第1幕
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足元にすがりつく子供の姿に、フィッツジェラルドは黙って立ち尽くしていた。自らを神と呼び、死をと望んでくる子供。
これは、何を望んでいる。
これは、俺に何を望んでいる。
「……俺はフィッツジェラルドだ」
その言葉にそれは大きく肩を跳ねさせた。これ以上ないほど目を見開き、こちらを見上げてくる。拒まれたのだとその目はわかっていた。自らが求める神が目の前の男ではないことに絶望していた。
それでも、縋り付く手は離れない。
最期を希望する眼差しは変わらない。
「……あなたが、神様なのでしょう……?」
「違うと言っている」
「でも」
「俺は神ではない。神とは試練を与えるものであり、金と利益によって成り立つこの世界においてはどこにも存在しない」
「でも、ここにいる」
「違うと言っている」
「あなたならわたしを殺せる」
「その点は否定しないが、それとこれとは話が別だ」
「〈赤き獣〉を殺せるのは神と神に選ばれた者達だけ。あなたは〈恵み〉を持つ者を従えている、それがあなたが神様である証。あなたならわたしを殺せる。お願いします、裁きを、わたしに死をお与えください」
「くどい」
足に縋り付く小さなそれを蹴り飛ばした。短い悲鳴を上げてそれは地面を転がる。スタインベックへと合図をして、彼から拳銃を一丁受け取った。その先をそれへと向ける。
やはり当初の予定通り殺すべきだったか。手近なところにいたからこれを持ち帰ろうと思ったが、妄想に取り憑かれた子供など使えるとも思えない。
「失敗だな、他の生き残りを探すこととしよう」
突きつけられた銃器に、それは現状を知ったようだった。息を呑み、銃口とフィッツジェラルドの顔を見比べ、そして――そっと目を閉じて顔を伏せる。その動作が意味するものは、絶望でもあり、歓喜でもあり、安堵だった。
両手を胸の前で組み、頭を垂れる。震えることなく、ただ、その銃口が弾丸を吐き出すのを待ち焦がれている。
死を望む者。
神の裁きを待つ者。
この、小さな子供が。
引き金に指をかける。あとはこれを動かし、銃声と共に弾丸を放てば良いだけだ。躊躇ったわけではない。同情したわけでも、この子供を勿体なく思ったわけでもない。今まさに、何も考えないままに引き金を引こうとしていた。
「――"Alas, my love, you do me wrong"」
小さな声が聞こえてくるまでは。
「"To cast me off discourteously
For I have loved you well and long
Delighting in your company."」
それは歌だった。
一音一音を丁寧に連ねていく、音だ。
ただそれだけの、はずだった。
「"Your vows you've broken, like my heart
Oh, why did you so enrapture me?
Now I remain in a world apart
But my heart remains in captivity."」
子供が呟くようにそれを歌う。賛美歌か、けれど切ない響きを持ったそれは、グラスを指で弾いた時のような薄く透明な音となって鼓膜に突き刺さってくる。
――光景が、見えた気がした。
懐かしい顔だ。一人は妻、そして――娘。笑っている。広い居間のテーブルで、食卓を囲んで彼女達が笑いかけてくる。何よりも大切な家族が、目の前にいる。暖かな蝋燭の灯火も、そのゆらめきも、匂いも、熱も、正しく皮膚に触れてくる。手の中の拳銃など必要なかった。ここには平穏がある、幸せがある。家族が笑っているという、何者にも勝る幸福がそこにある。
「"Well, I will pray to God on high
that thou my constancy mayst see
And that yet once before I die
Thou wilt vouchsafe to love me."」
遠くから歌が聞こえてくる。綺麗な曲だ。流れる水を思わせる、手で掬っても指の間からこぼれ落ちていく冷たい無形物。その冷たさが胸にナイフとして突き刺さる。今度は凍り付くような冷たさを伴って心臓を包み込もうとする。声が出ない。体が動かない。ただ、目の前にいる家族の姿を見つめている。
その姿がおぼろげになっていく様を、黙って見つめている。
手を伸ばそうとして、けれど腕は僅かも動かなかった。直立したままフィッツジェラルドは薄れていく笑顔を見送る。
やめろ、と誰かが叫んでいる。
待ってくれ、と誰かが叫んでいる。
誰の声かなど、わかっていた。
自分だ。
自分が、心の中で叫んでいるのだ。
「"Ah, Greensleeves, now farewell, adieu
To God I pray to prosper thee
For I am still thy lover true
Come once again and love me."」
――もう一度、わたしを愛して。
歌が、聞こえてくる。叫び声がそれと重なる。笑顔が遠のいていく、薄れていく、霞がかっていく。
手の届かないところへと、消えていく。
――カシャン!
拳銃が地面に落ちた音が明瞭に耳に届いた。はッ、と息を吸い込む。発作のような呼吸は、一気に視界を晴れさせた。
目の前で両手を組んだ子供が不思議そうにこちらを見上げている。それだけだった。荒廃した森の中で、フィッツジェラルドが見ていたものはそれだけだった。
家族の姿など、どこにもない。
「……何だ、今のは」
額に手を当てる。脂汗で指先がぬめった。白昼夢、などというものではない。あれは確かに現実だった。匂いも、空気も、色も、輪郭も、全てが記憶通りの。
どさ、と背後でミッチェルがしゃがみ込む。
「……何よ、何なのよ」
ぽろぽろと流れ落ちる涙を指で掬い、信じられないとばかりにそれを眺めている。
「ただの歌じゃない、なのに、何で」
「……妹が」
スタインベックが呆然と宙を――おそらくはそこに見えていた家族の姿を、その残滓を、見つめ続けている。
誰もが、幻覚を見ていた。起因は考える必要もない。フィッツジェラルドはそれへと目を向ける。
歌だ。この子供が呟くように歌った、歌だ。
あれは何だ。異能か。精神操作の異能か。けれど、とフィッツジェラルドは戸惑ったようにこちらを見上げてくる青い眼差しを見返す。
違う、と言い切れる。あれは異能ではない。歌だ。聞いたこともないほどに完璧な、人の心を揺り動かす芸術だ。
「来い」
唐突に言う。子供は困ったように目を瞬かせた。その青へ、もう一度言う。
「来い」
捕虜としてではない。これは、殺してはいけないものだ。誰の手にも渡してはいけないものだ。直感でそう知った。
だから、手に入れる。この手の中に、捉えておく。
誰にも渡さぬよう、誰にも奪われぬよう。
「雇ってやる。来い。……ミッチェル君、スタインベック君、行くぞ」
言い捨て、背を向けた。でなくては思考の混乱が消えない気がした。まだ、心臓が高鳴っている。呼吸も落ち着かない。足早にすればするほど、酸素供給が追いつかなくなっていく。
あれは、何だ。
誰が答えることもできない問いを何度も繰り返す。これの答えは今はどうでも良かった。ただ、問いたかった。何なんだと言い続けたかった。
これを感動と呼ぶのだと言ったのは、誰だったか。
ミッチェルが慌ててその後を追いかけてくる気配。スタインベックもそれに続き、しかしその足はふと止まった。しばらくして、スタインベックがゆっくりと後を追ってくる。
ちらと振り返った。
動揺から立ち直れていないミッチェルの後ろにスタインベックが続いていた。そしてその後ろに、例の子供。しかし足を怪我しているのか、ゆっくりとぎこちない足取りで歩いてくる。その手に掴んでいるは葡萄の枝。それはスタインベックの体に続いていた。手を繋いでいるかのような光景。
ふとスタインベックが視線に気付いて顔を上げる。目が合った。思わずといった風に向けて来た苦笑は視線を逸らされる。
軽く笑みを返し、何も見なかったことにする。このことについて言及するのは本国に帰ってからでも遅くはない。
前を向き、フィッツジェラルドは今後のことを考える。この時気まぐれで拾った子供に未来を大きく揺り動かされるなど、当時は知る由もない。