第1幕
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***
スタインベックは林の中にいた。針葉樹ばかりが目につくここは、いつも過ごしている大陸ではない。欧州の島国へ、彼は同僚と共に来ていた。
かたわらの木の幹に触れつつ、スタインベックは目の前の建物を見つめる。それは大きな倉庫だった。農村の外れにある、農業機械や除雪機を格納しておく建物だ。しかしそれはカモフラージュに過ぎない。現に今、拠点内部に潜入してきた戦闘系異能者の突撃により混乱が生じ、中から人が次々と飛び出してきている。
それを余さず狩るのが、スタインベックの役割だった。既に周囲の木々と感覚を接合し、その枝葉は支配下にある。
「……ギルドの財産を横取りしようだなんて、無茶なことするからだよ」
枝で逃亡者を捕らえ、その四肢を拘束し、首を締め上げる。フィッツジェラルドの指示は"皆殺し"だった。この田舎町は新興都市と中心都市の間に位置し、不埒な輩が拠点としていた。街と街とを行き来する輸送車が襲われることが多々あり、治安の悪さが問題視されていたのだ。しかもその不埒な輩というのが、本業が諜報と暗殺という組織で、法の網をかいくぐって商売を続けていた。表社会は彼らに手が出なかったのである。
そこに目をつけたのがギルドだった。この田舎町を落とし我が物にすれば何かと都合が良い。権力拡大を狙っているフィッツジェラルドの指示により、その諜報暗殺組織と協力体制を敷いて内情を探り、そして機を見て殲滅する手筈が取られることとなった。
今日はそれの集大成だ。つまり、財産の横取りなどでっち上げである。
ドオォン!
倉庫の内部から爆音が上がる。フィッツジェラルドが存分に暴れているようだ。彼に一般人が敵うわけもなく、危機を察した組織員達が次々と建物から林へと、林の向こうの隣街へと逃走を開始する。その足を絡め取り、横転させ、その柔らかな首を絞め上げる。自らの手の中で潰れていく動脈と気管の感触に、スタインベックは目を閉じて耐えた。
スタインベックの異能は木々と感覚を共有するものだ。つまり、木々を自在に操れると同時に、木々が受けた感覚はスタインベックに流れ込んでくる。幾人もの人々の体を拘束し首を絞める感覚すら、我が物のように感じていた。
「……でも、仕事だからね」
故郷には家族がいる。大人数であるそれを養うには、金が必要だった。その入手方法に文句は言っていられない。スタインベックの一番はこの手に再現されている感覚から逃げることではなく、人を苦しめていることへの罪悪感から逃げることでもなく、家族を養うことだった。ただそれだけが、スタインベックの心を支え、スタインベックの意思を後押ししている。
ふと、スタインベックは小さな足音に気がついた。子供だ。こうした諜報組織に子供は珍しくない。体が小柄なため、潜入がしやすいのだ。しかし、とスタインベックはその足音に集中する。
軽やかだった。地を蹴るよりも早く次の一歩を踏み出しているかのような。この素早さでは捕まえるのも大変だ。それに、と眉をひそめる。
相手は子供だ。子供すらも殺さなければいけないのか、と心の中で誰かが疑問を呈す。けれどこれは仕事だ、自分一人の判断で仕事を放棄すれば、給料に響く。
「……ごめんね」
故郷の妹を思い出す。
「君には犠牲になってもらうよ」
何が何でも、家族を守らなければいけない。
木々の枝を子供に向けて放つ。素早く駆けるその足首を狙ったそれはしかし、軽やかに跳ねられ回避された。ならば、と全方位からそれの全身を狙う。腕に、胴に、枝が巻きつき子供を絡め取った。
捕らえた。
スタインベックは瞼を上げた。そして、歩き出す。向かった先は、例の子供の場所。
木々の間を歩きながらも、スタインベックは木々の支配を怠らない。子供がナイフを取り出した気配。そんなものを持っていたのか、と思いつつ、枝を伸ばしてその腕を捻り上げる。細い腕を背中側に押さえつけながら、他の枝で胴を掴む。そのまま釣り上げた。これで逃げられはしない。それを完全に捕獲したと同時に、スタインベックは木々の中に蠢く葡萄の枝を見つけた。そして、その葡萄の枝に繋がった周囲の枝が、何かを釣り上げている様も。
宙吊りになっていたのは小汚い子供だった。髪にも肌にも埃や塵がこびりつき、鮮やかな青の目が異様に目立っている。暴れる足は細く、傷だらけだ。足の裏からはガラスを踏んだのか血がこぼれ落ちている。その足で草原を走り抜けようとしていたのか。少し驚いた。
子供は足の痛みを物ともせず全身で暴れている。その程度で木々の拘束から逃れられるわけもないのに、とスタインベックは肩をすくめた。
「逃がさないよ、おちびさん」
びくり、と肩を揺らして子供がこちらを見る。恐怖に見開かれた目が向けられていることに、スタインベックは苦笑するしかない。
やりたくてやっているわけではない。仕事だからやっている。けれど時に、それが言い訳じみて聞こえてしまうのだから、自分のことながら呆れてしまう。
「ボスに全員殺せって言われているんだ。跡形もなく、ね」
ぜんいん、とその枯れた唇が動いた気がした。頷き、続ける。
「皆殺しだよ。まあ全員っていうのはやり過ぎだとは思うけど、仕事だから仕方がない」
「や、め……て」
か細い声は震えている。
「だめ……わたしは、だめ」
言葉足らずな言い方にスタインベックはふと疑問を覚えた。わたしは駄目、と聞こえた。それは死に直面した人間が放つ言葉だろうか。それとも見た目よりも幼い年で、語彙が少ないからだろうか。
「んー」
そう言われてもねえ、と言いつつ考える。この違和感は何だ。まるで触れてはいけない爆発物の解体に臨んでいるかのような。
けれど、これは仕事なのだ。子供の首元に枝が絡まる。恐怖に潤む目が拒絶を示す。きっとこの違和感は罪悪感が形を変えたものだ、と結論付けた。躊躇しているのだ、幼い子供を手にかけることに。
けれど、やらなければならない。
故郷のために、妹のために。
「スタインベック君」
思考はその声で中断された。振り向けば、別行動をしていたフィッツジェラルドが悠然と歩いてくる。整えられたスーツは血糊一つなく、袖口に僅かに煤がついているだけだ。服を汚さないまま戦う技術でも身につけているのかな、と心の中で呟く。
「おや」
フィッツジェラルドの目が子供を認める。驚いたように目を見張りつつ、その大股な足取りをそのままにスタインベックの横を通り子供の目の前で立ち止まる。
「何だねこれは。ゴーレムの孫か」
「人間ですよ、フィッツジェラルドさん。逃げようとしていたので捕まえたんですが、要ります?」
「皆殺しだと言ったはずだが?」
「そうでした。じゃあ遠慮なく」
命令ならば、どんな結末が待っていようと遂行する。枝が子供の首に密着し、締め上げる。恐怖を映した表情が苦しげなものに変わる。爪を立てるも敵うわけもなく、その付け根から血が滲み始めた。痛々しい。
――ふと。
頰に触れる感触。風か。しかし妙だ。
ただの風ならば、肌に触れただけで意識することはない。現に今日は無風ではなかった。今更、なぜ気になってしまったのか。
ぞ、と背筋に何かが走る。
――この怖気は何だ。
「待て」
フィッツジェラルドが呟くように、しかしはっきりと発音する。反射的に木の枝を緩めた。どさり、と子供が落下する。咳き込む子供を、スタインベックは見つめた。喉を押さえてうずくまるその子供を、その小さな姿を、見つめる。子供と同じように自分の喉に手を添えてしまったのは、そこに感覚がまだ残っているからだ。
――冷たい刃を当てられたかのような感覚が。
さっきのは何だ。そのまま放置し続けていたら、そのまま首を切り離されていきそうな、そんな恐怖を伴う鋭さ。
あのまま、この子供を絞め殺していたら、どうなっていただろうか。
「一つ訊く」
フィッツジェラルドが子供を見下ろして張りのある声で言う。子供はというと、苦しげにしつつもしっかりとフィッツジェラルドを見上げている。意志の強い子だ。数人の敵に囲まれているというのに、その眼差しには恐怖こそあれ震えはない。
――だめ……わたしは、だめ。
否、とスタインベックは気がついた。
あの時、この子は怯えていた。死を眼前にして、身を竦めていた。
死よりも何かを恐れる目をして、震えていた。
「長の居場所はどこだ」
フィッツジェラルドの問いに子供は答えなかった。黙って敵の長を見つめている。強く、睨み付けるように、拒むように。
「長の居場所、って……フィッツジェラルドさんは建物の中をくまなく見てきたのでは?」
「ああ。だが姿がなかった。逃げられたか、隠れているか……構成員なら何かしら情報を持っているだろう」
「少なくとも外には出てきませんでしたよ」
「頭を潰さねばこの手の組織は何度でも蘇る。俺達には痒くもない規模の組織だが、視界の端を走り回られては邪魔だ、この際徹底的に潰したい。そのための捕虜だ。拷問でもして吐かせれば良い情報源になるだろうからな」
なるほど、とスタインベックは頷いた。この組織を壊滅させるのが当初の目的だが、組織というものは長が要だ、長を潰さなければ壊滅とは言い難い。ここに目標の人物がいなかった以上、次に繋がる一手を考える必要があるということだ。
けれど、とスタインベックは足元にうずくまる子供を見下ろす。体の小さな、埃まみれの子供が組織の要である長の居場所を知っているとは思えない。捕まえるなら上層部の人間なのではないだろうか。
ようやく呼吸の落ち着いてきた子供が、ふと瞬きをした。普通の、よくある生理的な動きだ。しかしその小さな動きが目についたのは、瞼の下で輝いた色が生気のある鋭い輝きを放ったからだった。
まるで刃を思わせる、青。
それを人は――殺意と呼ぶ。
「フィッツジェラルドさん!」
叫んだ。それよりも先に子供は動いていた。地面に落ちていたナイフを素早く拾い上げると同時に体ごとフィッツジェラルドの懐に突っ込んでいく。体当たりのような突撃と共に、その胸部へとナイフを突き立てた。
「な……!」
フィッツジェラルドが驚愕に呻く。長身がよろめき、後方に下がる。
「フィッツジェラルドさん!」
急いで駆け寄り、その胸部を覗き込んだ。
しかし。
「……え」
そこにあるのは、汚れ一つない、白く上品な布地のスーツ。
傷はどこにもなかった。
「……嘘」
呟くような声に振り返る。子供が、両手を眺めながら目を見開いていた。まるで手の中にあったものが突然消失したかのように。
その小さな両手から粉のようなものがキラキラと風に吹かれて飛んでいく。
「ごめんなさいね、おチビちゃん」
朗々と艶めいた声が歩み寄ってくる。それは荒廃した建物とは不釣り合いのドレス姿で、スタインベック達の背後に佇んだ。
「――アタシ達、ただのあらくれ者じゃなくてよ」
つば広の帽子の下で目を細めたその女性は、不満そうに大きくため息をついた。
マーガレット・ミッチェル。風化の異能力者。あの一瞬で、ナイフを風化させたのか。
「アタシをおいて先に行かないでもらえます? あんな汚い場所で置いて行かれて、やっと追いついたと思ったら修羅場だなんて」
露骨に眉を潜め、ミッチェルはちらとスタインベックを見遣った。もちろん、その顔は不満げである。置いて行かれたのが相当許せないのだろう。が、置いて行かれたというよりはフィッツジェラルドが窓枠なりフェンスなりを越えて行ってしまったため、ついていけなくなったのだと予測がつく。誇り高き彼女には高い障害を飛び越えるような、曰く”貧民街の人間のような動作”はできない。
「子供相手に油断しすぎじゃなくて?」
「返す言葉もないです」
「死ねば良いのに」
ふん、とそっぽを向かれてしまった。お嬢様たるミッチェルの対応は、庶民であるスタインベックには手に余る。これ以上機嫌を損ねないよう、ここはへらへらと笑って受け流すのが最善だろう。
「それで?」
スタインベックの心配をよそに、ミッチェルが子供へと目を向けた。つまらないものを眺めるようにそれを見下ろす。
「これは何? 隠し子?」
そう言ってちらりとフィッツジェラルドを見るのだから、不機嫌な彼女は全く手に終えない。
「大層な冗談だな。年が合わんだろう。どう見ても十五かそこらだ」
「それもそうね」
フィッツジェラルドの機嫌は平常のようで良かった。
「……あなた、が」
ふと。
声が、聞こえた。