第1幕
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***
フィッツジェラルドの指示の元、クリスは近くの廃ビルの一室へと連れて行かれた。周囲の建物の多くも寂れた、中心街から少し離れたそこはまさにうってつけだったのだ。
照明のない中、灰色の空気が漂っているかの錯覚にスタインベックは眉をひそめた。フロアは広く、しかし捨て置かれた机などが散乱している。その中央で少女は床に座り込んで項垂れていた。
「絶食と不眠から三日になるけど、調子はどう?」
どう、と聞いたところで「良い」と答えが返ってくるわけもない。少女のそばに跪いて顔を覗き込みつつ、スタインベックはなるべく優しい声音で続けた。
「素直に話せば良いと思うけど? 別に君をどうこうしようってわけじゃない。僕達は僕達の大切なものを守るためにその情報が欲しいだけだからね」
「……言えない。言うなと言われてる」
先程と同じ言葉を繰り返し、クリスはまた黙り込んだ。さすがは諜報組織の出だ、口が硬い。ここまで来るとただの忠誠心ではないように思えてくる。彼女はまだ若い。一国の機密を命を賭してまで隠すほど、あの国に心を寄せているとは思えなかった。では何が彼女をここまで頑なにしているのか。
「……その情報を言えば、誰かの命が危なくなるのかな?」
なるべく柔らかい声で訊ねる。クリスは俯いたまま顔を背けた。当たりか。けれど、とスタインベックは彼女の足元へしゃがみこんだ。亜麻色の髪に隠れた顔を覗き込む。
「僕の家は大家族でね。兄弟を養うために、僕はギルドで働いているんだ。大人数だから食事の時も風呂の順番も何もかもが奪い合いさ。でもそれが楽しくて、妹達が可愛くて、その日常を壊したくないから僕は頑張ってるんだ。どんな仕事でもね」
「……家族?」
「君には家族はいるのかい? 父親や母親は?」
「……村に、いた」
話すなと言い聞かせられたことではないからか、クリスは呟くように答えた。
「〈兄弟達〉と、一緒に、あちこちの家で遊んで……料理の美味しいお母様のところでご飯を食べて、力持ちなお父様と一緒に遊んで……服が破けたら縫い物の得意なお母様のところに行った。お使いを頼まれて他のお母様のところへ野菜を届けたこともある」
「ごめん、ちょっと理解が追いつかないんだけど」
今、何人の"お母様"が出てきただろう。
戸惑うスタインベックに、クリスは僅かに視線を逸らした。
「……村の男の人をお父様、女の人のことをお母様って呼んでた。普通は一人につき一人のお父様とお母様なんだって、聞いたことがある」
「えっと、じゃあ君の本当のお父さんとお母さんは……」
「そのうちの誰かだった、と思う」
クリスの様子を見る限り、嘘でも冗談でもないことは明らかだ。彼女が住んでいた場所では、父と母の定義が通常と異なっていた。というよりは、家族としての生活の仕方が違っていた。彼女の村は大きな一つの家族、村ぐるみの共同体だったのだ。
特定の父母を持たない。それは、子供にとって十分な環境なのだろうか。
それとも、とスタインベックは顎に手を当てる。
焼失した集落。その住宅地跡とクリスに関わりがあるとしたら、その住宅地跡が本当に軍事施設だったのだとしたら、彼女の言う話にも意味があるのだろうか。
「やあ、仲良くおしゃべりか」
コツ、と硬質な靴音がフロアに響き渡ると同時にクリスが息を呑む。立ち上がり、悠然と歩み寄ってくるその人へと肩をすくめてみせた。
「言われた通り、見張っていただけですよ、フィッツジェラルドさん。……まだ、続けるんです?」
「良いことを教えてやろう、スタインベック君」
答えず、フィッツジェラルドはクリスを見下ろした。彼女は大きく肩を上下させながら俯いている。フィッツジェラルドの高級な靴が、座り込んでいるクリスの膝の前に差し出される。
瞬間、床が抉れた。
ドオッ!
フィッツジェラルドの足元の床が大きくへこみ、クレーター状を呈する。砕け散った床の破片を足でなじり潰しながら、フィッツジェラルドは少女を見下ろした。
「相手の痛みは考えるな。考えると情に負ける。情に負ければ相手に隙を与える。常に強者たれ、だ。情に脳を支配される前に利益を考えろ。そうすれば、どんな仕事も問題なくこなせる」
「ありがたい言葉をありがとうございます」
「……さて、クリス」
声音が低くなる。
「そろそろ君も疲れただろう。まともな思考すらできなくなってきたはずだ。――君のことについて聞きたい。その体にあった手術痕の意味を、君の過去を」
「……言えない」
「だが君の体力はもはや空前の灯火だ、長くはない。このままでは俺達の手の中で死ぬことになるが?」
フィッツジェラルドの言葉にクリスは大きく肩を揺らして息を呑んだ。その様子を、スタインベックはじっと見つめる。
この数日で、彼女についてわかったことはいくつかある。
一つ、異能力者であること。
一つ、誰にも言うなと言われていることがあること。
一つ、英国と繋がりがあるということ。
一つ、死ぬことに対して異常に抵抗を示すこと。
死ぬ、というよりは死体を残すことに反応している節がある。その身に宿しているという〈赤き獣〉に関係しているのだろうか。
「まだ吐かんか。手強いな。あまり使いたくなかったやり方だが……君もこの先にあるものが何か、知っているだろう?」
フィッツジェラルドに、クリスは黙り込む。秘匿を抱く人間から情報を聞き出す方法、それを諜報組織の出身であるクリスが知らないはずはない。
「……知ってる」
呟き、少女はそっと目を閉じて俯いた。
「……でも、約束したから」
「約束?」
「友達と。……あの人とわたしの、友達と」
「ふん、友か。俺のことも友だと言ったのは君だぞ、クリス。俺は仲間はずれか」
嘲笑うようなフィッツジェラルドの言葉に、ふとクリスが顔を上げた。そのきょとんとした眼差しは、疲労と苦痛で焦点が揺らいでいる。
「……フィー」
囁くような声で、彼女は言う。
「友達、って、何?」
「何だと?」
「あなたにとって、友達って、何?」
相手を試している問いではなかった。この少女は、純粋に尋ねている。友とは何かと、友になって欲しいと言った相手に、問うている。
焦点の揺らぐ青の目には疲れがにじみ出ている。それでも、その青の色は真っ直ぐで、透き通っていて、にじむ緑が鮮やかな深みを縁取っていて。
「……君はどう思う」
フィッツジェラルドが返した言葉に、その青は大きく見開かれた。
「……え?」
「先に君が答えろ、クリス。君にとって友とは何だ。友人とは何だ。――君の友は、君にとって何だ」
「……わたしに、とって」
その声が、誰かの名を紡ぐ。
「……ウィリアム、は」
青が、誰かの人影を映し出す。
「……一緒にいたかった、人。一緒に笑うのがあんなに楽しいなんて知らなくて、楽しいってことを教えてくれて、いろんなことを教えてくれて」
水を一滴ずつ零すように、一つずつ言葉があふれていく。
「……わたしが、殺した」
少女の言葉に息を呑む。脳裏に思い浮かんだのは彼女が作り出したというビルの残骸だ。フィッツジェラルドから話を聞いた後、現場を見に行ったスタインベックの前に広がっていた光景。次に思い出したのは、ホーソーンが提出した、火事で焼失した森の航空写真。全てを吹き飛ばされた都市の一角、居住地の形態すら失った更地。
この少女が持つという、破壊的な力。
「……どういう意味だ」
フィッツジェラルドが問う。少女は何かを吐き出そうとするかのように項垂れる。
「わたしの、せいで、わたしが、願ったから」
青が、にじむ。
「ずっと一緒にいたかった。ずっと一緒にあの場所で過ごすんだと思ってた」
声が揺れる。
「わたしが〈恵み〉を欲しがらなければ、わたしが〈恵み〉をもらわなければ、あの時ウィリアムをちゃんと探してから〈儀式〉に行ってたら、わたしが死にたくないなんて思わなければ、ウィリアムを殺さなくて済んだんだ。ウィリアムが〈赤き獣〉にならなくて済んだんだ」
床に立てた爪に雫が零れる。
「わたしのせいなんだ、わたしが、あの人を、殺したんだ」
涙に揺れる声が廃ビルに細く響く。がしかし、ふん、とフィッツジェラルドはつまらなそうに鼻で笑った。
「それは君と関係があることか」
それはあまりにも場違いな言葉だった。スタインベックは思わずその男へと声を上げる。
「ちょっと、フィッツジェラルドさん」
「俺の答えを言おう、クリス」
こちらをちらりと見ただけで、フィッツジェラルドは足元にうずくまる少女へと視線を戻した。遠慮のない態度に、涙を溜めた青色も驚愕を宿している。瞬きをした瞬間、残っていた雫が一つ、落ちた。
「……答え」
「友とは何か、という問いへの答えだ。――友とは、利益をもたらす者の総称だ。金でも良い、情報でも良い、気分を良くする奴でも悪くはないな。俺にとっての友とはそういう人間だ。俺にとって利をもたらす者、その一人が君だというわけだ、クリス」
実に味気ない答えだった。けれど、彼らしい答えでもあった。
「君は自分のせいで友が死んだと思っているらしい。だが、それが何だ。人はいずれ死ぬ。君が殺さなくとも彼は死んでいた。手を下したのが君だっただけだ」
「フィッツジェラルドさん、その言い方は」
「君は、相手の価値をその生死で変えるのか。人間の価値など生きていようが死んでいようが同一だ。善人が死ねば悪人に変わるか、悪人が死ねば善人として祭りあげられるか? 役に立たん者は死んでも役に立たん、優秀な奴は死んだ後も優秀だ。君にとって彼が友だというのならそれだけが事実だ、その生死は君に関係ないだろう。それに拘るよりも友だという真実を思い続ける方が何倍も有益だ」
ひび割れた床に膝をついて、男はクリスの目を覗き込む。青が透き通る。その青が、男の目に映り込む。
「……関係、ない?」
「ああ、関係ないな」
「わたしがあの人を殺したとしても?」
「その事実は奴が君の友だという永遠の真実にいかなる傷もつけられん」
クリスは真っ直ぐにフィッツジェラルドを見つめていた。さっきまで恐れていた男を、真っ直ぐに、ただひたすらに。
底の見えないその眼に、何かを刻もうとするかのように。
「……利益をもたらすのが友達だというのなら、あなたはわたしに利益をくれるの?」
「無論だ。約束しよう」
薄く微笑んだフィッツジェラルドへ、クリスは一度瞬きをした。ぐ、と拳を握りしめる。雫はもう、零れていない。
「――わたしがどんな不幸をもたらしても、フィーはわたしに利益をくれる?」
「その不幸を幸福に変えるすべを教えてやる」
「……わたしは、あなたに利益を与えられる?」
「でなければ生かしていない」
「わたしは」
――少女の目に光が差す。青が薄らぎ、緑が煌めく。
「君の、友達に、なれる?」