埋め込まれている。異常なほどに、強く、深く。
「なるほどな」
ふとフィッツジェラルドが笑う。その横顔に、スタインベックは息を止めた。
何かを思いついた支配者の笑みが、そこにある。
「スタインベック君、今の話をまとめてくれ。至急会議だ、今後について方針を決める」
「フィー」
立ち去ろうとしたフィッツジェラルドを呼び止め、クリスは男を見上げる。
青の目に、緑が灯る。亜麻色が金に輝く。
「……わたしは君に利益を与える、君はわたしに何をくれる?」
「勿論、利益だ」
高慢な笑みが少女を見下ろす。白を基調としたスーツが、薄暗い灰色の廃ビルの中で男を大きく見せる。
「君に幸福を与えよう、クリス。力という名の幸福をな」