[うつせみのまこと]
最初の頃、爆弾騒ぎ(
02. 爆弾咲く夜 -1)の後~敦君登場の間くらい。
国木田さんの手帳を盗み見る話。
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武装探偵社。曰く、軍や警察でも手に負えない危険な仕事を請け負う探偵集団にして、民間人とマフィアが共存する街ヨコハマを守護する武装集団。聞けば、マフィアと並んで犯罪組織から恐れられているのだという。マフィアと同列の組織というのだから、街の闇を駆ける予定の者としては油断ならない。
そんなことを思いながら、
クリスは駅前の広場でぼんやりと空を見上げていた。太宰、そして国木田という二人の武装探偵社社員に出会ったのは先日のこと。あの二人以外にも社員はいて、誰もが優しく親切だ。探りを入れがてら劇団のチケットを人数分渡したが、まさか全員が揃って来てくれるとは思わなかった。一人くらい人付き合いの悪い人がいるかと思ったのだが、どうやら彼らは総じて仲が良く、ノリが良いらしい。となれば、扱いやすい部類だろう。探りを入れてはいけない人間を見極めさえすれば、簡単に懐に忍び込める。
そして今把握している警戒対象は、江戸川乱歩と太宰治、この二名だ。他は恐らく
クリスの演技力を見抜けないので問題ない。あとは、社長か。未だ出会ったことのないその人を思う。
マフィアに並ぶ異能集団の長。思い出すのは元上司だった。あの程度の社屋で満足できる人なのだからあの脳筋金持ちとは同系列ではないだろうが、おそらくは彼同様一筋縄ではいかない。社員達の結束が高いとなれば、あらゆる情報が世間話として彼の耳に届くのだろう。そう考えると一番良い案は、あえて信憑性のある情報を流しておくことか。
いや、と否定の声が自分の中から湧き出てくる。顎に手を当て、
クリスは俯いた。乱歩がどれほど把握できているかはわからないが、それを操作するのはかなり難しい。そしてあの、
クリスと言葉を交わすまでもなく異能の者だと見抜いて来た頭脳明晰さだ、それを安易に広める危険も大いにわかっているに違いなかった。あれほどの頭脳に一般人が頼らないわけがない、社長がどんなであれ、乱歩に今後の判断を仰ぐ可能性は高い。であれば
クリスが危機に直面する機会はそうないはず。当面の間は警戒するだけで良さそうだ。
よし、と思考に一区切り打ち、
クリスは顔を上げた。首輪にリードをつけた犬が目の前をとことこと通り過ぎていく。広場には民間人が
クリスに気付かぬまま行き交っていた。殺人に手慣れたただならない異能者がここにいることなど、誰も気付きようがない。きっと今ここで爆弾を手にしようとも、彼らは恐れおののくでもなく呆然とその場に突っ立っているのだろう。
これが平和、か。
――見知った世界とは違いすぎる。
「
クリス」
ふと聞こえて来た声に
クリスはそちらを何気なく見た。長い足で歩み寄ってくる長身の男。几帳面さがにじみ出る服装に髪型、飾り気のない眼鏡。先の長さの揃った靴紐と首元のタイが彼の生真面目さを表している。体幹のしっかりとした歩き方、重心の安定感。細身ではあるものの筋力があり、彼が戦闘慣れしている様子が窺えた。
武装探偵社社員、国木田独歩。
――この街で一番最初に目をつけた、ターゲットだ。
「こんにちは」
にこりと笑えば、国木田は困ったように微かに目を逸らす。女性慣れしていない仕草だ。あまり強く押しすぎると警戒される。彼の身につけている時計等の装飾品からするに年収はほどほど、だが女に貢ぐほどの余裕はないと見た。手の届かない妖艶さよりも親しみのある無邪気さを出した方が相手の興味を誘えるだろう。
「それで。用と言うのは」
きっちりとした口調で国木田が問うてくる。前置きのない単刀直入な物言いは、彼の愚直さが現れたものだ。
クリスのようにそれっぽく嘘を言うこともないだろうし、太宰のように何かを隠したり思わせぶりにしてくることはない。口は硬いが話して来る内容は全て誠、つまり正誤の判断がしやすくこちらも話が進めやすい。そして太宰とのやり取りの様子を見ていればわかることだが、どうやら彼は嘘や偽情報に引っかかりやすく騙しやすいようだった。
最適な駒だ。最適すぎて乱歩や太宰が仕掛けた罠のような気もしてくる。
「以前のお礼がしたくて」
にこにこと楽しげな様子で言えば、やはり国木田は不思議そうに目を瞬かせた。
「以前?」
「爆弾騒ぎの時に助けていただきましたから」
「ああ、あれか。大したことではない、気にするな」
と言われはするものの、気にしないわけにはいかない。何と言っても良い機会だ。国木田に怪しまれずに近付ける。上手くいけば探偵社の内情も探れるし、乱歩や太宰を牽制できる。
これは良い機会なのだ。逃してなるものか。
「いえ、是非。それに、探偵社という方々について詳しく知りたくなりました。お話を聞かせていただけませんか?」
「話、と言われても……」
「何でも結構ですよ。国木田さんが活躍されたお話、たくさんお聞きしたいです」
ぽんと両手を合わせ、首を傾げてみせる。身長差を利用し僅かに上目遣いをしてみせた。が、国木田は狼狽することなくフイと横を向いて眼鏡を押し上げる。
「部外者に話せるような良い話はない」
予想を外した反応に、
クリスは思わずきょとんとした。意外だ。女性慣れしていないにしては意志が強い。それに、一般的に男性は自慢話が得意だ。なのに彼は今。
まるで、思い出したくないことを思い出しかけたかのように。
――彼のことを少し、見誤っていたかもしれない。
「そうでしたか」
さらりと言い、
クリスは一歩国木田へと歩み寄った。パーソナルスペースに強引に立ち入る動作。国木田は僅かに後ずさりする。その首元へと手を伸ばした。
「緩んでますよ」
嘘を言い、タイを結び直す。最後にポンとそれを叩いて「直りました」と微笑めば、至近距離からの笑みと思わぬ接触に国木田は硬直した。女性慣れしていない上、接触経験も浅いか。だというのに、と
クリスはそっとあの日のことを思い出す。
爆弾を設置された部屋に放置されたあの時、国木田は
クリスのために部屋へ突入してきた。そして迷いなく
クリスを抱き抱え、迷いなく窓から脱出――あれは
クリスを女性ではなく一人の人間として見たからこそできた行動だったということか。
――異能者でもなく、殺人鬼でもなく、ただの、一人の民間人として。
「どうした」
黙り込んだ
クリスに国木田が問う。何かおかしいだろうか、と自身の服を見回し始めた彼へ、
クリスは「いえ」と首を横に振った。
「少し……ぼうっとしていただけです」
微かに胸に灯った喜びは、きっとあなたには理解できやしない。
***
あの後二人で近くの喫茶に入ることになった。国木田は「予定が」などと不満そうだったが、やはり
クリスが「礼をしたい、話がしたい」と言い張ったところため息一つついて諦めてくれた。物分かりが良いし頭ごなしに批判してこない、人付き合いの上手い人だ。その優しさが太宰の奔放さを助長している気もするが。
さて、と
クリスは国木田がトイレに立っている間に手にした手帳を開く。彼がトイレに立ったのは、服に珈琲がかかったからだ。彼がカップに口をつけた瞬間を狙って「国木田さんとお付き合いしている方は幸せですね」と脈絡もなく話を振った。結果、国木田は見事に珈琲に噎せた。珈琲を慌てて拭き取ろうとした隙に、手帳を引き抜いたのである。
「さて」
パラパラとページをめくっていく。一瞥すれば大抵の書類は覚えられる
クリスだが、この几帳面で漢字の多い文面はいささか難易度が高かった。が、不可能ではない。パラリ、パラリとページを繰る。手帳には国木田の予定がびっしりと書き込まれていた。見ていて疲れてくる。なぜ、駅に向かうまでの徒歩時間すらも記入してあるのか。
「……うーん?」
これは、と
クリスは唸らざるを得ない。
「……もしかしなくてもかなりの堅物かもしれない」
予定が、予定が、と言っていたのは、この書き込まれている秒数すらも守ろうとしているからか。彼の同僚はよく一緒に仕事ができるものだ、おそらく太宰のように堂々と自分の時間を過ごせる人でないと苦しいだろう。思えば彼の同僚は皆、どこか自由奔放であるようだったから心配ないのかもしれない。
それに。
「……大根の最安値表……理想の相棒像……」
奇妙な項目まで出てきた。
「……理想の、女性像……?」
これまたとんでもないものを見ている気がする。顔色一つ変えず内容を流し読み、ページをめくった。残りのページも読み進め、そしてパタンと手帳を閉じる。しばらく沈黙した。
「……何だこれ」
一言で感想を言うならばそれである。書いてあることに間違いはない。確かに、素晴らしい。がしかし、それをあの生真面目が服を着ているかのような男が几帳面に書き留めているのかと思うと、思うところがないわけではない。
無理だろ、特に女性像の内容は。
しかも、と
クリスは手の中のそれを呆然と見つめる。
「……弱点の塊だ、これ」
何を好み何を厭うか、その全てが書かれている。それは国木田への取り入り方の目安を
クリスに示しているのと大差なかった。何をすれば気に入られ、何をすれば非難されるか、つまり「国木田の扱い方」とも読み替えられるであろう内容である。そんなものを持ち歩いているのか。自殺マニアよりもよほど自殺行為だ。
そして、と
クリスは最初のページをめくり、そこに書かれた一文を読む。
『すべきことをすべきだ』
その語尾の強い言葉が、おそらくは国木田の一番の指標なのだろう。
「……すべき、こと」
クリスにとってのそれは、生き延び逃げ切ることだ。他者を虐げ力の頂点にい続けること、全てを騙し全てを殺していくこと。
ならば。
彼にとってのすべきこととは何だろう。手帳に書いてあることを全て実行することか。しかしそれは無理の領域だ、叶うわけがない。
なのに、書いているのか。実行しようとしているのか。実際国木田は『理想』と大きく書かれたこの手帳に道標のように全てを書き込んで、何度も読み直して、秒も違わずに実行しようとしている。
無茶だ。できるはずがない。こんな夢物語が現実にできるというのなら。
――わたしはこんな生き方をしていない。
ふる、と首を強く振って思考を掻き消す。考えるべきはそこではない、他人のことなど知ったところでどうしようもない。手帳に書かれた国木田の胸中は全て暗記した。これからがやりやすくなる。
ただ、それだけだ。
そっと国木田の席の下に手帳を置く。慌てて手洗いに向かう際に落としたのだと思わせるためだ。読まれたことに気付かれてはいけない。
国木田は、
クリスにとって都合の良い手駒でしかないのだから。
「すまなかった」
国木田が焦った様子で戻ってくる。そして席の足元に落ちていた手帳を見つけ、安心したように迷いなくそれを拾い上げて胸元に戻した。盗み取られたのでは、などと疑いもしない。純粋無垢な理想家。決して叶うはずのない理想を追う夢想家。
それが、国木田独歩か。
「こちらこそすみません、大丈夫でしたか?」
形の良い笑みで国木田へと微笑む。見た目だけ取り繕っていれば、国木田は
クリスを信用してくれるだろう。そうしていつか、彼は絶望の底に叩き落とされる。全てが救われる世界など実現するわけもない。
彼とは一生わかり合えることはなさそうだ。そう思った。
――そう、願っていた。