[悲しみの結晶は青く]
探偵社がジッポのマークのバーから夢主の過去に関する調書を手に入れた後、
19. 逃れ得ぬもの -3の直前の話。
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ジッポの看板のバーで情報屋から茶封筒を受け取り、国木田は探偵社へと戻った。すぐさま会議が行われ、太宰と乱歩との三人で中身を確認したのがつい先程のこと。
情報屋から入手した資料はいわば調書だった。とある人物に関する履歴書のようなものだ。どこで生まれ、どういった経歴の後に今に至るか――平凡な人間であれば紙一枚で済むようなものである。
が、記述の対象である彼女は平凡な人間ではなかった。
「……嵐、か」
自身の額に手を添えつつ国木田は唸る。
以前、敦が次々に持ち込んでくる厄介ごとを「嵐のよう」と思ったことがある。ギルドの襲撃を受け拠点を晩香堂へと移した頃のことだ。福沢のように冷静沈着に物事へ対処できていない自分への不甲斐なさと同時に、ポートマフィアやらギルドやらと次々に抗争へ対処しなくてはならなくなった現状を憂いての比喩だ。その嵐は今も続いている。国木田の予定を乱し国木田の理想を試している。
嵐。
それは、人ひとりの力ではどうにできないほどに強大で凶悪な、暴力。
それと同じ名の異能を持つ少女が、今探偵社に捕らえられていた。
「……
クリス」
社屋を出、一人目的の部屋へと向かう国木田の呟きは小さい。
英字で記された調書を読んだ三人の感想は一様だった。「これが本当だったなら対策を講じなくてはいけない」――そう、「本当だったなら」、だ。調書の記述は
クリス本人の言葉ではない。ギルドから差し向けられた調書を全面的に信じることはできなかった。彼女から直接話を聞く必要がある。
彼女が背負わされている、罪の話を。
とはいえ三社戦争にてあれほどの手腕を見せた諜報員が安々と身の上話をするとも思えない。舌を嚙み切ったり服毒したりという可能性もないわけではなかった。周囲を武装者で固め脅すように取り調べるではなく、信頼を得た上で同じ目線で彼女と話をすることが望ましい。太宰と乱歩の提案、そして自らの申し出により、国木田が一人で
クリスと対面することが決定された。
国木田は探偵社員の中で最も
クリスと親しい。けれどそれが彼女から告白を引き出せるというわけではないだろうことは既にわかっている。
それでも、国木田は彼女に会いに行く。
それが仕事だった。そして、ようやく与えられた機会だった。
彼女のことを知る、やっとの機会だった。
「……っ」
とある一部屋の扉の前に立ち、国木田は一つ息を吐き出す。以前はポートマフィアの尾崎紅葉が捕らえられていた部屋だ。扉には鍵がついており、見かけは普通のドアノブだが実際は内側から開錠できないようになっている。が、太宰は何を思ったか紅葉に対し鍵を使用しなかった。そして紅葉も逃亡の様子さえ見せなかった。
けれど今は、彼女自身の希望で鍵を使用している。
「
クリス」
そっと扉を手の甲で叩く。名を呼ぶ。耳をそばたてる。
返事はなかった。
「……
クリス?」
珍しい、と言うよりは、意外、だった。
彼女の正体を知らなかった頃、
クリスは国木田の声や仕草によく反応した。名を呼ぼうとしただけでこちらを見、手を伸ばそうとしただけで身を縮ませ、けれどそれらの過剰な反応を誤魔化すかのように明るく笑う。当時は女性特有の警戒心か彼女自身の聡明さによるものだろうと思っていた。けれど今ならわかる。
彼女は、恐れている。
身の回りの全てが敵であり、国木田もまた敵だから。
敵の動きを観察し、予兆を探っていた。だから何に対しても反応が早かったのだ。
再びノックをする。やはり返事はない。少しの嫌な予感が脳裏を掠める。彼女は追われる者、そして元とはいえ諜報員だ。それもかなりの腕前の。
――舌を嚙み切ったり服毒したりという可能性もないわけではない。
「……入るぞ」
一言断りを入れ、国木田は胸元から取り出した鍵を鍵穴に差し込む。カチリ、と音が聞こえてくる。それでも扉の向こうで誰かが動く気配はない。
ドアノブを握る。回し、引く。
扉の内側は六面体の簡素な部屋があるだけだ。窓は嵌め殺しのものが一つ、ブラインドは下がりきっているものの外が見える角度になっている。家具は机と椅子とベッド程度。机上には電動湯沸かし器と数種類のティーパックが置いてあるが、それは紅葉が要望したものがそのままになっているだけだ。
少女の姿はすぐに見つけられた。ベッドの上で膝を抱えるようにしてうずくまっている。壁に肩を預け、窓の外を眺めるようにしていた。以前立ち入った時と同じだ。ポートマフィアとの共同作戦により太宰が戦線へ赴いた夜、月明かりのあるあの夜、彼女はやはりその姿勢で国木田へと静かに口を開いた。
――今夜は月が綺麗ですよ。
けれど今日は違う。
クリスに動きはない。すう、という微かな吐息の音を聞き、もしやと国木田は彼女の顔を覗き込んだ。
あの青の眼差しは――閉じられていた。
眠っているのだ、と即座に気が付いた。うとうとというよりはしっかりと。でなくては国木田の接近に彼女が気付かないとも思えない。そして今は夜ではない。
寝る体勢ではない体勢で、時間に関わらず、静かに眠っている。
――慣れているのだ、と気が付いた。
あの調書には
クリスの過去が書かれていた。彼女の、普通ではない生き様が書かれていた。もしあの記述が本当なら、彼女が布団の中で横になって眠ることは一度たりともなかったはずだ。それほどに過酷な宿命があの紙には、そして持ってきていた茶封筒の中の紙には記されていた。
彼女は、普通の市民ではない。
知っている。知らされた。この少女は、探偵社の権力を駆使したとしても守り切れない人間だ。それどころか軍警に差し出すべき犯罪者であり、内々に殺害して存在を秘匿しなければいけない類の危険人物だ。
「……
クリス」
名を呼ぶ。この声に感情が滲んでいなければ良いと願う。ベッドにそっと膝を乗せ、静かに眠り続けるその頬へと手を伸ばす。
触れることができれば、この平穏な寝顔が現実のものだと確信できれば――茶封筒の中身は全て嘘で、彼女は至って普通の子供だと、そう言い切ることができる気がした。
けれど。
「……ん」
まつげが震える。瞼が動く。閉じられていた青が、そっとその色を露わにする。
夜明けだ、と思った。
獣の鳴き声すらしない深緑の森の中、木陰に隠れた湖に差し込む、朝の光。
「……すまない」
思わず口に出したのは謝罪の言葉だった。見てはいけないものを見てしまった気がした。触れてはいけないものに触れようとしていた心地がした。
国に追われる異能兵器。全てが敵であり、国木田もまた敵にしかなれない孤独な子供。生き物の気配を失った静かな湖畔を眼差しに宿す、寂しさを固めたような少女。
やはり――彼女は、普通の人間ではない。
これほど悲しい事実が他にあるだろうか。
何も言えないまま固まる国木田の思考を知る由もなく、
クリスは観察するように国木田を眺めてくる。そういえば、と国木田は即座に今の状況を冷静に分析した。女性が眠っているベッドに身を乗り出し手を伸ばしている男――どう考えても非常によろしくない。
「いや、別に、何をしようとしたわけでは」
「……夜這いですか」
「よばッ……ち、違うぞ! そもそも今は昼で、俺はあなたに話があってだな!」
「冗談ですよ」
こちらの焦りを気にもしない様子で素っ気なく言われてしまった。顔色は良い。夢見も悪くなかったのだろう。
国木田を無視するかのように、
クリスはのんびりと伸びをする。その悠々とした態度はまさに国木田が知る彼女だ。少しの事に動じず、常に陽気な性格を見せつけ、自分のペースへと相手を引きずり込む。
けれど今日は、こちらが話の主導権を握らなくてはいけない。そして、彼女に伝えなくてはいけないのだ。
『これが本当だったなら対策を講じなくてはいけない』
――調書の内容が本当でなければ良いと、やはり思わずにはいられなかった。