[知らぬ者、守る者]
05. 牙剥く黒衣 -3ここらへんの話。
あの乱歩さんが夢主に気をかける理由の話でもある。探偵社設立秘話の内容を含んでいます。
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それは、遠い日の記憶だった。舞台の上に立つ一人の青年、彼の高らかな声音が
木霊する劇場内――彼は言った。「人間の生」を演じることこそが自らの仕事なのだと。「自分ではないものになり、存在しない人生を立ち上げ、人間とはなにかをさらけ出してみせるのが僕の仕事だ」と。そして「人間の生」に「死」が含まれると気付いた時、彼は自らが目指すべき究極を知った。
死を演じるという困難に挑んでしまった。
そんな、狂気じみた役者が起こした小さな事件が、かつてのヨコハマで起こったのである。
「意外でした」
ポートマフィアによる探偵社襲撃の後、警察からの依頼をも終えた乱歩へと電車の中で隣に座った敦は言った。
「何が?」
「あのチケット争奪戦ですよ。今だから尚更不思議で……乱歩さんはああいうのには参加しないものかと」
敦が言っているのは出かける直前に行われたじゃんけん大会のことだ。谷崎とナオミの負傷により余った演劇舞台の観覧チケットを巡って、社員らとじゃんけんをしたのである。無論名探偵がその手の戦いで負けるわけもなく、チケットのうち一枚は乱歩のものとなった。
「まあね」
咥えた棒付き飴を口の中で転がす。窓を背面にした長椅子の中央で、乱歩は車両の天井を見上げた。
銀色の丸みのある鉄板が窓の外の陽光を反射している。
「あれは特別」
「特別、ですか」
「あれ以外の演劇なんて見る気もしないね。始まった瞬間全部わかっちゃうし」
「ええと……確か明日の舞台は恋愛もので……あ、そうか、推理もの以外なら観れるってことですか?」
「推理もの以外も嫌い」
「えええ……?」
「答えのわかっているクイズを一時間かけて解かされる身にもなってよね」
言えば、敦は「わかるようなわからないような……」とぶつぶつと呟いた。
――演劇はつまらない。
劇に限らず、創作物は全て退屈だ。冒頭だけで結末がわかる。ナオミには「その結末に至る紆余曲折が面白いんですわ」と言われたものの、さほど興味は湧かない。見ればわかる答えについて延々とヒントを告げられているようなものだ。ものすごく鬱陶しい。無論、それを楽しむ人間が一定数いることは理解している。自分以外の人の多くがそうであることも把握している。
――僕が死を演じた最初の役者だ!
乱歩にとって陳腐でしかないそれに、命を賭ける者がいることも知っている。
――わたしには、叶えなくてはいけない夢があるんです。
それに縋るしかない者がいることも。
「……可哀想なものだね」
口の中の飴玉を舌で転がす。
「どんなに頑張ったって、その結末が間違っているんだもの、報われやしないのに」
それでも、人は求めるのだ。足掻くのだ。夢という名の幻を追って、乱歩にとってはわかりきっている結末をその目で見ようとして、努力するのだ。
究極の演技というエンターテイメントを求めた挙句、観客に死というショッキングなものを見せつけてしまった青年のように。
亡き友の夢のために安寧を捨てて舞台に立ち続ける、操り糸の絡まった少女のように。
「哀れで……愚かな子供達だ」
乱歩の声は電車の音にかき消され、敦の耳には届かない。
「ええと、つまり……明日の舞台は、乱歩さんでも答えがわからないクイズ、ってことですか?」
懸命に辿り着いた回答なのだろう、たどたどしく言う敦へと乱歩は改めて顔を向け、そして。
「……何それ?」
敦の努力をぶち壊す一言を告げた。
「な、何って……! 乱歩さんが言ったんじゃないですか! 『あれ以外の演劇は見る気がしない』『答えのわかっているクイズを一時間かけて解かされる』って! つまり、乱歩さんでも結末がわからない劇だから、明日の舞台は『特別』なのかなって……」
「僕が見抜けない真実があるわけないじゃん」
「ですよね!」
敦の笑顔はあっけらかんとしていた。諦めたとも言える。乱歩さんの思考を僕なんかが解読しようとしたのが間違いだった――そんなところだろう。敦はその境遇からか、自己肯定感が低く思考放棄が早い。
「ま、君にしては悪くはないね」
にいやりと笑い、乱歩は棒付き飴の棒に歯を立てる。座席の背もたれにどっかり寄りかかりつつ、足を組み、後頭部で手を組んだ。
「僕は元々天才だったからさ、君達凡人の考え方が全然わからなかった」
「……はあ……」
「でも、彼女の舞台は僕すらも凡人になれる。あの脚本の中の視点で物語を見ることができる。彼女の演技力はそういうものだ。観る者聴く者全ての魂を――自我を、思考力を失わせる。どんな天才も、異能者も、彼女の望む『役』にされる」
その衝撃を、乱歩は忘れることができない。
舞台を見ていても何もわからなかった。役者のことも、登場人物のことも、その後の展開も。異能力『名推理』すら失い目の前の物語をただ見つめるしかないあの時間は、虚無に近い、けれど先の読めない不安すら気付けない、不鮮明で不可解なものだった。
乱歩が永遠に知ることのできないはずだった、凡人の感覚だった。
乱歩が未来を見通せないひととき――その「特別」を引き起こせるのが、あの哀れな少女の舞台なのだ。
「君達にとってのこの世界は面白いものだね。何もわからない! 事件の犯人はおろか、他人の経歴も今後起こり得る事態も、何も! 納得したよ、君達が無駄なことをたくさんする理由に。とても興味深かったし僕の偉大さを再認識できた」
「…………はあ…………」
敦は「全くわかりません」とばかりに頷いた。その頬をつついてやれば、「なにしゅるんでしゅか」と聞き取りにくい声を上げる。「別に」と言えば、敦はさらに混乱したようだった。
――彼はまだ知らない。
この世界の愚かさも、自分の愚かさも。
そしていつか知るのだろう。自分の実力を、可能性を、限界を。自分だからできることと、自分一人ではどうにもならないことがあることを。
人は誰もが、全てを知らないまま生きている。福沢に会う前の乱歩もそうだった。あの青年も気づかないまま究極を求め、あの少女も己に絡まる操り糸の正体を知らないまま舞台に立ち続けている。敦もそうだ。彼が身に受けてきた困難、これから目の当たりにする運命。彼らが気付いていないそれらを、今の乱歩は知っている。
だからこそ。
「この僕が、守ってあげなくちゃね」
名探偵江戸川乱歩にはそれができるのだから。
「ら、らんぽひぁん? なにふぁ、あの、つつかないでくだふぁ……」
「案内役としてはまあまあだったかな」
「ほへ……?」
敦の頬から指を離す。乱歩につつかれた頬を片手で押さえつつ頭上に「?」マークをいくつも浮かべた敦へ、乱歩は続けた。
「合格点とまではいかないけど、最初はこんなもんでしょ。今後に期待だね」
「……今後……」
突然の話に、敦の頭はしっちゃかめっちゃかになっているようだ。けれど、自分に「今後」があるという事実――乱歩のお供にまた連れ出してもらえるという事実にようやく気付き、その顔が徐々に眩しいものへと変わっていく。
「……はい! 僕で良ければ!」
「よろしい。じゃあ探偵社に戻る前に駄菓子屋に案内して」
「了解です!」
今の乱歩は財布を持っていないという事実を忘れている敦が満面の笑顔で頷く。それへとニイと笑みながら、乱歩は小さくなった飴玉を噛み砕いた。
「ところで太宰は?」
「はい? 太宰さんなら僕の隣に……あれ?」
――帰社後、すっからかんになった財布を手に国木田から太宰放置のお小言をもらうことを、この時の敦はまだ知らない。