第2幕
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***
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。そして、雨の音も。
アスファルトへと手をつき、国木田は体を起こした。髪から雫が落ちてくる。雨だ。降る予定のない、雨が降っている。しかしこれほどの雨ならば鎮火も早いだろう。そんなことを爆風で壊れきった建物を前に思う。壁という壁は失われ、骨組みすらろくに残っておらず、しかし周囲の建物は思ったより破損が少ない。微かに上がった火は雨によって勢いを失っていた。爆発を防げなかったにしては被害が小さい。まるで爆発物の上に丈夫な何かを被せて爆風を抑え込んだかのようだ。そう思って、そして気付いた。
濡れきった自身を見回し、怪我どころか痛みの一つもないことを知る。爆風に押されるように地面に叩き付けられたはずだがどういうことなのだろう。そういえば地面に激突する寸前、衝撃を和らげるような柔らかな風に受け止められた気もする。
雨に、風。怪我のない自分。
奇妙なことばかりだ。
そこまで考えて、自分の腕の中にいたはずの姿が見当たらないことに気が付いた。慌てて見回し、すぐそばにその姿を見つける。亜麻色の髪は濡れそぼり、それが軽くかかっている肩は呼吸によって大きく上下していた。見る限り怪我はなさそうだ。
「おい」
声をかける。それに応じるように少女がこちらを見た。青が国木田を映す。その口が何かを言おうとして――苦しげに歪んだ。
「ぐ……」
呻き、俯いて胸を押さえる。突然のことに動けない国木田の前で、彼女は背中を丸めた。手が白くなるほど胸元を強く掴み、もう片方の手は押さえるように口元を覆う。
「かはッ……」
吐き出すような咳。口を押さえた手を外し、彼女はそこに広がった色を見つめた。
赤。
その鮮やかな色は雨に溶けていく。その様子を、国木田は呆然と見つめた。
見たところ外傷はなかった。だから安心した。けれど、違ったのだ。
彼女は、重傷だ。
何かを耐えるように体を抱いていたその細い体がフッと傾ぐ。どさ、と倒れ伏したそれを、国木田は呆然と見つめた。水を含んだアスファルトの上に、亜麻色が広がる。
「……おい」
声を掛ける。肩を揺する。もう一度、声をかける。
反応がない。
「おい! しっかりしろ!」
「国木田君!」
パシャパシャと水をは跳ね飛ばしながら走ってきたのは太宰だった。
「犯人は捕まえた。現地から十分で離れられる距離のところで急遽構えた検問に引っ掛かってね。こちらには今消防が来てる。この雨だから消火に大して時間はかからないはずだ」
「与謝野先生に連絡を!」
太宰の報告を無視し、国木田は怒鳴る。
「早く! ……太宰?」
見上げた先にいた同僚の表情に、国木田は息を呑んだ。
無表情がそこにあった。国木田と同じ光景を見ているというのに、その鳶色の両目は何かを考えているように暗い。太宰は稀にこの色を見せた。いつもはマイペースな阿呆でしかないのに、時折こうして闇色の眼差しを見せつけてくる。
ぞっと背筋が冷えた。
――こいつは今、何を考えている?
「与謝野先生なら探偵社で待機しているよ」
その声は国木田の感情を逆撫でするかのように平静だ。
「とは言っても、この子は外傷を負っているわけじゃないから治癒能力は意味がないと思うけど」
「な、に……?」
驚愕する国木田をよそに、太宰は横たわっていた少女を軽々と抱き上げた。あの切羽詰まった状況で国木田の手を拒絶した少女は、意識を失ったまま太宰の腕の中に収まる。
あの一瞬。
部屋を脱するために彼女へと手を伸ばしたあの一瞬、彼女は素早く国木田の手を弾いた。その青の目に映った恐怖を国木田は覚えている。忘れようもない。あれは、誘拐や爆弾に怯えたものではなかった。国木田に対してのものでもない。
自分に伸ばされた手そのものに、怯えていた。
死よりも強く、何かを思い出すように。
雨はとめどなく落ちてくる。アスファルトの上にたまっていく水を見つめながら、国木田は雨が地を叩く音を聞いていた。
***
数日後。
国木田達はそろって劇場に来ていた。開演前の観客席はざわざわと騒めき、これからを心待ちにする声であふれている。平日の昼間だというのに席に空きは見られない。当然といえば当然か、ここは例の太陽座の劇場。今話題沸騰中のこの劇団のチケットは予約を取ることすら困難だと言われているのだから。
それほどの劇場に社員全員がそろって訪れているのには理由がある。
「まさか本当に見に来られるなんて!」
ナオミが谷崎へと抱きつきながら喜びを露わにした。
「しかも最高級のプレミアム席! クリスさんったら何者なんでしょうね、兄様?」
「さあ……事件解決のお礼って言われたけど、こんな良い席、すぐに取れるわけもないし、それも社員全員分を横並びにだなんて……」
疑問の言葉を言いつつも、谷崎の表情は晴れやかだ。ようやく妹の念願を叶えられたことによる安堵だろう。
「あの子は一体何なんだろうねえ」
舞台を覆い隠す幕を眺めつつ、与謝野が大きく欠伸をする。
「数日眠り続けて、ようやく目を覚ましたと思ったら次の日にはチケットを持ってきて……まだ動き回るには早いって言ったのに聞きもしない」
「でも元気になったみたいで良かったです」
賢治が無邪気に笑った。
「運ばれてきた時はどうなるかと思いましたから」
賢治のその言葉に、与謝野が顔を曇らせる。その表情の変化を見、国木田は手元のチケットへと目を落とした。
――あの子が異能力者じゃなくて良かったよ。
あの日、一通り治療を終えた後、与謝野は医務室を訪れた国木田へそう言った。
――彼女の体は脆い。異能の種類にもよるけど、体に負担のかかるようなことは一切できないはずだ。本来なら走ることもままならないだろうね。
なぜかと問うた国木田に、与謝野は答えなかった。国木田に医術の心得はない、それ以上の詮索は彼女のプライバシーに関わるのかと勝手に判断してその時は退いたが。
ブーッ、と開演を告げる音が観客席に響き渡る。誰もがその音に口を噤み、舞台へと目を向けた。国木田もまたそちらを見る。
幕が上がり、男が二人現れた。続けて二人、彼らと向かい合うや否や剣を構えて言い争いを始める。敵対関係にある家柄同士のようだ。あらすじはナオミから熱弁されているため、大方は把握している。
敵対する家の男と女が一目で恋に落ちてしまうところから始まるこの話は、やがて二人の死によって幕を下ろすのだ。
緊迫する舞台の上を国木田はぼんやりと眺めていた。普段は劇など全く見ない。仕事を放りだしてぼんやりと座り続けるのが落ち着かなかった。太宰に至っては隣で堂々と眠っている。いつもと変わらない同僚に安心すべきか叱咤すべきか。
舞台とは無関係のことで迷い始めた国木田の耳に、ふと声が届いた。いつの間にか場面が変わり、母親役と乳母役がとある少女の名を呼んでいる。それに答えた声が耳に届いたのだった。
「お呼びですか、お母様?」
――鈴を鳴らすような、という例えはこの時のためにあるのだろうか。
部屋着姿の少女が舞台の端から現れる。光が彼女の元に集まったかのような錯覚。舞台の上で、幼く無垢な少女がきょとんと母と乳母を見て首を傾げていた。
――一人だけ、違っていた。
誰もがセリフを叫び大きく身振り手振りをしている中で、彼女だけが違っていた。まるで彼女だけそこが舞台であることに気付いていないかのように、まるで彼女だけが異なる世界の中にいるかのように、舞台だとか観客だとか、そういったもの全てが失せた空間がそこにある。
彼女の足元には木製のフローリングではなく硬質な大理石の床が広がっていた。彼女の頭上には、舞台用照明ではなく豪奢なシャンデリアがいくつも並んでいた。
「ああ、いかなる光もあの子ほどの輝き方ができるわけがない!」
誰かが叫んだ。
そうだ、彼女は。
どの明かりよりも、どの宝石よりも、この世の何よりも。
主人公である男が彼女へと歩み寄る。その姿を認めた彼女の青の目が大きく見開かれ、頬が赤らみ、そして――つぼみが花弁を広げるかのように、やわらかに、微笑んだ。
恋に落ちたのだとわかった。
――気付けば舞台は終わっていた。
呆然としつつ、さっきまで見ていた内容を脳内で反芻する。
彼らは死んだ。敵対する家同士のいつもの小競り合いで人を殺してしまった男は追放の身となり、悲しみに沈む女は顔も知らない男との翌日の結婚を決められた。まるでそれを意図するかのように組まれ進む運命に二人は絶望した。
そして、死んだ。
死を偽装してまで駆け落ちしようとした二人は、死をもってようやく隣に眠ることを許された。
愛する人の死骸を抱きかかえた彼女の姿が忘れられない。
涙はなかった。ただ、それを抱きしめ続けていた。その細い腕の中から抜けていく何かを見送るように、ただ、抱きしめ続けていた。その手が短剣を手にし、己の胸へとそれを突き立てた瞬間、観客でしかないはずなのに制止の声を上げそうになった。
まるで目の前で彼女が死を迎えたかのように、もしくは自分自身が舞台の上にいたかのように。
――記憶の底から、聞こえるはずのない銃声が聞こえた気がした。
白い着物、そこに広がる赤。微笑み、声、途絶える吐息。
国木田は空になった舞台を見つめた。
これは、何だ。
なぜ、劇を見ただけであの記憶が蘇ってくる?
「観る者聴く者全て魂を奪われる、か」
隣で太宰が呟く。寝ていたのではなかったのか。そう思いながらそちらを見――目を疑った。
「太宰……?」
彼は手を見つめていた。それを覆う白い包帯を、そこに何かがこびりついているかのように見つめていた。
その色は、おそらく――赤。
「……否応なく思い出させてくれるね」
ぐ、と手のひらを握りしめた太宰の表情は窺い知れない。
静まっていた観客席が突然ざわついた。明るい音楽が鳴り響き、舞台を照明が照らす。それの下へ、舞台袖から人々が出てきた。カーテンコールだ。音楽に合わせて手拍子が鳴る。観客席を覆い尽くした人々が奏でる音に合わせて、舞台の上の人々が次々に前へと歩み出ては思い思いに頭を下げていく。やがて、ワアッと会場が一際沸き立った。
主演の二人だ。
手を繋いだ二人が、大歓声の中で舞台の中央に立つ。空いた片手で観客席へと手を伸ばし、男性の方は胸に手を当て、女性の方はドレスの裾を僅かに摘んで頭を下げる。
顔を上げた女性の方を見、社員達は皆驚愕の声を漏らした。
「え」
「おや」
「……何だと?」
その驚きに答えるかのように、彼女はしっかりと国木田達へ目を合わせてきた。青の眼差しがにっこりと笑いかけてくる。明らかに社員に向けて大きく手を振ってきた彼女は、既に見間違いようがない。
役者達の中央に立つ少女。
この劇団を数日にして有名にした、希世の舞台女優、リア――もとい、クリス・マーロウ。
『是非、皆さんで観に来て下さい』
探偵社でチケットを渡してきた彼女の言葉を今更思い出す。
本当に、今更だ。
劇場が歓声に包まれ、徐々に席から立ち上がる人が増えていく。手拍子が拍手に変わる。あふれんばかりの歓喜の中で、彼女は満面の笑みで手を振り続けていた。