第1幕
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
***
その日は空が薄暗い雲に覆われた日だった。たた、と教会のあちこちを駆け回りながら、少女は周囲を見回す。
「ウィリアム……?」
どこにもいなかった。いつもの中庭にも、どこにも。ベンの姿もない。昨日は三人で中庭に座り込んでおしゃべりをした。至って普通の日だった。また明日、と言ってくれたから、今日も会えると思ったのに。
いつもなら諦めて他の子供達と遊ぶ。しかし今日はどうしてもウィリアムに会う必要があった。
「せっかく〈恵み〉をいただいたのに……」
いつもの〈お恵みの儀〉の後、目を覚ました少女に白衣の人達はそろってそのことを告げてきた。まだそれの詳細は知らない。けれど、ようやく、待ちに待った時が来たのだと歓喜した。
それを分かち合いたかった。なのに、どうしていないのだろう。
「クリス」
名を呼ばれ、振り返る。渡り廊下の下に、見慣れた人影があった。
「……ベン」
そこに立っていたのはベンだった。けれどその顔にいつもの朗らかさはなく、疲れ切った様子で少女を見つめている。どきり、と心臓が高鳴った。
嫌な予感が、する。
「ウィリアムは……どこ?」
問えば彼は苦しげに目を逸らした。
「……ちょっと仕事が忙しいんだとよ」
「そう、なの……?」
嘘だ。ウィリアムが仕事で忙しい時は、ベンも忙しくて顔を出さない。しかしベンを問い詰めることはできなかった。その顔が無理矢理笑顔を作ったからだ。
「そういや、〈恵み〉が得られたんだって? 良かったじゃねーか。ずっと欲しがってたろ」
「う、うん。でもどんなのかはわからなくて……これから、テストするんだって」
「そっか」
ベンが笑う。
「頑張れよ」
――どうしたのかとその時声をかけることができたのなら、彼から何か聞き出すことができたのかもしれない。
けれど、できなかった。
できるわけもなかった。
その歪んだ笑顔が、必死に作り上げられた笑顔が、簡単に崩れてしまう気がしたから。
それが崩れた瞬間、少女の心もまた、大きく壊れてしまう気がしたから。
***
結局ウィリアムに会えないまま、少女は〈恵み〉のテストのためにある部屋を訪れていた。それは昔から見慣れている部屋で、しかしその中に入るのは初めてで。
「……〈退魔の儀〉の部屋……」
天井から見下ろしていた時には気付かなかった壁の汚れに、ぞっと悪寒が背を走る。その色は茶けた赤だった。それが何の色なのか、少女は知っている。
この大きな部屋は、少女の憧れだったからだ。全力で駆け回れるほどの広いこの部屋で、何度も目にしてきた〈退魔の儀〉。それは、〈赤き獣〉という人々を悪へと陥れる化け物を退治する儀式だった。この教会は〈赤き獣〉がこの世界に降り立つのを防ぐために作られたのだと教わっている。〈赤き獣〉は人々を騙し、不幸へと突き落とす存在だった。それを倒し世界を〈赤き獣〉から守ることが、神から幸せを享受している我々がすべきことなのですよ、と先生はいつも言っていた。
ここは、そのための部屋だ。
この部屋に招かれたということは、つまり、そういうことだ。
「先生」
振り返り、しかし唯一の出入り口がとうに閉じられていることに気がつき、少女は困惑した。分厚い扉を、コンコンとノックする。
「先生……あの、先生」
聞こえていないのだろうか。強めにノックをし、やがて少女は拳で殴るように扉を叩き始める。
「先生、先生! あの、わたし、まだ自分の〈恵み〉がどんなのかもわからなくて、だから、テストするって、聞いてたんです、け、ど……先生、先生?」
『検体ナンバー八八三、セット完了』
どこからか機械音が聞こえてくる。バッと見上げた先、天井の角にスピーカーがあった。知らなかった、そんなものがこの部屋にあったなんて。
『生体センサー異常なし』
『心拍数七十五、六、上昇中』
『脳波検出プログラム異常なし、パルスコントロールシステム正常』
聞き覚えのある声が次々と難しい言葉を発していく。先生達だ。この教会の関係者、白衣を着た高貴な方。
スピーカーからの音は部屋へと響き渡る。延々と聞こえてくる知らない言葉に、少女は体を震わせた。
何かが、変だ。
何かが。
「せ、先生、わたし」
ふと視界の端に影が落ちる。それを辿り、少女は天井を見上げた。透明なガラスが張られた天井に、人が集まっている。村の人々だ。父も母も兄弟達も、見知った皆が集まっている。
儀式を見に来たのだということはすぐにわかった。かつての自分が、そうだったから。あの天井から、儀式を見ていたから。
「……た、助けて!」
天井を埋め始めた人々に少女は叫ぶ。
「助けて! わたし、まだ、〈恵み〉の使い方もわからなくて、だから一度ここから出たいんです! でも先生とお話できなくて……誰か、誰か、ねえ! わたしの声を聞いて! 誰か!」
知っている。ガラスの向こうにこの部屋の物音は届かない。けれど必死になって身振り手振りで訴えれば、きっと優しい父母は少女の危機を察して助けてくれる。そう信じていた。
そう、信じていた。
――いくつもの目がわくわくとこちらを見下ろしているだけで、一向に変化しないことに気付くまでは。
「……ね、え、どう、し、て……」
知っている。自分もあちら側にいたから。
この儀式は、何よりも楽しみだった。〈赤き獣〉を〈恵み〉を得た人が倒す様を見る、その経過が、好きだった。
この箱の中で誰がどうなろうが、興味などない。
――例え〈恵み〉を得た人が〈赤き獣〉に食われようと、結局は先生や他の高貴な方が倒してくれた。この儀式で重要なのは、〈赤き獣〉を退治することだけだ。
「ど、して」
どうして、今まで気付かなかったのだろう。
この異常さに。
ずっと見てきたのに。
『〈赤き獣〉設置完了』
スピーカーから聞こえてきた言葉に身を竦ませる。
『テストスタート。ゲートB、開放』
ギ、と何かがきしむ音がした。
それは少女が通った扉とは反対の壁から。
振り向いた先で、壁が上へとずれていく。スライドしていく巨大な壁の向こうから、何かが這い出てくる。
天井の上が一際騒がしくなった。
「……あ……」
呼吸ができない。
「や……」
ぺたり、と柔らかな音が聞こえてくる。いくつものそれは、裸足で廊下を走る時の足音によく似ていた。ぺたり、ぺたり、と音が近付いて来る。そのたびに、ずる、ずる、と何かを引きずる音が鮮明になっていく。
壁の向こうから現れたのは化け物だった。皮膚のない肉体を老人のように曲げながら、それは少女へと歩み寄ってくる。糸で縫合されたいくつもの足は全てが人間のものだった。その足元へ、ぼた、と赤いものがしたたり落ちていく。
それが胴体に空いた腹の中からこぼれていることに気付いた時、少女は悲鳴を上げていた。
〈赤き獣〉、人々を誑かし神に反抗するもの。
『心拍数上昇、百、百十』
『脳波異常なし、異能特異指数平常、発動数値に達しません』
『この検体、本当に実験成功してるんだよな?』
悲鳴を掻き消すように機械音が少女へと降り注ぐ。
「嫌、嫌」
自分でも何を言っているのかわからない。ただ何かを喚きながら、少女は床に座り込んだまま後ずさった。立ち上がることもできない。目を逸らすこともできない。必死に逃げる少女を壁へと追い詰めるように、化け物は迫ってくる。
ぺたぺたという足音。腹からこぼれているぬめった長いものが、床に引きずられて線状の痕跡を描いていく。ぼと、と大きな者が床に落ちた。足のいくつかがそれを踏みつける。柔らかい嫌なものを踏みつけた音が、聞こえてくる。
「嫌……」
『検体ナンバー八八三』
強い声が少女の耳を貫いた。
「……せ、んせ」
『〈赤き獣〉を倒すのが、神から〈恵み〉を受け取った者の役割です。私の話を忘れたのですか』
――そうだ。
この化け物を倒すのが、神から与えられた役割。
ずっと憧れてきたこと。
『神は常に私達のそばにいます。あなたが願えば神の〈恵み〉は必ずあなたに応える』
願えば。
何を。
――この化け物の排除を。
「……わたし、は」
『脳波検出、異能指数〇・二』
化け物が前に立ち塞がる。大きなそれは、視界を覆い尽くし、少女を壁へと追い詰めていた。
手が伸びてくる。いくつもの手が、少女の腕を、肩を、胴を、掴んでくる。指が皮膚に食い込む感触に、堪えていた悲鳴が漏れた。
目の前に肉壁に囲まれた風穴が迫る。内臓がこぼれ落ち、頬を撫でる。
血の臭いが周囲に、体内に、充満する。
「わたしは」
『異能指数三・五。上昇中』
はた、と赤い液体が首筋に落ちた。
――あたたかい。
「……あ」
ねえ、クリス。
「……で」
僕と友達になって欲しいんだ。
「なんで」
ははッ、面白いなあ。
「なんで、あなたを思い出すの」
『異能指数五・九、六・〇、発動まで約三秒……いえ、閾値を超えました』
『待て、指数上昇が止まらない』
「どうして」
いくつもの腕が少女を抱き寄せてくる。ぬるりとした赤い肉片が頬に張り付く。化け物が腰をかがめた。よく見れば人型をしているそれは、上部についた平たい顔を少女へと近付けてくる。
叩いて伸ばされた鉄板のようなそれを大きく横断するように、弧状の切れ込みがある。歯が並んでいた。それがぱっくりと開き、少女の眼前へと迫る。
――食われる。
殺される。
「……い、や」
何に。
この化け物に。
――見知ったぬくもりを宿す、化け物に。
「いや」
『異能指数上昇止まりません! 特異点指数上昇開始、このままでは特異点が発生します!』
『検体ナンバー八八三の制御システム起動!』
どうしてだろう。
どうして、このあたたかさを知っているのだろう。
肌にそれが溶け込んでくる。地面に染みていく雨水のように、少女の体温がそれへと染まっていく。
『制御システムエラー検出! 制御不能!』
『特異点指数上昇、異能指数計測不可!』
『何なんだ、この力は……!』
「どう、して」
ぱっくりと開かれた口内が、迫る。声があれば慟哭を上げているだろうそれは、無音で少女の頭をかみ切ろうとしてくる。いくつもの腕が首に巻き付く。指が喉を圧迫する。息苦しさに少女は身じろぎした。喉を捕らえるいくつもの手を引きはがそうと爪を立てる。
「……ど、う、し……て」
風が、唸っている。
何かを吹き飛ばそうとするかのように、閉鎖されているはずの部屋の中に渦巻いている。
何かを、吹き飛ばそうとするように。
――あなたが願えば神の〈恵み〉は必ずあなたに応える。
「……お、願い……!」
叫ぶ。
「全部……全部、壊して――!」