第1幕
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***
ベンはごくたまにしか顔を見せなかった。ウィリアム曰く「仕事大好きな人だから」だそうだが、ベン本人に尋ねてみたところ「ウィリアムに押しつけられた仕事が多すぎて」だそうだ。二人はよく言い合いをしているが、最後には二人とも笑い合って終わる。その二人のやり取りを見るのが好きだった。
そして、ウィリアムと二人で過ごす時間も好きだった。
「今日は何をしているの?」
ベンチに座っていたウィリアムの元へ行き、隣に座る。そっと彼の手元を覗き込んだ。いつもとは違い何も書かれていない白紙の紙束がそこにある。
「書いてたんだ」
「お話?」
「うん。脚本」
「新しいお話ができたの?」
ウィリアムは時々、自分で作った物語を教えてくれた。何度も何度も聞き、その全てを暗記するほど、少女は彼の作った話が好きだった。ウィリアムとベンはかつて劇というものを作り出す劇作家という夢を語り合った中なのだという。劇というものがどんなものなのか、話を聞いただけで見たことはない。けれど、それを語り合う二人はどこまでも楽しそうで、彼らが作り出す物語は、時に悲しく、時に面白く、人間という生き物を書き出していた。
この村は幸せな場所だった。争いも諍いもない、涙を流す人は一人としていない、神の御許に存在する理想郷。だから少女は彼らが語る物語が不思議でならなかった。人が争い、刃を向け合い、叶わない願いを抱く。愛しい人を殺され、殺し、心情を吐露し、泣き叫ぶ。
知らない生き物がそこにいた。この小さな村に決して存在しない生き物だ。それはどうしてか心を揺り動かした。見たことがない生き物だというのに、見知っているかのように胸がざわつく。
彼らが作り出した人間の言葉は、少女にとって知らない言語でもあった。彼女が一生涯口にすることのないであろう言葉が、そこに並んでいた。少女はそれが好きだった。知らない言葉が、感情が、自分という見知った生き物の奥底に沈んでいた他の何かを引きずり出してくれるようで、その恐怖に似た感覚がどうしようもなく心地良かった。
「今度のお話は何?」
「嵐のお話さ」
「嵐?」
「そう」
ウィリアムは笑い、ぱらぱらとページを遡って少女に見せる。細かい綴り字が所狭しと並んでいた。
「ベンと競争していてね、どっちが新作を作り上げられるかって」
「ベンは?」
「まだ。だから僕の勝ち」
にっこりと笑うウィリアムに、少女もクスリと笑みを返す。ウィリアムは少女の頭を撫でた。ふわりとした手付きに、されるがままになる。ウィリアムの手はいつだって優しかった。自然と顔がほころぶ。
「嵐のお話って何? 嵐の妖精が出てくるの?」
「ちょっと違うかな。罠に嵌って島に追放された偉い人がね、魔法を習得して、それで嵐を起こして復讐をすることにしたんだ。復讐相手の船を襲って、難破させてね」
そう言ってウィリアムは話の内容を教えてくれる。少女は目を輝かせて聞いていた。復讐から始まったその話は、やがて過去の罪を許し魔法を捨てる決意をすることで幕を下ろす。
「魔法まで捨てちゃうの?」
「うん。復讐のために身につけたものだからね、彼にはもう必要なくなったんだ」
「あれば便利なのに」
「ははッ、そうだねえ。力はあればあるほど便利だ。でもそれで良かったんだよ。強すぎる力は不幸しか呼ばない。使いこなしてみせても、結局それを求める人達が集まって奪い合いを始めてしまう。もう要らないなら、手放すのが一番だ」
「ふーん」
納得のいかない様子で少女が相づちを打つ。そんな少女に「そういえば」とウィリアムは手元の本のページをめくり始めた。
「他のお話に入れる歌も考えてたんだ」
「歌?」
「うん。前に話した『マクベス』って話、あれにもいくつか歌を入れたいなって思って。魔女が歌を歌ったら不気味さが増すだろうし。……って、歌の話はしたことあったっけ?」
「ううん、ない。詩の話は聞いたけど」
ふるふると首を振り、少女はウィリアムへと訊ねた。
「歌って何?」
少女の問いに、ウィリアムは押し黙った。悪いことを聞いてしまったのだろうか、少女は体を小さくする。少女のその様子に気付いてか、ウィリアムは笑って少女の頭を一撫でした。
「ああいや、どうやって説明しようかなって。僕、そんなに歌はうまくないから……歌って言うのは、文章とか詩に節や音をつけて、リズムに乗せながら言うことだよ。例えばね」
ふっとウィリアムは口を閉ざした。少女から手を離し、こほんと一つ咳払いをする。そして、歌い始めた。
それは静かな旋律だった。聞いたことのない詩の儚さが高音の切なさに重なる。まるで口が楽器になったかのような、しかしその音は複雑で儚く、喇叭とは全く違う。
言葉が聞こえてくる。セリフとは違う響き。真っ直ぐに耳へとその思いを突き刺しに来るのがセリフならば、歌は皮膚から胸へと染みこんでくる雨水のようだ。じわりと体に入り込み、言葉に秘めた思いを伝えてくる。セリフは心を強く叩くが、歌は心をそっと揺らしてきた。
少女はウィリアムを見上げて目を見開く。
「……凄い」
「凄くはないよ」
照れたようにウィリアムは笑った。
「ベンよりはましだけど」
「でも、なんか、こう……胸が苦しくなる。普段話している時と全然違うの」
少女は自らの胸に手を当てた。ウィリアムと話している時はとても楽しい。胸の奥は軽やかで明るくて、晴れた空の下で駆ける心地に似ている。けれどさっきのウィリアムの声は、楽しいとは違う感覚を起こさせた。部屋の中で一人立ち尽くすような、そんな寂しさ。
少女は目を閉じた。
"Alas, my love, you do me wrong"
ウィリアムが歌った歌をそのまま繰り返す。音を伸ばしたり、声の高さを変えたりするだけで、言葉はこんなにも美しい音になる。
"To cast me off discourteously
For I have loved you well and long
Delighting in your company"
少女の声は風に乗った。伸びやかなその音は会話の時のようにすぐに消えることはなく、春風のように少女を包み込み、芝生の上を駆け、そして宙へと溶けていく。鈴の音が聞こえてくるかのようだった。手に掬った砂粒をそっと零すように、小さな音が何重にも重なって、何度も何度も、心という小さな鈴を揺らしてくる。
これが歌。少女は空へ消えていく自らの声に耳をすます。
なんて心地よい。
一通り歌い終わった少女は、静かに空を見上げる。自らの声がそこへ舞っているように思えた。花びらのように、鳥の羽のように、どこまでも。
「……クリス」
名を呼ばれ、少女はそちらを見た。目を見開いたウィリアムが、じっと少女を見つめている。その表情は綻んだ。
「クリスの歌は、天使の歌声だね」
「わたし、天使様じゃないよ」
「例えだよ。……本当に、綺麗な声だった。人の心に入り込んで、隠したかった気持ちを無理矢理表に出すような、そんな……美しいって、このことを言うんだって、思わせてくれて、もっと、ずっと聞いていたいって、思ってしまうような……」
ウィリアムにしてはまとまりのない、ぽつぽつとぶつ切りになった言葉を呟くような言い方だった。けれどその違和感をはっきりと自覚する前に、彼の手が伸ばされてくる。気がつけば、その腕の中に収まっていた。抱き締められているのだと気付いたのは、数秒経ってからだ。
「ウィリアム……?」
「……ごめん、ちょっとこのままでいさせて」
耳元に呟かれた声に、黙って頷く。ウィリアムの腕が少女の肩を強く抱き締める。いつもと違う、と思った。いつものウィリアムは、痛みを感じるほど強い手付きをしてこない。まるで逃げようとしているものを捕まえておこうとしているかのように、彼は少女を抱き締めている。
「……大丈夫だよ?」
何が、かはわからないまま、少女はウィリアムの背中をぽんぽんと叩いた。それはウィリアムがたまにやってくれるおまじないだった。怖い夢を見た次の日にそれをしてもらうと、その日の夜はぐっすりと眠れるのだ。
「大丈夫」
ぽん、ぽん、と叩きながら少女は空を見上げた。そして口を開く。
"Ah, Greensleeves, now farewell, adieu
To God I pray to prosper thee
For I am still thy lover true
Come once again and love me"
――どうかもう一度、わたしを愛してください。
歌声は空へ響く。